経営者の選択肢と可能性を広げる存在に。 事業承継M&Aプラットフォームでつくる未来。

事業承継M&Aプラットフォーム「ビズリーチ・サクシード」の事業責任者として、後継者不足の課題解決に取り組む前田さん。父の背中を見て経営者を目指していた前田さんが、事業承継というテーマに取り組む理由とは?お話を伺いました。

前田 洋平

まえだ ようへい|ビジョナル・インキュベーション株式会社 ビズリーチ・サクシード事業部 事業部長
ニューヨーク州立大学芸術学部卒業後、大手IT企業に入社。エンジニアとして基幹システムの開発に従事。2011年、株式会社ビズリーチに入社。ビジネス開発を経て、新規事業や海外事業の立ち上げに従事。2017年より、事業承継 M&A プラットフォーム「ビズリーチ・サクシード」を立ち上げ、サービス設計やビジネス開発を担う企画開発部部長を務める。2020年8月、事業承継M&A事業部事業部長に就任。

父の起業と経営者への憧れ


岐阜県各務原市で、3人兄弟の次男として生まれました。毎日、学校から帰ってきたらカバンを放り出し、そのまま出かけて日暮れまで遊んでいるような、活溌な子どもでしたね。自然の多い地域だったので、魚釣りや虫取り、山登りや秘密基地づくりなどに夢中になっていました。写真を撮るのも好きで、出かけた先のいろいろな場所で撮影しました。

両親は放任主義で、勉強を含め何をしろと言われることはなかったです。母には、「人様に迷惑をかけないなら何でもやればいい」とよく言われていました。なんでもOKというスタンスで認めて肯定してもらえたので、自然と自分もそんな性格になっていきました。学校では、真面目な子ともヤンキーっぽい子とも付き合って、みんなと仲が良かったですね。

9歳の時、父が起業しました。事務所をどこにするか、不動産を選ぶところから一緒に連れて行ってもらいました。不動産が決まると、何もなかった部屋の中に机や電話が置かれて、会社ができていく。そんな様子を見せてもらいました。

休日になると、僕ら兄弟は仕事をする父についていって、事務所の近くの池で釣りをして過ごすこともありました。生活と仕事の距離感が近かったですね。

父はよく、「生まれ変わっても今の仕事をする。それくらい楽しい、良い仕事だ」と言っていました。その背中を見て、自分の好きなことを仕事で表現できるのが経営者なのかな、と感じて。父の後を継ぐかはわからないけれど、経営者になりたいと考えるようになりました。

仲間と、ものを作る喜び


勉強は苦手ではなかったので、地元の中学を卒業した後は進学校へ進みました。ただ、勉強よりも部活で始めたテニスに打ち込む毎日でしたね。仲間と一緒に何かを成し遂げる楽しさを感じました。

3年生になって部活が終わると、文化祭が待っていました。クラスで映画を作ろうと決まり、今度は映画製作に打ち込むように。受験シーズンでしたが、勉強は全くせず、ひたすら映画を撮っていましたね。

クラスにバレエを踊れる女の子がいたので、男子がバレエに挑戦するというストーリーを考えたんです。教えてもらいながら実際に踊る練習をし、撮影。パソコンを持っている子の家に夜な夜な集まって、編集作業に没頭しました。

みんな映画を製作したことはありませんでしたが、それぞれ得意なことがありました。パソコンに精通している子もいれば、音楽に詳しい子もいる。僕自身はそんな能力はありませんでしたが、あーだこーだ言うのが得意だったので、積極的に意見を出して。それぞれの強み、特徴を出しながら一つのものを作り上げるのが、すごく面白かったです。

そして迎えた文化祭当日。広い化学実験室を貸し切って暗室にし、映画を上映しました。クラスの子だけでなく、他学年や他校の生徒、一緒に映画を作ったメンバーや自分の親も見に来てくれました。

上映が始まり、笑って欲しいと思って作っていたところで笑い声が起きると、すごく嬉しかったですね。映画が終わると、会場が大きな拍手に包まれました。なんでもやればいいとは言いつつも、受験勉強しないことを心配していた母も、「すごくよかった」と喜んでくれて。その嬉しそうな顔や、会場の盛り上がり、一緒に作った仲間との一体感。本当に感動しました。仲間と一緒に何かを作り上げることの楽しさを知ったんです。

