自分のままで居られる場所がJ-COOK。 30年以上、カフェレストランを続ける理由。

東京・青山のカフェレストラン「J-COOK」を、料理人の旦那さんと一緒に長年経営する中尾さん。一つの場所で、30年以上。様々なお客さんと接してきた中尾さんはこの場所で何を感じ、何を大切にしているのでしょうか?お話を伺いました。

中尾敦子

なかお あつこ|カフェレストランJ-COOK経営

技術を持ってできる仕事を


千葉県成田市で、5人兄弟の4番目として生まれました。兄弟が多かったので、幼稚園や保育園には通わず、家族以外の人の中に入ったのは小学校から。他人と接する経験がなかったので、最初はどうしたらいいかわかりませんでした。人見知りでしたね。

話すのも得意ではなくて、友達ができてからも黙って聞いていることが多かったです。自分の思っていることを、うまく言葉にすることができませんでした。

好きなのは読書です。あるとき本を読んでいたら、「あ、自分が言いたいのはこれだったんだ」と気がつくことがあって。私が表現できない気持ちを、本の中で見つけられたんですよね。それからは、家にある姉や兄の文庫本を片っ端から読み始めました。

本を読むと、喜びや怒りなど自分が感じた気持ちがはっきりしますし、例えば怒りを感じた時に、どれくらいそれを表現していいかもわかるようになるんです。加えて、日常の中で出会う、やり方がわからないことの答えを見つけることもできました。私には言葉が足りなくて、自分の中にあるものをうまく表現できないから、本の中に言葉を探して、表現方法を教わっていましたね。

中学生になると、強豪だった卓球部に入部し、没頭する毎日。高校に入ると、再び本をたくさん読むようになりました。

そのころは、高校を卒業したら事務職に就いていわゆるOLになって、お花やお茶、着付けを習って結婚する、というのが多くの女性が通るルートでした。でも私は、それでは退屈だろうと感じていて。自分で技術を持ってできる仕事がしたいと感じていました。そんな時、友人が「こんなのあるよ」とツアーコンダクターを目指せる短大の観光学科を勧めてくれたんです。面白そうだと思い、そこに進学することにしました。

学校に通いながら、近くのフランス菓子店でアルバイトを始めました。大手の菓子店がショートケーキやシュークリームなどを販売しはじめたころで、ブランデーが染みたフランス菓子を出しているお店は、とても珍しかったです。

そこには、パリから帰ったばかりの料理人の男の人が、次の仕事が決まるまで、と働いていました。海外から戻ったばかりの人に会う機会なんてなかなかないので、フランスの話をよく聞いていました。面白かったですね。やがて卒業する頃には、その人と結婚することに決めたんです。あれほどお花やお茶をやって結婚するルートを嫌がっていたのにと、周りにはびっくりされました(笑)。

350円のエスプレッソ


短大を卒業したらツアーコンダクターになろうと思っていましたが、あちこち飛び回ると夫と一緒にいられません。どうしようかと思い、東京のホテルで働くことにしました。菓子店で接客は経験していたので、できるのではないかと思ったんです。

しばらく働いたころ、夫の新しい仕事が決まりました。なんと、ヨーロッパの総領事館に料理人として赴任することになったんです。しかも、夫婦での赴任が条件。料理を作ると同時に、外交官の家族と一緒に住んで、身の回りの世話をするのが仕事です。私も一緒に行くことになりました。

ホテルに辞めることを伝えると、引き止められました。自然に仕事をしていたのですが、ホテルの会員からの受けがよかったというのです。何がよかったのか自分ではわかりませんでしたが、評価されたことで接客が得意なのかもしれない、と自信を持つことができました。

とはいえ、新しい仕事のためにホテルは辞めることに。海外に行くことも、外交官の家族と一緒に住んでメイドの仕事をすることもすごく不安でしたね。少しでも経験を積もうと、赴任前には清掃のアルバイトをしてから、初めての海外、ヨーロッパに渡りました。

