自分だけの感動体験が集まり世界を変えていく。 共感から生まれるイノベーション。

15歳でギタリストとしてデビューし、エンジニア、コンサルタントと多彩なキャリアを歩む松永さん。青山学院大学の教授として活動する今、大事にしているのは「共感のコミュニティ」だと言います。松永さんが考える「共感」とは?そのお話を伺いました。

松永 エリック・匡史

まつなが えりっく・まさのぶ|青山学院大学地球社会共生学部教授/アバナード(株) デジタル最高顧問/音楽家
1967年、東京生まれ。幼少期をドミニカ共和国など海外で過ごす。15歳からプロのギタリストとして活動。バークリー音楽大学を経て、青山学院大学大学院 国際政治経済学研究科 修士課程修了。大手メーカのシステムエンジニア、AT&Tを経たのちコンサル業界に。アクセンチュア、野村総合研究所、日本IBMを経て、デロイトトーマツ コンサルティング メディアセクターAPAC統括パートナー、その後PwCコンサルティング デジタルサービス日本統括パートナーに就任した。現在は、青山学院大学地球社会共生学部教授、アバナード(株)デジタル最高顧問、事業構想大学院大学客員教授。

音楽との出会い


東京都世田谷区に生まれました。父が仕事で中南米のドミニカ共和国に赴任していて、2歳半くらいになったとき、私も母と一緒に海外へ。父と一緒に暮らすようになりました。

すると、環境が一変。母方の優しい祖父母と違ってとても厳しい父で、何をしても「お前はダメだ」と言われていました。父方の家は、東大を出て財閥系の企業に入るのが当たり前の、いわゆるエリート家系。何かができても、褒められないどころか、常に否定されていましたね。理不尽だと感じることもありましたが、とにかく父が怖くて怖くて、何も言えませんでした。

家に居場所はなかったので、外で友達を大事にするようになりました。ドミニカは貧富の差が激しくて、私の家にはお手伝いさんが4、5人もいるのに、一歩外に出るとガリガリに痩せた裸足の子たちがいる世界。その違いにびっくりしながらも、友達をつくり、その子たちと一緒にいる時間を大切にしていました。

小学6年生のとき、父の転勤で帰国し東京・吉祥寺の小学校へ転入しました。いろいろな子たちと仲良くし友達を大切にしてきた経験から、人に溶け込むのはうまくて、すんなり馴染みました。特に転入したクラスはみんな仲が良く、本音で語れる関係性がありましたね。

吉祥寺は駅前に楽器店があり、そのまえを通るうちに綺麗だなと興味を惹かれました。入ってみると、お店のお兄さんたちが、楽器を弾かせてくれたんです。実際に音を出してみると楽しくて、それがきっかけでギターをはじめ、音楽が好きになっていきました。

また、その頃、同級生の裕福な家庭の子が、誕生日にシンセサイザーを買ってもらっていて。家に遊びに行ったとき触らせてもらうと、それはいろいろな音を創り出せる魔法の箱で、すごい可能性を感じました。楽器はすでにある音を出すけれど、まだこの世にない音を作るってすごいなって。トランペットのような楽器の音やセミの鳴き声を作ったりして、夢中になって遊びましたね。

中学生になると、様々な音楽を聴くようになりました。特に、初めて洋楽を聞いて衝撃を受けたんです。すごく綺麗な歌声。歪んだギターの音にピアノが絡んできて。「こんな音楽世の中にあるんだ」と感動しました。さらに、そんな高音の綺麗な歌声を響かせていたのは男性だったんです。衝撃でした。「うわ、かっこいい」と、どんどんはまっていきました。

土曜日に半日授業を受けて、14時からラジオでレコードのヒットチャートを聴くのが楽しみでした。1980年代、イギリスとアメリカのヒット曲が混ざっていて、ありとあらゆるジャンルの音楽が聞けたんです。今までなかった新しい音楽がバンバン生まれてくるのを、ワクワクしながら聞いていました。ヒットチャートは、まるでおもちゃ箱のようでしたね。