クリエイティブとビジネスの両立


文化祭が終わると、今度こそ受験へ。将来は父の跡を継ぐのかなと漠然と考えていて、父の事業につながる勉強ができる東京の大学へ進学しました。

しかし、入って半年ほど経つと、改めてこれでいいのか考えるようになりました。父は、自分が選択した、自分が良いと思った道で経営者になったから「楽しい、良い仕事だ」と言うんだろう。だとするなら、同じ道を行くのではなくて、自分が面白いと思えることで経営者になることが本質なのではないか、と。

そこで、自分が面白いと思える、やりたいことを考えるようになったんです。浮かんだのは写真でした。何かを作りたいという気持ちがあって、その手段として一番身近なのが写真だと感じたんです。小さい頃からよく撮っていましたし、映画の撮影をしていても撮るのが好きだなと思っていましたから。

やるからには、その界隈でトップと言われている場所に身を置こう。そう決心して、写真の本場であるニューヨークにいくことを決めました。決めたら一直線です。それまで得意ではなかった英語を勉強しながら、留学先を調べ、手続きも全部自分で済ませました。合格通知書を手に、両親を説得に行きましたね。本気が伝わり、アメリカの大学の芸術学部で写真を学べることになりました。

アメリカでは、語学が弱い分、誰よりも一番いい作品をつくろうと、毎授業に真剣に取り組みました。特に面白いと感じたのが、コンセプチュアルアートの授業です。コンセプトに合ったアウトプットを作る内容で、毎回時間と熱量をかけて取り組んでいました。

特に印象的だったのは、「時間」をテーマにしたとき。僕はジャズの有名な写真をオマージュして、『today was today』という作品をつくりました。写真に写った人一人ひとりに、赤い矢印で「ME」とつけて、封筒にしまいます。差出人も、宛先も、写真に写ったその人にして、本人から本人に宛てた手紙をつくりました。その手紙を人数分作って箱に入れ、それを一つの作品にしました。

つまり、写真に写っている自分も「自分」。でも、この手紙を開いて写真を見る自分も「自分」なのです。時間は可視化できないけれど、写真に映るこの自分と、今手紙を開いて写真を見ている自分との差分に、「時間」があることを表現しました。この作品は校内のアート・フェスで賞をいただくことができました。表現の中でも、きちんと構造や理論を考えて、合理性の中にある美しさを形にするのが好きだと感じましたね。

学校外でも、アメリカ一周の旅をして写真を撮りまくったり、数人のフォトグラファーのアシスタントをしたりと、精力的に活動しました。好きなことをやってお金を稼ぐところまでできるようになりたかったので、商用の素材が撮れるフォトグラファーを目指しました。

しかし、プロの方について業界を知るうちに、商業用の写真は企画しているのは別の人で、アメリカでは写真家は下請け的な働き方しかできない人が多そうだとわかってきたんです。クリエイティブができないと知り、この道でいいのか悩むようになりました。

卒業が迫る中、日英バイリンガルのための有名就職イベントが開催されると知りました。ほとんどの友人が参加していましたし、面白そうだったので僕も行ってみることに。いくつかの企業を回る中で、大手IT企業のエンジニアの方と話すと意気投合しました。

ものづくりに対する想いがすごく似ていたんですよね。そこで、写真という方法でなくても、クリエイティビティを発揮して、ものづくりでお金を稼げるんだと気がつきました。写真に対して迷っていたこともあって、その世界観にすごく惹かれたんです。

ちょうどアメリカで同時多発テロが起きたこともあり、外国人のビザ取得が厳しく制限されてきていました。そんな情勢もあり、日本に戻ってエンジニアとして、その企業に就職することに決めたんです。

「全てはうまくいっている」


未経験からのエンジニアの仕事は、とにかくハードでした。もちろん力量のなさも感じましたが、仕事量がとにかく多く、会社に泊まり込む日が続きました。周りには小さい頃からエンジニアリングを学び、実践してきた人も多く、どんなに頑張ってもこの人たちを抜くのは難しいと感じました。それでも、経営者になりたいという思いは変わらず持ち続けていましたから、異なる強みを身につける必要があるなと感じました。