総領事館では、週1回のパーティーが開かれ、主人が料理を作り、私は接客をしなければなりません。そのほかにも、私の仕事は掃除から犬の散歩まで多岐に渡りました。

ずっとトップに立ってきた人たちの世界は、全くの別世界。仕事は辛く、きつい扱いを受けることもありました。孤独でしたね。家にいると居心地が悪いので、休みがあると夫と外に出て、いろいろな街を巡るようになりました。

あるとき、足を伸ばしてスイスまで旅行をしました。すごく素敵なホテルにカフェがあって、高価なのはわかっていたのですが「ここ、絶対に入ってみたい!」と思ったんです。そこで、「エスプレッソを飲みたいんですけど」と声をかけてみました。すると中に通してもらえたんです。

そこは、とてもかっこいい大人の集まりでした。お金を持った人たちが来る場所なんだとすぐにわかりました。でも、メニューを見るとエスプレッソが、一杯350円だったんですよ。ランチは3000円だけれど、エスプレッソは350円。この値段なら、私たちみたいな普通の人でも、コーヒーを飲みに入れるんですよね。

「これが多くの人を受け入れられる理由だな」と思いました。そこで飲んだエスプレッソは、すごく美味しかったです。

場所を変え見つけた居心地の良い日常


大変な日々でしたが、1年半ののちに帰国。夫は再び仕事を探し始めました。折良く、銀座で店を持たないかと声をかけられ、放送局や銀行などが入るビルに、店を借りることになったんです。

店に来るのは、自分がこれまで出会ったことのないような人たちでした。銀行員、証券会社の社員。中には芸能人もいて、家族に「あの人が来たよ」と話すと「すごいね」と言われて得意な気持ちになりましたね。私は「銀座の新ママ」と呼ばれて、店には100本以上のボトルを預かっていました。

でも、どこか居心地が悪かったです。お客様と話していると、自分の生まれや育ちの中で経験していない、見たことも聞いたこともない話がたくさん出てきます。話を聞いて世界を知ると、自分は経験していないのに「こんなこと知ってるんだぞ」と偉くなったみたいに感じることがあって。そんな自分に違和感がありました。

普段から高級なものを身につけている人は、それが自然で似合うんです。でも、私がそれを借りて身につけても似合わない。偽物はすぐにわかります。お店にいて良いのは、自分の力でそこにたどり着いた人たちなんです。実力とは違う世界を垣間見ている感覚で、その中で自分がどう振舞っていたら良いかわかりませんでした。

それでも3年ほど店を続けたころ、バブル景気で物価は高騰しました。家賃が値上がりし、払い続けることが困難に。新たな場所に店を移すことにしました。

選んだのは青山。家から数分のところに物件を見つけました。主人はフレンチシェフでしたが、フレンチだと毎日は食べられません。知り合いが毎日来れるような店にしたいと一緒に話しました。毎日来れる場所として、思いついたのがカフェ。そのころ、日本には喫茶店はあってもカフェはありませんでしたが、海外で見たカフェのような場所を作りたいと思いました。コーヒーだったら毎日飲めますから。コーヒーと、食事があったら良い。そう考えて、カフェレストランを作ることにしました。

物件は2つにわかれていて、初めは片方だけを借りるつもりでしたが、大家さんの意向もあり両方を借りることに。片方をレストラン、片方をカフェという形で運営することになりました。同じ形態の店は周囲にありませんでしたから、日本人がつくる料理をだす店だとわかりやすいよう、名前は「J-COOK」とつけました。

銀座にいるときは、店に出ることが特別でした。でも、新しい店に移ってきたら、店に出ることが特別ではなくなったんです。多くの主婦が子どもや旦那さんを起こして、ご飯を作って学校や仕事に送り出すように、朝起きて店を開けて見る風景が、私の日常になりました。

この店では、私ができることをやっている。偉いお金持ちに豪華客船に乗せてもらってすごい料理を食べるのではなくて、近くの魚屋で秋刀魚を食べるような、自分の実力に見合うことをしていける。銀座の時のような違和感がなくなり、店が居心地よく感じられました。29歳のことでした。

