食は「心」を育てるもの。 選んだ責任を持ち礼を尽くす、食文化を再び。

東京の下町で紹介制レストランを運営するオーナーシェフ、渡邊さん。幼い頃から料理人を目指して有名店で修行を重ね、こだわりの食を提供している渡邊さんが、食を通して伝えたいこととは。お話を伺いました。

渡邊 将史

わたなべ まさし|TakaMasaオーナーシェフ
辻調理師専門学校を卒業後、「イザベラ ディ フェラーラ」「サバティーニ」など4店舗で料理長を務める。その後、2009年東京下町にイタリア料理店をオープン。2020年、情報非公開、一日二組限定のレストランとしてTakaMasaをオープン。

外食は社会を学ぶ機会


栃木県宇都宮市で生まれました。姉との2人兄弟です。父の性格に強く影響を受けて育ちました。父は肉の卸業をしていて、無口な職人気質。曲がった事が大嫌いで、間違っていないのに責められている人がいたら、自分のことは二の次でかばうような人でした。そんな背中を見て育ち、自分も曲がったことにはハッキリ意見するようになりましたね。

小さい頃から、料理に興味を持ちました。母は料理上手で、毎食いろいろな種類のおかずを作ってくれるんです。母の料理は何より美味しく、自然と台所の母を手伝うようになりました。様々な自然の食材に触れて、こんな食材からこの料理ができるのか、とびっくりするのが楽しくて。周りからは「漫画より料理番組の『3分クッキング』を見ているよね」と言われるくらい、料理が好きになりました。

夏になると、海沿いの祖父母の家にいき、新鮮な海の幸を食べさせてもらいました。また、父の仕事先の料理店へ、外食に連れて行ってもらうこともありました。ステーキ屋さんに行くと、大きな鉄板のカウンターがあって、目の前で肉を焼いてくれるんですよね。パッと電気が消えたと思うと、ブランデーでブワッと炎が上がって感動しました。

お寿司屋さんに連れて行ってもらった時は、入った瞬間から空気がピリピリして感じました。ベラベラ話しているお客さんはいなくて、独特の緊張感があるんです。料理人さんにとって、料理は勝負。そう感じて、ピンと張り詰めた空気感がすごく好きになりました。

店ごとに違うルールがあって、その中で食事をする。外食を通して、社会勉強をさせてもらっている気がしました。そして、その中で見る料理人の姿に憧れて、漠然と自分も料理人になりたいと考えるようになったんです。

料理の道へ


小学生になるとスポーツに力を入れ、学校が始まる前に陸上の朝練、授業が終わるとミニバスケ、そのあとに民間のスイミングスクールと、運動漬けの毎日を過ごしました。中学校に入ったタイミングで、水泳1本に集中。陸上でもミニバスケでも成果を出せていましたが、なぜか水泳をやろうと思ったんですよね。

目立った選手ではありませんでしたが、3年生になって急にタイムが伸びて。水泳の特待生として高校に進学しました。高校でも泳ぎ続け、国体に出場したんです。

ただ、水泳で食べていこうとは思っていませんでした。一握りの選手しかお金を稼げないとわかっていたからです。目指しているのは、変わらず料理の道でした。そこで、部活が終わると、進学ではなく就職したいと両親に話したんです。世の中はイタリアンブームで、地元にもイタリアンの店が何店舗か出始めていました。そんなお店で働きたいと思っていました。

しかし、母に止められて。「友達を一人見つけるためでもいいから専門学校に行きなさい。料理とは何か、外側から一度見てみて、それでもやりたければ就職しなさい」と言われました。そこで、大阪の調理専門学校へ通うことにしたんです。

学校でイタリア料理や語学を学び、翌年、上京してルネッサンス期の貴族料理を出すお店に就職しました。フランス料理ができる前にヨーロッパで食べられていた料理です。イタリアンではあるものの、フレンチ要素が強い料理でしたね。

店はかなりの縦社会で、先輩の言うことは絶対。どんなに理不尽なことがあっても、自分が謝らないといけませんでした。しかも、先輩から理不尽なことをされて僕がミスをしても、誰も助けてくれないんですよね。ああ、東京の街と職人は、こういうものなんだ、と知りました。

それでも、僕はやめようとは思いませんでした。自分で選んだ道、やりたい仕事をやるためには、耐えるしかないと思ったんです。スポーツで鍛えた精神力もあって、とにかくまずは1年、見てみようと決めました。