そこで、入って2年後には異業種での転職を検討するように。知人に相談して、紹介された会社をいくつか見て、人に会っていきました。その中で、転職サイトを運営していたビズリーチに魅力を感じました。社員は10人もいませんでしたし、オフィスはお世辞にも綺麗とは言えず、最初の会社とはギャップがありました。でも、ガチャガチャした雰囲気と、そこにいたやんちゃさとプロフェッショナルを兼ね揃えた人たちに楽しさや強さを感じ、なぜか高校最後の文化祭で見た風景と重なって見えたんですよね。第六感を信じて、入社を決めました。

入社後は、法人営業を担当。未経験でしたが、目の前のことに必死に取り組みました。加えてエンジニアだった強みを生かし、営業を管理するためのシステムを構築。すると次は、マーケティングの担当をすることに。結果的に、事業立ち上げの工程のほとんどに携わることができました。

その後、新規事業を担当するようになり、海外事業の立ち上げを任せられました。正直、これまでは事業立ち上げといっても、言われるがままに必死に動いていただけ。未経験、しかも海外での挑戦でしたが、自分で事業をつくる経験ができることを嬉しく感じました。

ミッションは、日本で展開している転職サービスのアジア版をつくること。ハイクラス人材をどう集客するかが鍵でした。実際に始めてみると、事業はカオス。海外の市場、かつ新規事業ということで、変動要素しかありません。でも、そんな状況でも楽しめる自分を発見したんです。

アメリカにいた頃、両親から届いた手紙のことを思い出しました。手紙では主に、母が近況を書いて送ってくれていたのですが、最後に父から一言、「全てはうまくいっている」と書いてありました。父が起業したのは30代後半の頃、きっと悩むこともあったはずです。もしかしてその中で、自分自身に言い聞かせてきた言葉なのかもしれない。そう感じて、僕もその言葉を座右の銘にして、心の支えにするようになっていました。

思えば、父も母もいつも前向きで僕のことを否定しませんでした。どんな状況でもそれをポジティブに捉えられるよう、素地を作ってもらっていたことに気づいたんです。

そんな自分が自然と掲げたのは「Enjoy Chaos(エンジョイ・カオス)」というメッセージでした。答えがない中で、答えを見つけていく過程が楽しい。僕はそう思っていたし、チームにもそう思って欲しいと思ったんです。その言葉をTシャツや資料に入れたりして、少しずつ浸透を図っていきました。事業を進めるその過程は、高校生の時の学園祭前みたいで、自由な発想でクリエイティブを発揮するアートの制作みたいでした。

事業承継の難しさ


事業がひと段落して、本社に戻ると、事業承継の新しいサービスの事業立ち上げに着手しました。転職サービスを運営する中で、転職者だけではなく後継者を探している経営者が多いとわかってきたので、会社としてソリューションをつくることになったのです。

サービスをリリースする準備が始まった頃、折しも、父も後継者問題に悩んでいました。僕は、父を継ぐのではなく自分の事業を作ろうと決めていて、兄弟も各々の道を歩み始めていたのです。なんとなく先延ばしにしていましたが、継がないにしても父に対して何かできることがないかと考え、後継者候補を探すことにしました。

父の会社の人事部長の名刺を作り、採用活動を開始。僕が一次面接して、東京のホテルで父に最終面接をしてもらいました。しかし、父の目にかなう人は現れませんでした。自分でやってみて改めて、事業承継の難しさを感じましたね。優秀な人には出会えるのですが、商売っ気がないとか、本気のコミットメントがないと父が言い、なかなかぴったり合う人には巡り会えないんです。技能だけではなく、想いや覚悟などすごく要素が多いので、針の穴を通すような難しさなんだと実感しました。

その経験を事業に生かしながら、サービスをリリースした頃、父の体調が悪くなりました。病気が見つかったのです。事業承継が喫緊の課題になりました。ある団体が主催する、譲りたい企業と譲り受け企業のオフラインでのマッチングイベントを見つけ、父と参加してみることに。しかしそこでも、やはりうまくいきませんでした。

そのうちに、事業承継は経営者だけの問題ではない、という意識が生まれてきました。経営者だけでなく、その「せがれ」も考える必要があるのではないか、と。事業承継は社会問題であり、家族問題であり、せがれの問題。自分が動く番。20〜30代で東京に出させてもらっているせがれ達、そろそろ気づけよと、自戒を込めて思うようになりました。

