「宇宙の総合商社」として宇宙の産業化を。 元商社マンが未知のビジネスに挑む理由。

「宇宙の総合商社」として宇宙の産業化に挑む永崎さん。大手商社で働いていましたが、32歳のとき、言い訳のない生き方をしようと決め独立。しかし、独立後は食いつなぐために仕事を受ける日々が続きます。自分を見失いそうになった時、永崎さんに訪れた転機とは?お話を伺いました。

永崎 将利

ながさき まさとし|Space BD株式会社代表取締役社長
早稲田大学教育学部卒業後、三井物産株式会社入社。人事部、鉄鋼製品貿易事業、鉄鉱石資源開発事業に従事し、ブラジル、オーストラリアで計4年間の海外勤務を経験。2013年に独立し、ナガサキ・アンド・カンパニー株式会社を設立。教育領域における事業開発などを手がける。2017年、Space BD株式会社を設立。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員、横浜国立大学成長戦略教育研究センター連携研究員。

父の教え「男らしくあれ」


福岡県北九州市に生まれました。父は昔気質の九州男児で、小さい頃から「男らしくあれ」と教えられて育ちました。猫背になっていたり、人前で話す時に緊張したそぶりを見せたりすると怒られるんです。

ある日、遊園地に連れて行ってもらい、戦隊もののヒーローショーが始まるのを待ちながらご飯を食べていました。すると父が、これからショーが始まるステージを指差し、「おい、あそこに行って1曲歌ってこい」と言うんです。行きたくありませんでしたが、父は行けと一点張り。仕方なく、泣きながらステージに登って歌い始めました。

僕らと同じようにショーを待っていた親子連れは、いきなり僕が歌い出したもんだから騒然です。「何が起きたんだ?」と。恥ずかしかったですね。それでもなんとか歌いきって泣きながら戻ると、父は「よくやった」と一言。男は度胸、人前で堂々とあれ。口癖のようにそう言われました。

僕は父が怖くて、父が帰ってくるとピシッとして、怒られないよう早々に部屋に引っ込んでいました。でも一方で、男らしくあろうとする気持ちは僕の中に育っていて。大河ドラマで見た西郷隆盛に憧れたこともあって、男に憧れられるようなかっこいい男になりたいと思うようになりましたね。

小学校ではリーダーシップをとれる人間になりたかったのですが、人格が伴っておらず、思うようにうまくいきませんでした。中学生になると少しずつ人との接し方を覚えて、テニス部では部長になることができました。

リーダーの素質


中学校には、かっこいい校長先生がいました。学校は荒れていて不良も多かったのですが、校長先生が出てくると「校長先生に言われたら仕方ない」と不良たちも引き下がるんです。見た目も背が高く、いつも爽やか。かっこよくて憧れていました。

ある日先生に、「生徒会長をやったら」と勧められたんです。でも僕はテニス部の部長になる時、みんなで全国大会にいこうと話し合い、本気で全国を目指すために生徒会活動はしないと約束していました。やってみたい気持ちはありましたが、辞退したんです。すると、事情を知った父が「お前にはがっかりだ」と言います。お前は我が子ながらすごい男だと思っていたが、そんなもんか。もう今日で期待するのはやめる、と。聞き返すと、父はいいから聞け、と続けました。

「テニス部で全国大会に行くのは良いこと、素晴らしいことだ。でも野球部にだってバレー部にだって全国大会はある。全国大会にいける中学生はたくさんいるだろう。だから、全国大会にいけることだけがすごいとは思わない。同じように、全国の中学校の数だけ生徒会長がいるから、生徒会長がすごいとも思わない。でも、どっちもやれたらすごくないか。お前はそれに気づいて、自分で二足のわらじを履くと言える男だと思っていた」

そう言われて、頭をぶん殴られたような気がしました。その通りだと思ったんですよね。はじめからできないと決めつけるんじゃなくて、二足のわらじを履くべきだと。そこで部活のみんなに頭を下げ、校長先生にも発言を撤回し、生徒会長になりました。

大きなシンポジウムで中学生代表としてスピーチをするなど、いろいろな場を経験させてもらいました。テニス部でも、言い訳をしたくないと熱心に練習。最後の大会では、団体では県大会のベスト8でしたが、個人戦で優勝し、九州大会でも3位となり全国大会に出場しました。結果として、やりきったと感じることができたんです。

