ソフトウェアが浸透する社会をつくる。 業界への感謝を胸にテクノロジーを当たり前に。

複数社のCTOを務め、日本CTO協会の代表理事として、日本社会へのソフトウェアの浸透に取り組む松岡さん。「多くの人がソフトウェアを使いこなすことで、世の中はもっと良くなるはず」と話します。松岡さんがデジタル化を推進する理由、そして目指す世界とは?お話を伺いました。

松岡 剛志

まつおか たけし|株式会社レクター代表・一般社団法人CTO協会代表理事
1977年生まれ。2001年、未経験からエンジニアとしてヤフー株式会社に入社。2007年、株式会社ミクシィへ転職。複数のプロダクトを生み出し、取締役CTO・人事部長を務める。2015年、株式会社ViibarのCTOに就任。2018年、CTO経験者4人と技術と経営の課題を解決する株式会社レクターを創業、代表取締役に就任。2019年より、一般社団法人日本CTO協会代表理事。社外では、株式会社うるるの取締役を務める。趣味は釣り、狩猟。

物事の本質を見ろ


大阪府で生まれ、親の転勤で東京に引っ越しました。小学校3年生からは兵庫県芦屋市に移り、自然の中で育ちました。父と一緒に、よく釣りに出かけていましたね。釣りも、父と会話をするのも好きでした。

父にはよく「本質を見ろ」と言われていました。考えが浅かったり、表面しか見ていなかったりする意見をいうと、「それしか見えてないのか」といった風に返されるんです。いつも言われるので、自然と物事を考える癖がつきました。

学校ではいじめられっ子で、しんどい日々が続きました。体が小さかったですし、周囲のことを考えない言動をしていることがあるみたいで、いじめの対象になってしまったんです。実際、どこか自分だけ楽ができればそれでいいやという気持ちがある、嫌なやつだったと思います。

あるとき教科書に、「味噌汁の上積みをサッと取るやつ」という表現を見つけて、自分のことみたいだと感じて強く心に残りました。そんな自分を変えなければと思いましたが、なかなかうまくいかず。心を殺してやり過ごしていました。

ただ、趣味の仲間と話す時は別でした。僕は別世界に行けるファンタジーが好きで、趣味が合う仲間と集まって遊んでいたんです。特に、「テーブルトークRPG」という遊びをしていました。物語を作って提供するゲームマスターと役割を演じるプレーヤーがいて、みんなで即興で物語を進めていくんです。

僕は率先してゲームマスターをやって、自分が提供した物語でみんなを楽しませていました。家で遊んでいると、うるさくて母が心配するほどの盛り上がりで(笑)。学校生活ではうまくできませんでしたが、趣味のコミュニティでは一緒にいるみんなのためを考えて、みんながハッピーになってくれると幸せでしたね。

中学、高校と進学し、将来を考える時期になりました。遊んでばかりいましたし、自分は優秀じゃないと思っていたので、通常の大学を選んでも就職時に勝負できないだろうと感じて。どうしようか考えた結果、日本に一つしかない学部に入れば、自動的にユニークな人材になれるんじゃないかと思ったんです。そこで、偏差値は高くないけれどユニークな名前の学科ばかり受験。一浪して、合格した「海洋建築工学科」に入学を決めました。

噂では、大学生活は遊んでいられると聞いていました。ところが入ってみると、死ぬほど授業がきつくて。毎週模型と製図の授業があり、提出しないと卒業できないんです。クリエイティブには終わりがなく、提出の前は必ず徹夜するので、週に2日は徹夜でした。疲れて遊ぶこともできず、自宅の大きな製図台の前で黙々と図面を引いていました。

課題を提出すると、先生からたくさんの質問をされました。「なんでこの壁は白なんだ?」「なんでこの間口は3メートルなんだ?」。聞かれても答えられず、やり直し。先生に「建築は全てに意味があるから」と言われました。

その時、父が言っていた「本質をみろ」という言葉を思い出したんです。例えばドアノブの位置が、1センチ上でも下でもなく「そこ」にあるのは、日本人の身長、肘から下の長さの平均など、いろいろなことを加味した上で「そこ」にしようと決められているはずです。

