「街」だからこそ、自己実現できる。 やりたいことに挑戦できる舞台を作りたい。

流山市のマーケティング課長として、前例のない挑戦を続ける河尻さん。「この街には可能性がある」と感じ、安定した大手民間企業から公募に手を挙げたそうです。幼少期に自分のやりたいことを押し込めてきたという河尻さんが、ゼロから何かを生み出す喜びに気づいたきっかけとは。お話を伺いました。

河尻 和佳子

かわじり わかこ|流山市役所マーケティング課長
1972年、広島で生まれる。大学卒業後、東京電力に入社し14年間、営業、マーケティング等を担当。自身が流山市に移住したことをきっかけに任期付職員公募に応募し、前例のない自治体マーケティングの道に入る。首都圏を中心に話題となった「母になるなら、流山市。」広告展開や、母の自己実現を応援する「そのママでいこうproject」、年間14万人を集客する「森のマルシェ」の企画・運営などを手掛ける。

「やりたい」って言っていい


広島県広島市で生まれました。国家公務員の父について、生まれてすぐに東京へ。小学校3年生の時に、今度は千葉県柏市へ移ることになりました。

幼い頃は、勉強がこれと言ってできるわけでもなく、運動も苦手。音楽や家庭科も普通だったので、得意なことが何もありませんでした。そのせいで自分に自信がなかったです。人前に出る時はいつもおどおどしてしまって、余計に失敗する。みんなの笑い者になってしまうこともありました。

ただ、実は気が強い性格。親から「悪いと思ったことはちゃんと悪いと言わないとだめだ」と言われて育ったこともあって、根っこには強い正義感がありました。

ある日、友達がいじめの標的にされたので、助けに行ったんです。すると、自分がいじめられるようになってしまいました。学校では平気な顔をして耐えていましたが、家に帰って大泣きしましたね。

その時、正義感を丸出しにするといじめられるんだと、教訓として学んだんです。「いいものはいい、悪いものはだめ」とはっきり言っては生きづらいんだと漠然と考えるようになりました。

受験をして、私立の中高一貫校に進学。中学・高校の6年間は、とにかく目立たないように、静かにおとなしく暮らすことばかり考えていましたね。のびのびとした校風のおかげで楽しく過ごしてはいましたが、なるべく自己主張はしないように心掛けました。

人から嫌われないように、常に相手を優先させて、なんでも譲っていて。自分でもそんな生き方が嫌でした。もし私が意見を言っていれば希望が叶ったかもしれないのに、言わないことでいつも少しずつ損をしているような気がしていたんです。でも、やっぱり嫌われたくない気持ちが強くて。同じメンバーで生活しているので、変わるきっかけもありませんでした。

大学は女子大に進みました。いろいろな地域や学校から人が入ってきたので、風通しがよく、少し自由になったような気がしました。環境が変わったことを機に、私も少しずつ、自分の好きなことややりたいことを言ってみようかなって。興味がある授業があったので、勇気を出して一人で受けに行ってみたんです。そうしたら、特に誰からも変だとは言われなくて。むしろ授業の中で同じ関心を持つ人たちと話ができて、世界が広がりました。「そうか、一人で行動してもいいんだ」と思いましたね。

ジャズダンスのサークルにも入りました。昔からダンスには憧れていて、やってみたいという気持ちはありました。でも運動神経がよくなかったので、私がそんなことをやってはいけない、やる資格がないとまで思っていて。大学では中学高校の部活ほど厳しくはないだろうと、思い切って飛び込んでみることにしたんです。それまで自分のやりたいことを押し込めて生きてきた私にとって、大きなチャレンジでした。

いざ入ってみると、周囲は今まで私が交わってこなかったような自由な人たちばかり。でも、純粋にすごく楽しめたんです。身体も硬かったし、飛び抜けて上手な方ではなかったけれど、誰からも下手だなんて言われることはなくて。だんだんと、「こういうダンスがしてみたい」と自分から言えるようになりました。

「これを言ったらわがままだと思われるかな?」と思うことも少しずつ口に出してみると、意外と受け入れられるんだと気づいたんです。自分がやりたいことをやってもいいんだ、許されるんだと思えるようになっていきましたね。

仕事は機会をくれるもの


大学を卒業してからは、安定している大企業だということから、電力会社に入りました。新入社員はみんな現場の最前線に配属されるということで、初任地は千葉県の営業所。銀座でキラキラと働くOLライフに憧れていたので、内心少しショックでしたね。

初めはコールセンターでお客様の対応をしたり、集金業務をやったり。あらゆるお客様と対峙していくなかで、いかに自分が今まで隔絶された、狭い世界で生きていたのか思い知りました。同時に、その人にはその人なりの正義があって、自分の中で正しいと思っているものも、他の人からみたら違うかもしれない。価値観は人それぞれ違って、相対的なものなんだとも思いました。