卒業を控えたある日、校長先生が二人で話す機会をつくってくれました。感謝を伝える中で「君は将来、何になりたいんだい」と聞かれました。僕は校長先生がとても好きだったので先生のようになりたいと思っていて。「学校の先生になりたい」と答えました。すると、先生に怒られたんです。

「私は、自分が育てた生徒には、日本を代表するリーダーになってほしいという思いでずっとやってきた。そんな生徒にやっと出会えたと思って、すごく期待しているんだ。君にはリーダーになる素養があるんだから、勉強して東京に出ろ。総理大臣を目指すくらいじゃないとダメだ」と。

そんな風に言われてびっくりしました。東京なんて行ったこともないし、総理大臣になりたいなんて考えたこともなかったですから。でも、先生が自分に期待してくれていることを感じました。その年は、先生の教員人生最後の年でもありました。自分にそんな風に言葉をかけてくれたことに対する、ありがたさが強く残りました。

自分の心の晴れやかな方へ


高校ではテニスを続け、さらにのめり込みました。もっと続けたいと、テニスの強豪を探したところ、結果的に東京の大学へ進学することに。大学に入っても、仲間に恵まれてテニスに明け暮れましたね。学年が上がるにつれ、将来どうするんだ?と考え始めました。

伝統あるテニス部だったので、OBとの繋がりが強く、いろいろな先輩に仕事の話を聞くようになりました。周りもみんな就職活動をしていましたし、就職することに疑問はなかったですね。最終的に、まだ行ったことのない海外に行けて給与も良いという理由で、大手総合商社を就職先に選びました。

最初は人事部、次に鉄鋼の部署に行って、営業を学びました。人事ではどうやったら会社の人気を出せるか考え、鉄鋼の部署ではどうやったら一番売れるかを考える。その時々の目標に対して一生懸命動いていました。やりがいがありましたし、楽しかったです。

しばらくして、ブラジルに2年間、駐在させてもらいました。仕事の傍ら、現地のテニスクラブにも入り生活に溶け込みました。任期を終え帰国するとき、テニスクラブの仲間と飲む機会がありました。すると、「最近うつむいてること多くない?」と指摘されたんです。

帰任が近づく中で、東京に戻ったらどこに配属され、どんなキャリアを歩んでいくのか。そんなことを考え込むことが多かったのかもしれません。全部伝わるかはわかりませんでしたが、そのことを仲間に伝えました。すると、めちゃくちゃ驚かれたんですよね。「仕事ってそんなに大事かね?将来のキャリアのことで、ビールを飲んでいる今この時間を無駄にするの?」って。大きなショックを受けました。その通りだな、と思ったんです。

でも、だからと言って、今やっていることを変える選択肢も思いつかず。帰国して資源投資を担う花形の部署に配属されると、再び仕事に没頭するようになりました。経験を積み、今度はオーストラリアに駐在することに。現地で 資源業界で国際的な力を持つ大企業との合弁企業に入り込んで仕事をしていきました。しかし、現地での意思決定と、日本の本社の意思決定が全く噛み合わなくて。これはまずいと調整していたのですが、上司との関係は悪化するばかり。他にも、会社員として少しずつ歯車が噛み合わなくなっていったんです。

それまでも、僕は上司に対して臆せず意見を言う方でした。おかしいと思ったことは後輩たちの分まで意見して、正しいと思うことをしたいと思っていたんですよね。でも、そのとき初めて「このままでは僕は多分、昇進して決定権を持てるポジションに就くことはできない」と思いました。大企業でできることは少なくないはずだけれど、自分で決められなければ意味がない。でも、決定権を持てるようになるためには自分を捨てて、上司とうまくやらなければいけない。自分の中に、大きな葛藤が生まれました。

西郷隆盛に憧れていた頃から、よい親分でありたいと思っていたんですよね。でも、自分が自分のことを誇らしく思えなかったら、誰もついてくるわけが無い。そう感じて、モヤモヤに切りをつけるために、会社をやめようと決めました。

やめる前に、福岡の両親に報告し、中学校の時の校長先生に会いにいきました。先生は、僕が以前取材してもらった雑誌の記事を読んでくれていて、活躍を喜んでくれました。でも、僕はやめようと思っていることを伝えたんです。