建築だけにとどまらず、文章も、プログラムも、全てのものはそうだと思うんですよね。上っ面だけ見るのではなく、その奥にある意味を考えること、本質を見ることの大切さを改めて感じて。父のおかげで、それを考えているトレーニングができていたことに気がつかされました。

インターネット業界へ



大学では、建築の中でもコンクリートや構造力学を勉強しました。18歳の時に阪神大震災が起き、祖父の家や遊びなれた場所が壊れるのを見ていたので、建物の構造に携わりたいという思いがあったんです。卒業後は、総合建設業者に就職したいと思っていました。

しかし時代は就職氷河期。就職は難しく、どうしようか悩んでいた時、伸び調子で給料が上がりやすく、人と会話しなくてもよくて、しかもクーラーの効いた部屋でずっと座ってハッピーにやれる仕事があると聞いたんです。それは、プログラマーでした。「プログラム、いいじゃん」と思い、無理やり方向展開。大手情報通信企業の求人に応募しました。

選考に通過し、最終面接まで進みました。社長や役員陣がそろう中で、未経験でプログラムの実績がないことから、役員から厳しい質問が相次ぎました。その程度でプログラムを書いたと言えるのか、と突っ込まれ、青くなって答えられずにいたところ、なぜか社長が「彼は人相が良いから大丈夫なんじゃないか」と説得してくれて。最後の30分ほどは、僕は何も話さず、社長と役員陣が話し合っていました。結果なんと、入社できることになったんです。

なんだこれは、誰かがお金を払ってくれたのか?と疑いました。もちろん誰も払ってはいなくて、正式に就職が決まりました。信じられなくて、社長、ひいては会社への恩義が生まれましたね。

入ってみると、案の定技術がなくて死ぬほど苦労しました。上司に絞られて、机の下で体育座りで凹むこともしょっちゅう。でも、同期に恵まれたんです。わからなくてどうしようもなくなって机の側に行くと、「しょうがねえな」と深夜まで教えてくれる人、僕のためにわざわざ授業形式で技術を教えてくれる人。大変でしたが、おかげで少しずつ必要な情報や技術をインプットできました。

2年目になると大体のプログラムを書けるようになり、少し調子に乗りましたが、すぐに優秀な後輩が入ってきて。このままでは3カ月以内に抜かされると焦り、週に2、3冊技術書を読んで必死に勉強しました。

そうして26歳になった頃、プログラマーとしてはそこそこいけるけれど、それ以上にはなれないと悟りました。周囲には非常に優秀な人が多くて、この中でトップにはなれないと気づいたんです。どうしようかと悩み、結果として、あまり注目されていなかったセキュリティ系を担当することにしました。経験がレバレッジになるものであれば、ある程度のポジションは取れるだろうと考え、キャリアを変えたんです。

セキュリティに特化した部署には3人しかおらず、そこでプロフェッショナルとして技術を磨き、チームリーダーになっていきました。

全ての人はパートナーみたいに扱え


プライベートでは、子どもの頃好きだった釣りを続けていました。釣れたらもちろん楽しいし、結果ダメでも考えるプロセスそのものが楽しいんです。相手は自然、どれだけ頑張ってもロジックを考えても、通じないときは通じません。世の中には、神様や地球のような大きな存在が決めることがあると感じ、全てに完璧を求めなくなりました。

趣味が高じて、社長とも釣りに行くようになりましたね。釣りを通して様々な起業家と出会い、これまで知らなかった視点や発想を知ることができました。

ある日、一緒に釣りしていると、社長から「松岡、全ての人をお前のパートナーと同じように扱え」と言われたんです。おそらく、初心者と一緒に釣りをしていたのに、僕だけ一人楽しく釣りまくっていたからだと思います。「パートナーが横にいたら、ちゃんと相手をみるだろう」と笑いながら諭され、びっくりしました。

パートナーのように接するって、サービス精神を持つとか、丁重に扱うとか、いろいろな文脈があるじゃないですか。この人は全ての人と向き合うとき、それほど多様な文脈を含んだ接し方をしているのか、と驚いたんです。自分の知らない扉がパカッと開いた気がしました。