15歳でプロのギタリストの道へ


音楽にのめり込み、ギターの演奏も上達する一方で、心には自己否定が渦巻いていました。何をやっても父から否定されるのは続いており、やがて自傷行為が始まりました。自分では、どうしようもない虚無感。この世から消えたいという気持ちと常に戦う日々が続きました。家には居場所がなく、楽器を奏でている瞬間だけ生きている実感がありました。

そんな中で15歳になったある日、人づてに紹介を受けて、プロのライブに出演させてもらうことになりました。TVの仕事でした。それをきっかけに、図らずも、ギタリストとしてお金をいただけるようになったんです。当然父には言えないので、友達の家にギターを置かせてもらい、バレないように高校に通いながらプロとして音楽活動を続けました。だから活動には常に罪悪感がつきまとっていました。

父にいつも否定されていたので、褒められることに飢えていたのでしょう。誰にでも「うまい」と言われるとすごく嬉しかったです。アマチュアに褒められるのとは違って、一流のプロに「うまい」と言わせるのはすごく大変。でも、そこで褒めてもらえるように、褒められないことへの恐怖と戦いながら努力していきました。自分が進化していく感じ、目指す場所に近くなっていく感じが楽しくて、努力することそのものが好きになりましたね。

高校を卒業する頃になると、進路を考えるように。父への反抗心から「東大を出て財閥系の企業に入る」というルートに反抗して、音楽の世界に逃避しました。そこで、芸大を目指しました。父のレールの外で功績を残して、見返そうと思ったんですね。でも、落ちてしまって。現実を叩きつけられました。結局、僕は芸術系の東大を目指してたのです。知らず知らずに父のレールに乗せられていたことに気づきました。

さらに、落ちた自分がかっこ悪くて、なんとかそれを取り繕いたくて必死にもがいていました。食べることができなくなり、170センチ以上あるのに体重は40キロ足らず、体も精神もボロボロで、ほとんど廃人の状態。死を覚悟したほどです。それでも友達に助けてもらいながら、なんとか翌年、アメリカのバークリー音楽大学を受験。合格し、渡米して、ジャズを学べることになりました。

好きなものが仕事になる葛藤


アメリカでは、一流のミュージシャンたちと出会うことができました。ジャズ・クラブのブルーノートに行けばもちろん演奏を聴くこともできますし、家に連れて行ってもらうこともあって。

ある日、憧れているギタリスト、マイク・スターンの家に招いてもらいました。家に入ると、彼がいきなりあるフレーズを弾きだしたんです。あるミュージシャンのギターフレーズのコピー、たった8小節を何度も何度も弾いていて。どうも、ライブでやったそのフレーズをコピーしたいみたいなのですが、その演奏には一部ミストーンがあったんですよね。わずかに鳴ったミストーンを忠実に再現するために、1時間くらいずっと練習していました。

ほったらかされてどうしたら良いんだと思いながら見守っていると、「ちょっとエリック、そこの譜面取ってくれ」と言われたんですよ。みると、部屋の中は譜面だらけ。どれでもいいからと言われ、私が適当に楽譜を取って渡すと、空いているところに音符ですらない、汚い指の絵を描き始めたんです。こう押さえると、ここでこんなノイズが出る。それを書き留めていたんですよね。微妙なノイズまで再現しようとしていたんです。

その時の彼の目。弾いている時の目が、澄んだ子どもの目なんですよ。それがショックでした。「あっ、僕、この何年間かプロでやってきて、こんな純粋な子どもの目になれていたかな」って。大好きだった音楽が、仕事になってしまっていたんじゃないかと。大ベテランのアーティストが、あんな綺麗な目でギターを弾いていたのに。僕にはそれができていたんだろうか、何のために音楽をやってきたのかとハッとしました。

加えて、出会った一流プレイヤーは、本当によく練習していました。相当に有名な人で、レコーディングや取材もたくさんあって世界中飛び回っているのに、空いた時間に基礎的な練習を継続してずっとやる。本当に、音楽が大好きなんだと感じました。

なんでそんなに練習できるのか、聞いてみたんです。すると「やっぱり子供時代に初めてギターを持ったときの感動を、まだ忘れられないんだよね」と答えが返ってきました。初めてギターを持ったとき、弾けなかったコードが弾けたとき。あの時のワクワク、感動。それを忘れないで練習できることが、すごく素敵だと思いました。