その後は千葉の支店に異動になり、営業をやることになりました。主にハウスメーカーに対し、オール電化の住宅を提案する仕事です。昔から引っ込み思案な性格だったこともあり、初めは私には向いていないと思いました。それでも続けていくうちに、意外と自分には営業という仕事が合っているんじゃないかと思い始めて。

幼い頃から人の目を気にして、周りの表情や振る舞いを観察する癖がついていたからか、相手が欲していることを自然と察知できるようになっていたんです。実は私は人と接する仕事が向いているんだと知ることができました。

その後は、マーケティング業務の担当に。人と話さずにひたすら数字をみて、黙々とデータ分析をする仕事は苦手だと、最初は思っていました。でもこれも、やってみたらすごく楽しかったんです。

自分自身の思いもよらない一面が、仕事で新たな機会をもらうたびに発見されていく。仕事って本当に面白いなと思うようになりました。それからはここで成果を挙げて出世したいと思って、がむしゃらに働きましたね。ただ、安全第一のインフラ企業では創意工夫が求められていたわけではなく、なかなか思うような評価が得られず苦戦しました。

母親どころか、人間失格じゃないか


その頃結婚し、しばらく仕事に打ち込んでいたので、子どものことは後回しになっていました。それでも、結婚して3年ほど経った時に一人目を出産。無事に産まれて安心したのもつかの間、そこから怒涛の育児の日々が始まったんです。

まとまって眠れない、まともに食事をする時間もない。「子育てがこんなに大変だなんて誰も教えてくれなかったじゃないか」と思いましたね。心の余裕もなく、子育てという責任の重さを感じながらとにかく毎日をこなすのに必死でした。

お母さんは、子どもの前ではいつもニコニコ笑っていないといけない。教育のために、何冊も本を読み聞かせて、スーパーで買ったお惣菜じゃだめだとどんなに疲れていてもご飯を手作りして。誰に言われたわけでもないのに、自分のなかで作り上げた「理想の母親像」にがんじがらめになっていました。

世のお母さんたちが当たり前にやっていることのはずなのに、どうして自分だけできないんだろう。母親どころか、人間失格ではないか。仕事では努力して成果をあげてきたけれど、人のために生きるのはこんなに大変なのかと、大きな挫折感を味わいました。

流山の広報官に


それでも、徐々に育児に慣れていき、3年後には二人目を出産しました。一人目の時よりも随分と肩の力が抜けて、育児を楽しむ余裕も出てきましたね。その頃、家を買おうかという話になって。職場や実家の近くで探していましたが、思っていた以上に理想が叶う物件がなく、難航しました。

そんな時に、夫から「流山を見に行かないか」と提案がありました。でも、なんとなく気乗りがしなくて。実家のある千葉県にある市なので知ってはいましたが、流山は古い街、というイメージが強かったんです。それでも、最近は変わっているらしいよ、という夫の言葉を聞いて行ってみることに。

すると、自分が想像していたのとは全然違う光景が広がっていたんです。新しい鉄道が走って間もない頃で、街全体から「これから新しい何かが生まれる」息吹のようなものを感じてワクワクしました。この街には伸びしろがたくさんある。これから自分たちで、一から作り上げていけるんじゃないか。成長途上のベンチャー企業のようなこの場所で、自分の力を試したいと感じて惹かれましたね。それで、流山に住むことに決めました。

ある日、新聞で流山市が民間から「街を売り込む」人材を募集しているという記事を見つけました。自治体が民間から人を募集するのは珍しいなと思い、目に留まったんです。流山はこれから自分が住む街。家を探している時に、可能性を感じた一方で、「この街はなんだかもったいない。実力を発揮できていない」と感じたのを思い出しました。これは宣伝しがいがあるんじゃないか、私がやるべき仕事だと直感で思ったんです。

子どももまだ小さく、長時間働けない私が採用されることはないだろうと思いつつも、受けるだけはタダだから、と試験を受けてみました。すると、まさかの合格。まだ会社に退職の相談すらしていませんでしたが、直感を信じて流山で働こうと決めました。

理由の一つは「この街は本気だ」と感じたこと。流山は、30〜40代前半、共働きの子育て世帯の人たちに定住してもらうという目標があって、私はまさにそのターゲット層。その層から採用するという方針から、本気で街を変えようとしているんだなと思いました。