それからは、社長の言葉を考えながら仕事をするようになりました。会社ではチームメンバーとの接し方が変わりましたね。

それまでの僕は、やっぱりコミュニケーションが苦手で、何かに誘われても「俺が行くメリットって何ですか」と聞いてしまうようなタイプ。セルフィッシュだったんです。スペシャリストとして自分のポジションを守り続けるなら、それでもよかったかもしれません。でも、社長や起業家の方々のように、世の中に価値を作ろうとするなら、今の自分ではできない。人と一緒にやらないとできないんです。

そう感じて、かつて趣味の仲間とゲームをやっていたときみたいに、メンバーがハッピーになれるように、考えて接するようになりました。

会社のハンドルを握る


その後、一通り業務を覚えて、新しい環境に身を置きたいと考えていたこともあり、SNSの会社に移ったんです。2007年、SNSが盛り上がり始めた頃だったので迷いはありませんでした。

はじめはエンジニアをやっていましたが、チームを見ていたCTOの目が、隅々まで届かないことに課題感を持っていました。すると、「一番プログラムが書けない松岡さんがマネージャーをやってください」と言われて。それもありか、と思ってキャリアを変えました。

マネジメントはとにかく難しかったです。プログラムはソースコードがあるので、自分と相手の解釈がブレません。でも、人間同士のコミュニケーションはアナログ。言葉自体、例えば「おおやさん」と言った時に人名なのか家主の意味なのかわからないと言った事象が発生しますし、言葉の理解が一致していたとしても、受け取り方の解釈にも個人差があるんですよね。これはうまく行くはずがない、と頭を抱えました。

とにかく、なるべく明示化して、認識を揃えられるよう努力しましたね。同時に、素直で率直であることを心がけました。仮にうまくいかなかった時にも、自分できちんと責任を取れる状態を保てるよう、相手とフラットに向き合うよう努力しました。

そんなある日、社内で仕事をしていたところ、東日本大震災が発生したんです。僕はセキュリテエンジニアリングを専門にしていたので、非常時対応を学んでいました。「誰かハンドリングする人がいないか」と周りを見渡してみたのですが、誰もいない。そもそも会社に意思決定する人がいないタイミングだったんです。

僕はマネージャーの立場でしたが、じゃあ自分がハンドリングするしかないと思い、意思決定に踏み切りました。仙台の拠点をどうするか、今オフィスにいる人をどうするか、従業員の家族や困っている人にオフィスの建物を解放してはどうか。自分でここまで舵を握ったのは、初めての経験でした。

誰が言ったのかわからない言葉ではなく、根拠がしっかりした事実を大事にすること、人として間違っていない、誠意ある対応であることを重視し、意思決定していきました。

それ以来、非常時対応をすることが多くなりましたね。サーバーが落ちた緊急時にも対応し、何かが発生すると「なんとかしてください」と任せられるポジションになっていったんです。やがてCTOになり、執行役員、取締役を務めることになりました。

しかし会社は好調とはいえず、主力事業だったSNSが不調で、新たな事業が必要でした。僕は何ヵ月もかけて大きなものづくりをするのではなく、ヒット作が出るまで小さく速くプロダクトを作るという方向に舵を切りました。すると、その中から生まれたゲームが大ヒットを記録。良い結果が出て、経営に携わった2年間で時価総額を数十倍にすることができたんです。

CTOの課題解決を


会社が大きくなったタイミングで、社長が退任することを決断しました。経営陣は交代した方が良いだろうと考え、僕も一緒にやめることを決めたんです。

働き続けて疲れていたので、とにかく気分転換をして休みたいと感じていました。一番やりたくないことをやってみたら気分が切り替わるんじゃないか、と謎の考えが浮かび、引きこもりだったにも関わらず、妻と一緒に世界一周の旅に出ることに。旅行は嫌いでしたけど、結果、すごく面白かったです。

戻ったタイミングで、次のキャリアを考えました。プログラムを書いていない時期が長かったので、マネージャーとして成果が出せる会社に入ろうと思いました。規模感が小さく、伸び代の大きい会社にジョインすることにしたんです。

入ってみると、思うような成果が出せず愕然としました。正直、前職の経験があったので、何をやっても成功するだろうと天狗になっている部分があったんです。管理会計をしっかりして、会社の強みで進んでいけるところまでやりましたが、プロダクトで会社を成長させることができませんでした。「これは私じゃない方がいい」と感じて、辞めることに。