すると、少しずつ先輩の態度も変わってくるんですよね。やっぱり人だから、ずっと耐えていると、だんだん「耐えたな、お前」という可愛がり方になってくるんです。そんな風にして、なんとか居場所を作っていきました。

言葉ではなく行動で示す


1年経ったころ、その店の姉妹店に移動になりました。行って早々、新しい店の料理長に、「使えないからそっちにやるって飛ばされたんだ」と言われました。悔しくて、頑張って見返してやろうと発奮しましたね。反骨心が好きなんです。そこでスイッチが入って、本気で勉強するようになりました。

職人の世界は、言葉ではなく料理で示さないといけません。ストイックに努力して、技術を磨きました。すると、それを料理長が見ていてくれたのか、「あの店にいる渡邊って奴が、良い料理をつくるらしい」と話題になったんです。自分が口ではなく、行動で示したことを見て、認めてくれる人がいる。嬉しかったですね。最初のような理不尽な出来事も徐々になくなり、認めてもらえるようになりました。

6年ほど働いたあと、キャリアを積むために別の店に移ることにしました。有名なイタリア料理の店です。そこでは、完全なヒエラルキーがあり、料理長が絶対的な存在でした。まず洗い場からはじまり、サラダ場で1年、魚の下処理に1年と、上に上がるのにすごく時間がかかるんです。炭火を扱うチャコールと言われる持ち場に上がるまでは、10年かかると言われていました。

でも、立場が上になると、仕事をしないでタバコをふかしている人もいて。しかも僕がルネッサンス期の料理をやっていたと言うと、それがどんな料理か調べもしないで「そんなイタリア料理でもないもの」とけなすんです。

僕はヒエラルキー的な構造も、いきなりけなされたことも本当にいやで、ここを大改革してやめてやると決めました。そのためには、「できる」と認めさせて、上に行かなければいけません。僕は水分をとる時間すら制限して、ストイックに仕事に向き合いました。

もう、無言のアピールですね。結果を出すしかないんです。とにかく人より無言で頑張る。料理はパズルみたいなものなので、うまくはまるように計算して工程を組んで、「できました」と見せる。そうすることで、上にあげざるをえない結果を出していきました。

その店は、自分の店の料理を神様みたいに考えていて、「この料理はこういうものだ」「こういう風にしか作っちゃダメだ」と教えていました。それが可能性を狭めているように感じていて。そうじゃなく、もっと自由に、より良く変えていきたいと思ったんです。

最初は、教えられた通りのものをまず作りました。そこから少しずつ、自分のエッセンスを入れていくんですよね。ただ、そのためには上の人の許可が必要です。虫の居処が悪い時にいくら言っても許可はおりませんから、今このタイミングで言っちゃダメだな、明日だったらどうかなと、相手の心理を読みながらやっていくんです。相手が「おお」と思ってくれるようなタイミングを見計らいました。

僕のやったことに「いいじゃん」と言ってもらえると、それ以降は同じことができるようになるんですよ。料理が、僕のものになっていく。僕の料理が脳裏に残って、特別な方が来た時に「このあいだ将史がやったやつをやろうよ」と声がかかったりするんです。そういうことをするのは、すごく面白かったですね。

徐々に自分のできることの範囲を増やしていき、結果的に10年かかると言われたチャコールまでを、1年で担当できるようになりました。実力さえあれば上に行けるんだと示せたことで、後輩にも道を拓くことができたと思います。

1年半経ったとき、以前いた店から料理長に来ないかと誘われました。もともとやめるつもりだったのでその話を受けて、店を移ることに。やめる時には、料理長からやめないでくれと再三引き止められました。でも、「僕はやると言ったことはやったから、後輩のために変わったものを元に戻さないでやってください」と話して、その店を後にしました。

ふっと笑顔になる料理


料理長に就くと、およそ150席あるその店と、50席ほどの姉妹店とを統括することになりました。できることが増えて、天狗になる部分もありましたね。ただ、初めての料理長、まだまだ未熟な部分がありました。2年ほど経つと、次のキャリアを求めて別の料理店へ。そこで1年半ほど働いた後、しばらく休憩して次に何をするか考えようと思いました。

そんなとき、慕ってくれていた後輩から連絡があったんです。彼と一緒に働いたことは1日しかないのですが、店で回っていた僕の噂を聞いて、慕ってくれていて。店を移ると必ず顔を見せに来てくれていました。

そんな彼が、実家で自分の店を開こうとしていたところ、病気が発覚したというのです。誰かに代わりにやってほしいが、知らない人には任せたくない。やってくれませんか、と話をされました。