一方で、音楽が仕事になったことで、わくわくや楽しみを音楽に見出せなくなっている自分に気がつかされました。「自分が感じる音楽」「感動して涙が出てくるような音楽」じゃなくて、「うまい音楽」とか「人が弾いたことがないような音楽」ばっかりに心が向いていたんですね。

ステージの上でいつも笑っている彼の演奏を見て、「これが音楽だ」と思いました。自分の感じるものに対して、素直に好きと、気持ち良いと言える、音を楽しむのが音楽。自分にとっての音楽とは何か、問い直した時、それはプレイすることではないとわかりました。僕はリスナーだったんですよね。自分の音楽を取り戻そうと、プレイヤーを辞めることを決めました。

もっとお客さんを喜ばせたい


帰国し、東京の私立大学の英米文学科に入りました。長く音楽の業界にいたので入学時はすでに21歳。普通の就職はできないと感じていました。どうしたらいいか考えた結果、英語を生かして教員免許の資格を取れば、先生という職業には就けるんじゃないかと考えたんです。

日本に戻っても、父の価値基準である東大には入らなかったことで、父が自分のことを諦めたのを感じました。僕が自分を傷つけていたのも、本当はどこかに、父に自分を見て欲しい気持ちがあったんですよね。父に見捨てられたと感じたことで、さらに自分のアイデンティーが壊れていきました。

そんな惨めな日々を過ごす中、僕を支えてくれた友人から相談があると連絡がありました。でも自虐的になっていた私は、連絡を無視してしまいました。その後しばらくして、彼は自らの命を断ったのです。原因はわかりません、ただ、大切な友人を守れなかったことで、かなり悩み落ち込みました。

でも、そこからは死を考えなくなりました。次第に僕が大事にしてきた友達を幸せにするために、自分はどう生きるべきなのか、それを考えるようになったんです。

就職活動に差し掛かると、予定通り教員を志望しました。しかしある日、友達に「エリックさ、これからはコンピュータの時代なんだよ。システムエンジニアだよ」と言われて。これからの世界だから、人をいっぱい採ってるよ、と。コンピュータすらよくわかりませんでしたが、なんとなく未来があるなと感じて、それって俺でもなれるかな?と未経験でSEを受けてみたんです。すると合格。晴れてSEとして就職しました。

仕事をしてみると、プログラミングが面白くてどんどんのめり込みましたね。楽器を好きになった時と一緒で、勉強して進化する自分を楽しんでいました。大変ではありますが、どうせ大変なら人の1.5倍努力して楽しくできるところまでやると、いろいろなものが会得できたんです。

空いた時間に、個人的に、生年月日を入力すると運命の人とマッチングできる相性診断プログラムを作ったりして。クライアント先でコミュニケーションを取るためにこれを見せるとすごく喜んでくれるんですよね。ミュージシャンの時と同じように、もっとお客さんを喜ばせたいと強く感じました。

お客さんにもっと喜んでもらうためには、人と同じじゃ面白くない。ただプログラムを書くだけじゃなく、ネットワークをベースにコンピュータを提案できたらいいんじゃないか。そう考え、まだ世の中になかったジャンルの、戦略的なネットワークのコンサルティングというものを思考するようになりました。

僕が担当になった銀行のセキュリティのシステムは、世界でもトップクラスのものだったので、海外から多くの企業が視察に来ていました。そういった中で、英語ができることで声がかかり、資料を作ったり説明をする役割を任されるようになって。

通訳としてディナーにも呼ばれるうちに、きみ面白いねと声をかけてくれたグローバル企業がありました。そこに戦略的なネットワークのコンサルティングの提案をすると面白がってくれて、タイミングよく転職しました。ネットワークのエンジニアとしてだけではなく、理想としていたネットワークのコンサルタントとしてのキャリアを積むことになったのです。

ただ、やっているうちに、お客さんの経営や事業戦略自体があやふやなんじゃないの?と疑問を感じ始めたんですよね。僕らはあくまで技術職で案件を受ける側なので、それをいう権利がありません。もっと経営的な視点から意見を言いたいなと考え、大学院で国際政治経済学を学ぶことにしました。