もう一つは、自分の仕事の成果物を最後まで追えることに魅力を感じたからです。大企業の一構成員としての仕事にもやりがいや充実感を覚えていたものの、自分が携わっている仕事が最終的にどうなるのかまで追えないことに寂しさも感じていました。流山なら、最後まで自分でできる。これはやってみる価値があるんじゃないか。そう感じて、転職を決めました。

ゼロから生み出すワクワク


入ってすぐ、定住人口を増やすというミッションに対して、「あなたは何をやりたいの?」と聞かれました。私はてっきり、「これをやればいい」という方向性や方法論は示されていて、ただそれをやればいいと思っていたんです。しかし、自治体のマーケティング課は前例がなく、王道の正攻法も他の自治体での成功事例も何もない状態。一から自分で考えなければいけなかったんです。それまで受け身の姿勢で仕事をしていた自分に気がつきました。

入って1年目はこれといった成果は一つも残せずに終わりました。初の民間採用で、周囲からの期待も大きいはず。それなのに成果を挙げられないどころか、行政の仕組みを理解できておらず、かえって混乱を生じさせて空回りしてしまっていました。「このままでは私がいる意味がない」と危機感を覚えて焦りましたね。

1年目にうまくいかなかった原因を自分なりに分析し、「仕事は自分で作るものなんだ」とわかってきました。それからは気持ちを入れ替え、自分で考えて試行錯誤をしてみるように。失敗するのが怖い気持ちもありましたが、多少失敗しないと何も得られない、チャレンジしてみようと考えを変えましたね。

着任2年目に、流山に定住する人を増やすためのイベントの企画を担当することになりました。流山に関心を持ってもらい、定住してもらうにはどうしたらいいだろう。私自身が流山市のターゲット層でもあったので、自分やまわりがどんな企画だったら面白いと思えるか、徹底的に考えました。

コネもなかったので、自分のアイデアを話して賛同してくれる人を探しました。何もないところから、仲間を集めて一緒に作り上げていく過程が、純粋にとても楽しかったですね。前例がないことをやっているんだとワクワクしました。私はゼロからイチを作り上げるのが好きな性格だったんだと新たな発見がありましたね。これも、流山に来て初めて気がついたこと。仕事を通してまた新たな自分の一面を発見しました。

しかし、様々な企画をやってみても、自分のアイデアに人を巻き込むのは苦手で。なんでも一人でやろうとしていました。幼い頃から自分の意見を言わずに相手を優先させて生きてきたので、自分の思いつきに誰かを巻き込んだら、迷惑をかけると思っていたんです。

でも、働きながらたくさんの人と対話を重ねるうちに、世の中には色々な人がいて、その分多様なものの見方があると気づきました。巻き込んで迷惑をかける可能性もあるけれど、影響力が強い行政の一事業としてやる以上、一人で突っ走って完結させようとする方が、もっと迷惑がかかるんじゃないかって。周りの人の力を借りて多様な視点を取り入れたほうが、最終的に早く成功に近づくのかもしれないと考え直したんです。

それからは、自分で思いついたことはまわりに声をかけ、協力してもらいながら動くようになりました。とはいえ、ただ巻き込むだけだと申し訳ないという気持ちも残っていて。お互いがwin-winの関係になるようにと考えていましたね。貴重な時間を割いてもらうからには、行政に協力するとこんないいことがある、と思ってもらわなければと。

街の魅力を発信するために、データを活用したプレゼンバトルのイベントを企画した時には、実行委員長を市民の子育て中の女性にお願いしました。彼女はデータに詳しいわけではなかったので、声をかけた時は「なんで私?」と戸惑っていました。でも、私には彼女ならきっとできるし、この機会に大きく成長してくれると確信があったんです。

イベント開催まではとても大変な道のりでしたが、彼女はやり遂げてくれました。ボランティアでお願いするかわりに、私たちはメディアを集めてたくさん宣伝して売り込みました。金銭的な対価を用意することが難しくても、彼女に「地域と行政でタッグを組んで仕事をした」という実績を作ることで、お金以上の対価を提供したいと考えたのです。

人が活躍する場をつくって、地域で何かを成し遂げたという実績を作り、「自分も得られるものがあるから、自分のためにやってみる」と思ってもらえるようにすること。そうでないと、これから長くこの街に住んで一緒に何かをつくっていくのは難しいと思ったんです。

輝く人をみる喜び


しばらくの間、市外の人向けに流山の魅力をPRする企画を中心に活動。どれくらい人口が増えたか、何件メディアに取り上げられたかなどの指標を追っていました。私自身も、前例がないことを一から考え、達成していく過程が嬉しくて夢中になっていましたね。自分の中でもある程度成果が出て、満足していたんです。