彼が店を構えようとしていたのは、僕にとっては見知らぬ土地、飲食店もほとんどない市街地でした。立地がいいとは言えませんでしたが、慕ってくれている彼の頼みでしたし、やりたい、いけるんじゃないかと思ったんです。そこで引き受け、自分の店を開くことになりました。

最初は、お客さんのこともわからないので、基本はアラカルトでかなりの品数を揃えました。そのうち常連さんができてくると、大変じゃない?と言われるくらいの数でしたね。お客さんの様子を見ながら、少しずつ自分のやりたい店に近づけていきました。

僕が作りたい料理は、笑顔になる料理なんですよね。華美な装飾や奇抜なテクニックは必要ない。見た目や雰囲気でテンションが上がるのではなくて、心が満たされる料理を目指しています。

たとえば、子どもの頃食べた料理の記憶があるじゃないですか。僕が目指すのは、大人になって思い出すその懐かしい味の記憶を、一個超えた味なんです。懐かしくてほっとするけれど、「うめえな」って自然にふっと笑顔になる。そんな料理を作りたいと思っています。

その想いを実践していくと、お客さんにも「渡邊さんのあの味が忘れられない」と言ってもらえるようになりました。

一方で、驚いたのはお客さんの中にマナーの悪い人がいることでした。僕が子どもの頃外食していた時は、外食は社会勉強の場だったんです。でも、お客さんの中にはただ写真を撮るために食べに来て料理を残したり、マナーを守らず自己主張ばかりしたりする方もいました。

食事は体を作ると言いますけど、僕はそれだけじゃなくて心を作ると思っています。思い返せば自分自身も、食を通して両親に心を育ててもらっていて。例えば、外食に行った時はその店のルールを教えてもらいましたし、食材を通して農家さんや漁師さんがどんな課題を抱えているか学びました。自分が体験したように、食を通して心を育めるようにしなければと思うようになったんです。

日本の食文化を取り戻す


いまは、東京都の下町で、完全紹介制の料理店を営んでいます。生産者から直接仕入れるこだわりの食材をつかい、グルテンフリーにも取り組んでいますね。

発信などを通し、食を通して心を育むにはどうすべきか、考える人を増やしていきたいです。もともと、日本には僕が体験したような食文化がありましたが、今はどんどんぐちゃぐちゃになっていると感じるからです。

まず、消費者は、自分が何を食べているのか把握した上で、食べものを選んだ責任を持つべきだと思います。例えば、乱獲により10年後には良い魚がとれなくなると言われていますし、人気のある和牛を増やそうとした結果、食肉にもなれない種牛が作られている現状もあります。そういった問題をきちんと知って、持続可能なものを選んで消費していくべきです。

加えて、外食のあり方も見直すべきと考えます。今は、ミシュランや食べログに評価される店に人が集まる仕組みができています。その結果、料理そのものを楽しむのではなく、そういった有名店に行った自分をアピールしたい人が増え、そういう客に評価されるよう、店も変わってきてしまいました。その結果、料理人も育たなくなっています。

料理人は本来、職人だと思います。他人の資金やコンサルも入れず、本当に美味しいものをと試行錯誤した結果が料理なんです。だから、自分で店を選んで入ってきたお客さんも、礼節を持ってそれを食べるべきだと思うのです。外食はそういった誰かの仕事に対する礼節を学ぶ場だったからこそ、昔お寿司屋さんで感じたような緊張感がありました。

しかし今は、お金さえ払えば注意する人がいなくなってきています。食を通して心を育むためには、食を通した教育の機会を取り戻していかなければと思っています。

ただ、そういった思想を実践しようとすると、経営は大変になります。それでも僕は、紹介制にして、誰かの評価ではなく自分が、僕の料理を良いと思って紹介してくれる人だけをお客さんにしたいと考えてやっています。

いま、新型コロナウイルス感染症の影響で、飲食業界は大変な時期を迎えています。でも僕は、これを一つのチャンスだと捉えています。一人でも多くの人に、食とはなんなのか、食をもう一度見直す機会にして欲しいと思います。本当にそのレストランにいく価値があるのか。そしてレストラン側にも、過剰な装飾やパフォーマンスに、本当に意味があるのか考えて欲しいのです。

今後は、自分が本当に食べたいものを、自分の責任で選べる人を増やしたいですね。そして、そこで選ばれるものを、職人として作り続けていきたいです。

2020.10.01

インタビュー・ライター | 粟村 千愛
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