いつかいつかと先延ばしにせず、継がなくてもいいから、親が元気なうちに何かしらアクションをとった方がいい。事業承継というと、どうしても固いイメージがあるけれど、もっと形式張らずに考え話し合ったらいい。

そう考えて、個人では「#東京せがれ」という活動を始めることにしました。イベントやラジオを通して、経営者の親や家業をもつせがれ達のムーブメントを企画していきました。

そんな中、父は最終的に、会社の従業員に事業を譲りました。相手は最初、「背負えない」と断っていましたが、体調の問題もある中で、最終的には承諾。2019年の4月、無事事業を譲りました。平成を経営者として駆け抜けてきた父は、その終わりとともに事業を引き渡したんです。事業承継に関わる一連のやりとりを間近で見てきたことで、これを自分のテーマとしてやっていこうと縁を更に強く感じるようになりました。

経営者の選択肢と可能性を広げる


今は、ビジョナル・インキュベーション株式会社で、事業承継M&Aプラットフォーム「ビズリーチ・サクシード」を推進しています。加えて、「#東京せがれ」の活動も続けていますね。

ビズリーチ・サクシードは、ウェブ上で譲り渡し企業と譲り受け企業とのマッチングを進めるサービスです。開始から3年経っていないサービスですが、公開中の譲渡案件は2800件、累計譲り受け企業は5800社で、全国の法人にご登録いただいています。実際に、リアルだけでは生まれなかったような、地域や業種を超えた多様なマッチングが生まれています。

サービスに登録できるのは、審査をクリアした法人のみ。会員制のプラットフォームにしているため、情報が漏れることもありません。オープンにしたほうが集客はしやすいのですが、実際に事業承継の現場を見たことで、譲渡企業の経営者は情報の漏洩に強い不安を抱えているとわかりました。信頼を担保した中で、情報を最大化させるシステムをつくっています。

僕がやりたいのは、経営者の選択肢と可能性を広げることです。今、全国の中小企業は約380万社あると言われていますが、そのうちの127万の事業者が後継者不足に悩んでいる事実があります。加えて、それらの事業の経営者は、2025年までに70歳以上となります。次の一手が見えないまま、高齢化が進んでいるというのが日本の現状です。事業承継は、待った無しの日本の課題なのです。

127万というとただの数字になってしまいますが、その事業者の1つ1つに、自分が見てきた、悩んでいたあのときの父がいるかもしれない。だからこそ、このサービスを使って選択肢を増やすことができればと思うのです。

M&Aは日本ではあまり良いイメージを持たれていませんが、可能性を広げる選択肢の一つ。どうにもならなくなってから譲渡を考えるのではなく、余裕がある時期に検討することが大事です。たとえ売却しなくとも自社の価値を知ることで、さらに価値を高めようと戦略を立てることができたり、別の可能性を見出したりと、できることが広がります。そんな風に、経営者の選択肢と可能性を広げるサポートをしたいですね。

一方で、事業を譲り受けることを検討している企業も、これまでは事業を思いついてからそれに該当する企業を探すのが普通でした。しかし、実際に事業譲渡を検討中の企業情報をみて考えることで、思いがけない可能性に気づき、新しい事業を生み出すことができるかもしれません。このプラットフォームで、ビジネスそれ自体の可能性も広げていけるはずです。

僕はこれまでずっと、自分が拓いた道で事業をする経営者になりたいと思ってきました。でも今この事業をしていることは、自分自身の能力や経験や原体験と、後継者不足という社会的な課題、会社の方向性などの外的要因が、うまく合致していると感じていて。こんなタイミングはなかなかないと思うので、大きな縁を感じています。全力で取り組まない理由がないんです。

今は、自分で想像できるよりも、もっと大きな波に乗っている感じがしています。世の中の流れのような大きな波です。この波に乗ることで、より世の中に大きな価値を提供できるんじゃないか。この先に、まだ見ぬ大きな何か、そして、自分だけでは辿り着けない経営者像があるんじゃないかと、そんな気がしています。だから今は、この波に乗って事業を推進することを通じて、自分でも想像できない自分に出会っていきたいです。

2020.10.12

インタビュー・ライター | 粟村 千愛
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