ところが、しばらくすると住民の方々から「住んでみたら思っていたほどではなかった」なんて声がちらほら聞こえてくるようになってしまったんです。そのとき、流山に期待して住んでもらっているのに、住んでもらった後のことは考えてられていなかったことに気がつきました。これは何か手を打たなければ、と思ったのです。

裏を返せば、住んでみたら期待を上回るくらい良い街だった、と思ってもらえれば満足してもらえるはずです。加えて、私たちが少ない人数で何かやるよりも、すでに住んでいる約20万人の人たちからファンを作って口コミを広げてもらう方が、よっぽどパワーがあると思い始めました。住んでいる方々の満足度をあげることが、結果的に外に向けたPRにもつながるとようやく気がついたんです。

ただ、そう思っても1年くらいは、どう動き出せばいいかわからずもがいていました。街に対する温度をあげるためには何からやればいいのかわからないし、何かやって失敗したら、この街に住めなくなるんじゃないかと怖さもありましたね。

それでも、決めたからにはやるしかないと、まずは流山のターゲット層である子育て中の女性たちにスポットをあてるプロジェクトを始めることにしたんです。まず、街に住む母親たちを集めて飲み会を開いたり、やってみたいことを表現できる場をイベントの中で提供したりしました。

そうすると、初めは「私なんかが…」と自信がなさそうにしていた人たちが、自分の夢を語るようになって。「本当はこんなことやってみたかったんだよね」という言葉がどんどん出てくるんです。お互いに良い刺激を与え合って、次第に活動の幅を広げていき、起業する人が出てくるほど。私と同世代くらいの方たちが思わぬ大胆なチャレンジをする姿に、「こんなに短期間で人って変われるんだ」と大きな勇気をもらいました。

私がしたのは、あくまできっかけ作りだけですが、そのきっかけによってその人が本来持っていた力でどんどん輝きを増していくんです。人が成長する瞬間を一緒に見届けることができて、今まで感じたことのないような喜びを感じました。それまでは自分の成長や評価にばかり目が向いていて、自分で何かを成し遂げることが嬉しかった。でもそれ以上に、誰かが輝く場を作ることの喜びを知ったのです。

街で最前線の課題解決を


今は、引き続き流山市役所でマーケティング課長として活動しています。街に末永く住む人を増やし、街を継続して発展させることがミッションです。流山では、そのための仕掛けづくりやプロモーション施策を「マーケティング」と定義しています。

住んでもらうためにはいくつか段階があると考えていて、まずは流山という街を知ってもらうこと。そして訪れてもらい、好きになってもらうこと。それぞれのための施策を切らさず、取り組まなければならないと思っています。

そして、住んだ後にファンになってもらうことにも、同じくらい力を入れています。住んでいる場所って、水や電気などのライフラインと同じく、「あって当たり前」のもの。ないと困るけれど、普段生活する中で意識することって実はあまりないんです。だからこそ、自分が住んでいる街を好きになってもらうって、実はすごく難しいことだと感じています。

そのためにコミュニティを通して、自分がやりたいと思うことを素直に口に出せる関係性を構築する。その人がやりたいことに挑戦する場を提供し、応援する。「流山には夢が叶うフィールドがある」と思ってもらえる街にしたいですね。

幼い頃に自分を押し込めて生きてきた私も、仕事でたくさんの機会をもらったことがきっかけでスイッチが押され、今はこうして好きなことができています。そのスイッチが見つからず、言いたいことややりたいことを我慢して息苦しさを感じている人がいたら、私自身が転換点になりたい。そして、その人が自分らしく幸せに生きるためのお手伝いがしたいんです。

そして実は、企業などの組織よりも街の方が、自己実現しやすいのではないかとも考えていて。街は生活の場そのものなので、身近なところで課題が生まれます。自分が感じている課題は他の人も感じていることが多い。それを解決してあげることで「ありがとう」と言われる可能性がたくさんあるんです。企業のように経理や人事を回す必要もないし、自分たちの好きなペースでやっていけることもあり、自己実現しやすい場なのではないかと思っています。

だからこそ、街という舞台で、人それぞれの夢の実現に向けたきっかけを作りたい。人が自分らしく輝いて成長していく姿に伴走できる喜びは、他では得られないですね。

マーケティング課長の任期は最大5年。この先どうなりたいか、何をするかということは決めていません。何が起こるかわからない方が、人生面白いと思うんです。チャンスがあればいつでも飛び込めるよう、常にアンテナを高く張っておきたいですね。

私は、誰もやったことがないようなことに挑戦するのが好きだし、課題があればあるほど燃えるタイプ。その意味でも、生活の課題の最前線である街という場には、魅力を感じています。これからも何かしらの形で街に関わり、課題に挑み続けていきたいです。

2020.11.09

インタビュー | 粟村千愛ライティング | 安心院彩
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