39歳、身の回りに経営者が多かったので、40歳になる前に一度自分でやってみたいという思いがありました。そこで、兼ねてから一緒にビジネスをやりましょうと話していた様々な会社のCTO4人と、起業することにしたんです。人ありきだったので、事業はこの4人で何ができるか考えて決めていきました。

最初は、技術経営者やマネージャーのための研修を事業にしようとしましたが、進めるうちにスタートアップのコンサルティングが主な事業に。徐々に大企業も担当するようになりました。その中で、大企業は人や技術をはじめとした圧倒的な資源を持っていることがわかったんです。ここにもっとうまくソフトウェアを導入できたら、日本は大きく変わるだろうと実感しました。

一方で、前職の頃から様々な会社のCTOを集めて勉強会を開催するようになりました。初めは少人数でやっていたのですが、徐々に人数が増え大規模化。すると、何度も同じことを聞かれるようになったんです。会社のフェーズごとにCTOは何をしなければいけないのか。技術ができる人がCTOなのか、マネジメントができる人がCTOなのか。評価の仕方、採用の仕方、文化形成…。みなさん、同じことで困っていたんです。

何度も聞かれる質問が共通の課題なのだとしたら、内輪の勉強会の閉じられたコミュニケーションでしか解決できないのはよくないなと感じました。

加えて、CTOは、会社の中で特に孤独。仮に役員陣にCEO、COO、CFO、CTOがいたとしたら、お金の話は全員できるし、営業の話も大抵できる。でも、技術の話になると急にCTO対ほかの役員になってしまうんです。会社の中で孤立しがちなCTO同士が、連携していく必要性も感じました。

勉強会には徐々に外部の協力者もがつくようになってきて、きちんと団体で運営していくべきだと思うようになりました。自社事業にしていくこともできましたが、運営は無色透明な団体である方がいいと感じ、社団法人を立ち上げることにしたんです。

業界への恩返し


今は、株式会社レクターの代表取締役とともに、一般社団法人CTO協会の代表理事を務めています。他には、クラウドソーシングのプラットフォームを提供する株式会社うるるの社外取締役でもありますね。

活動を通して僕がやりたいのは、ソフトウェアを社会に浸透させることです。現状の課題にソフトウェアを導入することで、解決できることはとても多いと思っています。アナログであることを悪く言っているわけではなくて、デジタルを取り入れることで、ありとあらゆるところがもっと良くなっていくはずなんです。実は日本は、世界規模でみると決してデジタルの技術力が高いとは言えません。まだまだ改善し、伸びていける可能性があるんです。だからCTO協会の目標は「日本を世界最高水準の技術力国家にすること」としています。

これから日本は人口が減少し、様々なことを最適化する必要に迫られます。人間が働くよりも、コンピュータを働かせることが重要になるでしょう。そのために、CTO協会では有用なフレームワークを提供したり、情報共有をしたりしていますし、自分では難しい、手伝って欲しいという会社さんにはレクターでコンサルティングをしています。

今後は、テクノロジーを学んだ人材が、タンポポの綿毛のようにあちこちに飛び散って欲しいなと思います。まず人材が居ないと始まらないので、人材育成のための大学院をつくりたいですね。リモートで受講できるなど取り組みやすい形で、社会人がコンピューターサイエンスを学べる場所が必要だと思っています。さらに、技術経営や技術のマネジメントを学べる研修プログラムなども展開していきたいですね。テクノロジー人材がいることで可能性が広げられることを知ってもらい、あらゆる場所でそんな人材が活躍できる世界を作っていきたいです。

僕が今こうしているのは、特に頭が良かったとか、能力があったからではなく、その時その場所にいたからだと思っています。未経験にも関わらずインターネットの会社に入れてもらったことも、そこで鍛えていただいたことも、SNSの隆盛期にど真ん中で経験を積ませてもらったことも、振り返ると奇跡だったなと思うんです。だから、インターネット業界に対する、強い感謝の気持ちがあります。

もらいすぎたものをお返しするため、インターネットへの感謝を胸に、この業界に恩返ししていきたいです。

2020.11.19

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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