自分は何者なんだろう


しかし、店を続けていくと、だんだん焦りが生じました。「自分は、何者になれば良いんだろう」という焦りです。銀座にいた時は、居心地が悪いながらも、こういう風になれば良いんだと思えるような先輩が身近にいたんですね。しかし今度は、そういったロールモデルがいませんでした。

お客さんの中には、音楽や映画に詳しい人が山ほどいるんです。そういう人たちと話していると、「あれも見てない、これも聞いていない」と焦るばかりで、自分がなんなのかわからなくなりました。

でも、毎日朝8時から夜の10時まで営業していたので、お店が終わる頃には疲れ切っていて。読みたい本があっても、夜に読書をするなんてとんでもないんです。自分の時間を持てず、接客をする合間を縫って少しずつやりたいことをやるしかありませんでした。

それでも、毎日、いろいろなお客様と出会いました。かつての同級生が近くで働いていて再会することもありましたし、結婚式の二次会の会場として使ってもらうこともありました。
ジレンマはありながら、お客さんからイベントに誘われれば、積極的に出かけていましたね。お店の経営が危なくなることもありましたが、そのたびにお客様に支えられながら、なんとか続けることができました。

自分はただ、自分だった


何年も店を続けたある日、結婚式後に二次会をしたお客様が15年ぶりに現れて、食事をしていってくれました。二人を覚えていたので声をかけると、「結婚式場も三次会会場もなくなってしまったけれど、ここがあって嬉しい」と言ってくださって。それからは毎年、挙式をした記念日に食事に来てくださるようになりました。

その時、店が誰かにとって大切な思い出の場所になっていることを実感しました。簡単にやめてはいけないなと、責任感を覚えたんです。私自身、好きだったお店が急になくなってしまうと、「続けて欲しいと思うから来ていたのに」と寂しい気持ちになったことがあります。お客さんが大切な人生のお金と時間を使ってくれているわけだから、それに応えないと。そう思うようになりました。

50歳に差し掛かったころ、30代の女性のお客さんから相談を受けました。彼女には結婚して出産して、と思い描いているプランがあって、それが達成できないことに悩んでいたんです。ふと、自分も同じことで悩んでいたなと感じました。

2、30代の頃は、何者かにならなければならないと感じていました。良い会社に入ったらバリバリ働いて、家庭に入ったら良い主婦になって、とか、みんな使命を帯びているんです。やりたいことがたくさんあって、選択肢もたくさん見えていました。

でも、いつの間にかあの頃の不安がなくなっていたことに気づいたんです。何故なのか、はっきりわかりませんでしたが、年を重ねて肉体的、時間的な制約ができたことで、可能性が少なくなったからかもしれない、と思いました。選択肢が二つくらいしかないから、シンプルに「自分にはこれしかないんだ」とどちらかを選び、楽になれるし自由になれる。

同時に、これまで目の前のことをやり続けてきたからこそ、「十分やってきたじゃないか」と自分で納得して選べるようになったのだと思いました。

その時、「自分は中尾敦子だ」とわかったんです。何者か、ではなく、ただ単に、今の私が中尾敦子。それに気づくと、肩の力が抜けて焦りがなくなりました。

ギブアップせず続けていく


今は、変わらず青山で主人とともにレストランカフェ「J-COOK」を営んでいます。33年が経ちましたが、創業当初からメニューは変わりません。コーヒーの価格は350円。スイスで見たカフェのように、いろいろな人が入ってきてくれる店でありたいですね。定休の月曜以外は、毎朝8時に店を開け続けています。

今は、この場所を続けていくことが目的になりました。長年続けると、店にも人生と同じように、すごく調子がいい時とうまくいかない時、いろいろな季節があります。それでも、これまで自分たちがやってきたことにプライドを持っていますし、お客さんが来てくださることに対する責任感も持っています。この場所を大切にしてくれるお客さんがいるからこそ、期待を裏切らない店でありたいですね。

この店が良いと思ういろいろな人が来て、自由に過ごしてもらえる、居心地の良い場所であれば良いと思っています。せっかく来てくれた時にはなるべく店を開けておきたいから、定休日の月曜日には来ないよう、気をつけていただきたいですね(笑)。

2020.10.19

インタビュー・ライディング | 粟村千愛
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