大学院では、人気のある先生とない先生がいましたが、僕はとりあえず1番前に座って、まず話を聞いてみました。ある先生から課題を出された時、自分の意見を言いに行ったんです。あまり垢抜けない先生で、地味だしボソボソ喋る方でした。でも、僕の意見に対して返された言葉に、何も言い返せなかったんです。なぜかその人に惹かれ、その後も何度も先生に自分の意見をぶつけに行くようになりました。

その方は、もともと世界最大級のコンサルティング会社で経営コンサルタントをしていた方でした。そこでビジネスコンサルタントという職種があることを初めて知り、先生との出会いを機にコンサル企業に転職したんです。

お客さんと泣いたか?


転職してからは、びっくりするほど大変でした。仕事量は半端なく多いし、プレッシャーもすごい。電車がある時間に帰れることがほとんどなく、体調を崩す人もたくさんいました。自分の仕事をなんとかこなすことで精一杯でしたね。

数年働いた時、ついに過労で倒れてしまいました。脳に血栓ができてしまったのです。このような状況では、すぐにクビになってもおかしくないのですが、そのとき会社の重役が家まで訪ねてきてくれたんです。僕は弱っていたので、「みんなすごい人ばかりだし、僕は向いてないし、もう無理だ」と悩みを全部吐き出しました。

そしたらその人が、「良いんだよ。俺はずっとお前をかっこいいと思っていたよ」と言ってくれたんです。そんなことを僕に言う義理はないはずなのに。すごく感動して嬉しくて、地獄の中に光が見えた感じがしました。

続けて、「エリックさ、お客さんと泣いたことある?」と聞かれました。聞かれている意味が分からなくて。そんな僕に、その人は「コンサルのプロジェクトって、本当にお客さんと共感できたら、プロジェクトが無事に終わったときにお客さんと泣くことがあるんだよ」と言ったんです。

今までそういう仕事の仕方をしていなかったんですよ、全然。必死に一つのプロジェクトを終わらせたら次にいける、その繰り返しでした。「お客さんと泣く」、その言葉を聞いて初めて、「お客さんがとことん喜んでくれるためにはどうしたら良いんだ」と言う方向に舵を切ることができたのです。

復帰すると、お客さんと共感するためにはどうすればいいか考えるところから始めました。今まではただ作業が終わらせることだけを考えていたけれど、「いや、これじゃあ喜ばない」と思って、とことん喜んでくれることをやるようになったんです。仕事はもっと忙しくなりましたね。でも、見えるもの、お客さんの反応が変わっていく実感がありました。

家まできてくれたその人のおかげで、そこから20年にも渡り、コンサルティングファームで働き続けることができました。その人は、僕の憧れで恩人です。その後、その人がある会社の社長となったとき、その会社のデジタル最高顧問を任せてもらい、一緒に仕事できることになりました。一緒にお客さんと泣ける仕事を目指しています。

他人が決めた成功より、好きと共感を


役職が上がるにつれ、外の企業のいろいろな人と話すことが多くなり、若手を見ていて課題感を覚えるようになりました。父の価値観の中で苦しんでいた、僕みたいな人が多いと感じたんです。

いい大学にいっていい会社に入ることがゴールで、誰かが「良い」という肩書きを求めている。実際にそのルートを通ったからといって、必ずしも幸せになれるわけじゃないんですよね。

本当に大事なのは、学歴や職歴じゃなくて、共感して人と繋がること。僕自身、大学院やコンサルティングファームで、自分に共感してくれる人に引き上げてもらった感覚がありました。そのおかげでハッピーにやってこれている。だから一人くらい、それを教えられる先生がいてもいいんじゃないかと考えるようになったんです。

その頃、MBAを取得した時にお世話になっていた教授が、青山学院大学の学長になりました。OB会でお会いしたきっかけでお話しする機会が増え、「青学を変えたい」と想いを語ってくれました。日本はこれからもっと世界に出ていかないといけない。そのために留学を必須にし、さらにビジネスと学問で分けるのではなく、実業を知る教員を増やしアカデミックと共生するような新しい学部を作りたい。だから手伝ってほしいと。もちろん僕は喜んで、母校への愛を持って手伝いました。そして学長は「最終的にはエリックに来てほしいんだ」と言ってくれたんです。