すると、先生は「君の活躍は素晴らしいものだと思うから、正直今の君の悩みはわかってあげられない。でも、もし悩んでいるんだったら、自分の心の晴れやかな方へ行きなさい。そうすれば人生後悔しないものだ」と言ってくれたんです。その言葉に、背中を押してもらえました。両親は、大手商社に入ったことを喜んでくれていました。その期待を裏切ってしまった申し訳なさはありましたが、迷いはなく、32歳のとき独立しました。

トランプを超えろ


やめたあと、何をしようかは決めていませんでした。自分のやりたいことをやろう、自分の思う最高に男らしい生き方をしようと考え、可能性を模索しました。ある人からインドの貧困家庭の子どもに教育の機会をつくるプロジェクトに誘われ、携わることに。日々お金を稼ぐために労働せざるを得ない子どもたちに、寄付金を渡すことで勉強する時間をつくろうという取り組みでした。

でも、インドの貧困さは日本で育った自分にはあまりにも壮絶で、感情的に寄り添えない自分がいました。加えて、寄付で運営を続けていくことに限界も感じました。さらに様々な人の介入があり思惑が交錯、9カ月ほどのちについにプロジェクトを離れることにしました。

その頃には、生活するためのお金も底を尽きかけていて。やりたいことはまだ見つかっていませんでしたが、稼ぐために起業することにしました。コンサルティングや営業代行、なんでもやりましたね。それでも、会社員になってしまったら以前と同じ、それでは意味がないと感じていたので、自分でやることに意味があると思ったんです。

しかしその生活は、予想以上に辛いものでした。自分の頑張りが何につながっているのかわからないんですよね。なんのために仕事をしているのかわからない日々に、虚しさが募り、どんどん気持ちが塞いでいきました。

あるとき、頼まれて教育事業を請け負ったんです。はじめは頼まれたコンテンツを売るだけでしたが、その領域に面白さを感じました。僕は、失敗を恐れずにチャレンジし、考え抜き、問いを立てる起業家精神が人生においてすごく大事だと感じていました。それを伝えていく教育事業をやりたいと思ったんです。やりたいことが見つかった感じがして、起業家教育を事業化していきました。その中で、大手企業の会長に気に入っていただき、プロジェクトを任されるように。事業が軌道に乗っていきました。

ある日、その会長に食事に誘われました。一等地にあるプライベートなレストランに連れて行ってもらい、どんな話になるんだろうと緊張していました。ユーモアと迫力ある話を聞いたあとで、アメリカの大統領選の話になりました。

2016年、ビジネスパーソンとして突き抜けたドナルド・トランプ氏が大統領になったばかり。すると会長はトランプ氏を例に出し「トランプを超えろ」とおっしゃったんです。

「教育は立派だし尊い。だけど、あなたは先生ではなくてアイコンになるべきだ。トランプ氏はビジネスパーソンとして突き抜けて政治の世界に進出した。賛否両論はあるとしても、その背中を目指す人がきっと現れるはずだ。あなたはまだ若くて、ビジネスで成功してそこにいける可能性があるんだから、なんでそれをやらないんだ」と。

帰り道、じわっと涙が出てきました。トランプを超えろって、大それたことじゃないですか。なんで、まだ何も持っていない人間にそんな言葉をかけてくれたんだろう。なんでここまで自分のことを叱咤激励してくれるんだろう。その期待がありがたくて、この人に恩返しをしたいと思いました。

同時に、目が覚めました。日々の生活をするために、小さくまとまってしまっていた。本当は、そのくらい大きなチャレンジをするために前の会社をやめたんじゃなかったのか。大企業をやめた時の気持ちが思い起こされて、日本を代表する経営者になろう、と決意しました。

宇宙産業との出会い


発奮して、これまで出会ったいろいろな人に、何かやりたいと相談して回りました。その中で、以前出会って意気投合した投資家の方に相談したんです。すると、相談した2日後に「永崎さん、宇宙やりましょう」と連絡がきました。

宇宙なんて考えたこともありませんでしたが、大きなことをするならそれくらいぶっ飛ばないといけないと言う気持ちもあって。それに、声をかけてくださったのにも理由がありました。

その方が官僚の方々と宇宙産業について話していた際、「今の宇宙産業に足りないものは?」と質問したところ、「昔気質の商社マンが欲しい」と返答があったそうなんです。日本は優れた技術を持っているが、ビジネスの観点からみると欧米に対して遅れている。宇宙領域は、まだ収益が出るような事業が生まれていない。先が見えない道ではあるが、欧米各社にも負けない、ガッツで突き進める商社マンがいたら、産業が変わるかもしれない、と。

この話を聞いて、二つ返事でやろうと決めました。話をした帰り道、「えらいこと言っちゃった」とドキドキしましたが。でも、これくらいやらないと商社をやめた自分が泣くと思いました。何より、自分に声をかけてくれたことが嬉しかったんですよね。

それから、その投資家の方とどうやって事業化できるか検討しました。全く未経験の領域でわからないことだらけでしたが、不思議と辛くはなかったですね。これまでずっと溜まっていたマグマみたいなものがあったんです。集中する先が見つかって、ようやくそれが爆発した感じがありました。

一から勉強して、人とたくさん会い続けました。門前払いされることもありましたが、なんのために仕事をしているのかわからない本当に辛い日々があったので、もうあんな思いをしたくないと言う気持ちがありました。エネルギーが尽きなかったですね。自分が人生をかけてやれることが、ようやく見つかった感じがしました。そして2017年、宇宙の総合商社、Space BD株式会社を立ち上げたんです。

背中を通して恩送りを


いまは、Space BD株式会社の代表として宇宙の産業化に取り組んでいます。やっているのは、主に超小型衛星の打ち上げ支援。衛星と呼ばれるものの種類はさまざまで、大まかに言うと宇宙空間に飛ばしたい対象物を衛星と呼びます。

以前は衛星自体が大型で高額なため、一部の研究機関や国などしか打ち上げられませんでしたが、今は技術革新で小型化が進み、費用も少額に。カメラやセンサーなどさまざまな技術を搭載した衛星を、民間の企業や団体が打ち上げられるようになっています。

衛星を打ち上げる方法は、大型ロケットの空きスペースに乗せてもらうか、専用の小型ロケットを打ち上げるか、国際宇宙ステーションに運んでもらいそこから放出してもらうかの3種類。小型ロケットの打ち上げは開発が進んでいますが、まだアメリカの1社しか商用化されていません。そこで我々は大型ロケットの相乗りと、国際宇宙ステーションからの放出の2つで事業をしています。

JAXAが、大型ロケットへの相乗りと、国際宇宙ステーションから衛星を放出できる権利などを民間開放しており、我々はその権利を全て取得することができました。その権利を活用しながら、衛星を打ち上げたいお客さんに伴走し、乗せたいロケットとのマッチングや打ち上げ安全審査の準備、衛星を作る際の部品の輸入販売などを行なっています。顧客は大学や研究機関、ベンチャー、大企業のR&Dの部署などですね。

そのほか、宇宙飛行士の能力や心構えを一般教育に活用するプロジェクトを立ち上げ、教育事業もスタートしています。地上の総合商社も、車や鉄や食糧など、さまざまな商品を扱っているので、宇宙の総合商社たる我々もなんでもビジネスにしていこうと事業開発を進めています。

宇宙ビジネスは、いまだ儲かる仕組みができていません。今はまず、宇宙空間へのアクセスのハードルを下げ、参入者を増やし、宇宙産業のすそ野を広げていきたいと思っています。その人と知恵とお金が増えることで、新たなビジネスの可能性が生まれると思うからです。

日本は宇宙関連の優れた技術を持っていますが、ビジネス化に関してはやはり欧米が先行しています。二番煎じになるのではなく、日本が先導できるようにしたいと考えています。

日本を代表するようなベンチャーに、ビジネスパーソンになることが僕の夢です。じゃあそんなビジネスパーソンになってやりたいことは何か?と聞かれたら、夢や希望に溢れる、良い社会を作ることなんです。

いま、日本には「どうせ日本なんて…」という空気がある感じがしています。どうせ少子化だし、勝てるビジネス領域もなくなってきているしと、自虐的になっている若者が多いんじゃないかと。そうじゃなくて、みんなが夢や希望を語れるような空気を作りたいと思うんです。

そのために、自分が先陣を切るビジネスパーソンになる。日本発で、世界を代表する産業と会社を作りたいと思っています。その自分の背中を通して、これまでもらってきたものを後の世代に送る、恩送りをしていきたいです。

2020.10.06

インタビュー・ライター | 粟村 千愛
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