想いに共感したし、お世話になった大好きな大学だから、もちろん教授になりたい気持ちはありました。でもそれには、博士号も取得しなければいけないし、普通の社会人がいきなり大学教授になる例はほとんどないんです。

しかし、人のつながりが思いがけないチャンスを生みました。新学部が設立されてから数年後、学長が定年退職になるタイミングで空く教授の枠に、僕を推薦してくれました。その時の状況や運も重なって、いつかはなりたいと思っていた教育者、しかも大学教授に、なることができたんです。

共感からイノベーションを


今は、青山学院大学の地球社会共生学部で教授を務めています。僕のゼミでは、僕が提唱する「クリエイティブ思考」をもとにイノベーションを創出することをミッションに、共感できる社会人とゼミの学生とが一緒になり、実践的なアクションを起こしています。社会人と言っても、一流の仕事をし活躍している人ばかりです。

僕のゼミは、共感のコミュニティなので、大人と学生は、評価する・されるの関係性ではなく、全員がフラットに尊敬しあって実践できる場づくりをしています。

僕が提唱する「クリエイティブ思考」にもデザイン思考にもあるように、共感から全てが始まると考えています。共感とは、「自分より相手が優れている」と思えること、自分と相手との違いを認めて、誰の個性も尊敬できることです。

尊敬していれば、相手から学ぶことができますし、翻って自分自身の個性を大事にすることもできます。

人は、人の評価のなかで自分を定めてしまいがちです。「お父さんが、先生が、社会がこう言っている」というものにそぐわないと、自信をなくしてしまうんです。そうじゃなくて、そもそも全員違うんだから、同じなんてありえない。だからこそ、否定ではなく、共感が大事だと考えています。

それがイノベーションの土壌にもなります。イノベーションは新しいもののように思われがちですが、実は過去の自分がキュンキュンした体験がベースになるんです。例えば僕だったら、洋楽に初めて触れた時の「なんなんだこの音楽は」という感動。シンセサイザーをみて「魔法だ」と思ったこと。なんだか知らないけどワクワクして、恋みたいに胸が痛くなる、あの感動を、多くの大人は忘れてしまいます。でも、みんな持っているはず。それをもう一度思い出すことです。

過去の体験をグッと引きつけて、「こんなものがあったら良いな」と思えるものを作る。一人ひとり違うオリジナルな経験から、誰でもイノベーションを生み出せるのです。企業も同じです。ベンチャーも歴史ある企業も、それぞれ過去があり歴史があり、その上に個性がありますから。

今は、みんな個性や自分だけの体験を持っているのに、社会のくだらない規定や思い込みで、個人も企業も可能性を狭めています。出る杭を打ったり嫉妬したりせず、人がなんと言おうと、良いと思ったものに良いと言える、そんな共感ある社会を作りたいと思っています。

そのために今は、密度の高い小規模な共感のコミュニティを作っているところです。僕自身、今まで共感してくれる人に引っ張ってもらって、いろいろな部分でハッピーになれました。今度は自分が、学生たちと時間を共にし、僕の経験やつながりから、彼らにチャンスを与えたい。それができたらすごく幸せですね。

今後はライフワークとして、貧困家庭の子ども、特に中学生への教育への取り組みもしていきたいです。教育は平等であるべきだと思うので、生まれ育った環境で子どもの選択肢が狭まるのはおかしいと思うんです。平等ではない貧困の教育の質による負の連鎖をなくしたいです。

英語教師の資格を活かして、英語の面白さを教えたいですね。英語が習得できると海外にも目が向き、将来の可能性が広がります。語学を教えるというより、グローバル感覚を培うような教育をしたいのです。これも、とても一人ではできないこと。これからも共感してくれる人たちと一緒に、作り上げていきたいと思っています。僕は、これからの未来にワクワクしています。

2020.12.17

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛撮影 | 荒井勇紀
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