「一人ひとりが主役」の社会を作る。優等生だった私が選んだ、固定概念を壊す生き方

働く若手女性向けWebメディアの副編集長の小田さん。現代社会を生きる女性たちを固定概念から解放したい、という想いで日々メディアを運営しているといいます。優等生である自分から抜け出せずにいた小田さんが、自分らしく生きられるようになったきっかけとは?お話を伺いました。

小田 舞子

おだ まいこ|日経doors副編集長
1978年宮崎県で生まれ、岩手県盛岡市で育つ。国際基督教大学卒業後、新卒で日経BP社に入社。「日経DUAL」立ち上げなどを経験後、日経doors副編集長として、20〜30代の女性に向け多様な働き方、生き方を提案している。地元岩手の地域活性化に取り組む「いわて銀河プラザ応援女子会anecco.(あねっこ)」の活動にも精力的に取り組む。

英語を通して広がった世界


宮崎県で生まれ、すぐに岩手県盛岡市に引っ越しました。2歳上の姉の後ろをいつもくっついて歩くような、甘えっ子でしたね。

3歳の時に、「早いうちに子どもたちのコミュニティに入ったほうがいい」という母の意向で、英語教室に入ることに。週1回の授業を受けるほか、毎日15分、英語教室の教材として渡されていたカセットテープで英語の音声を繰り返し聞くのが日課になりました。何度も同じ音を聞いて、発音をそっくりまねしてみたり、時には自分の発音も録音して聞いてみたり。はじめは遊びのような感覚でしたが、次第に上達するのがわかり、英語がどんどん好きになっていきました。

幼稚園の年長さんの時、英語教室が主催しているスピーチコンテストに出たいと自分から手を挙げました。いっぱい練習をして迎えた当日。覚えた英文を大勢の前で披露するスリルと達成感にハマりました。時間をかけて一つのものを作り込んでいく過程にも面白さを感じ、どんどんのめり込んでいきましたね。小学6年生の時には地方大会を勝ち上がり、全国大会の小学生の部で1位をとりました。

夏休みにハワイでの語学研修に行く機会にも恵まれました。現地では、地元の若者が日本人の子ども達をお世話をしてくれて。その若者の中に、規範に縛られず、自由に、いつもとても楽しそうに振る舞っている女子学生がいたんです。他の人とどう違うのかうまく言語化できないのですが、その力強さや自由さをものすごく魅力的に感じて。「私もこうなりたい」と憧れましたね。

高校に入ってからは、国内最高峰の英語弁論大会である高円宮杯にチャレンジ。全国から集まってくるレベルの高い友達と知り合うことができました。努力を重ねることで、どんどんステップアップできて、たくさんの面白い人に出会える。自分の世界が広がっていくのが楽しかったです。

高円宮杯の時、私のスピーチを聞いてくれた観客の方が感極まって泣いているのが見えました。いいスピーチができた時って、そういうふうに観客の方が涙を流したり、私のほうも感極まって涙が出てきてしまうことがあるんです。スピーチを通して、聞いている人と心が通じ合う瞬間。その一瞬に痺れましたし、会場と一体になれる感覚がたまらなく好きでしたね。

英語は、伝えたいことがあったらはっきりと言葉にする言語です。お行儀はそんなに大事ではなくて、話した内容がすべて。小さい頃から割とまわりの目を気にしがちなタイプだった私も、英語を話している時はありのままの自分でいられる気がしました。

英語を通して世界が広がっていく一方で、日本の生活で大事にされがちな「~べき」というものに、何となく疑問を感じるようになりました。例えば学校ではチャイムの音とともに「絶対に」みんなと同じように行動しなければならなくて、人と違う時間にトイレに立っただけで注目されることもある。そんな、みんなと同じ時間に同じことをしていないとなぜか後ろ指をさされるような空気に、違和感を覚えました。

それでも、私は小学校の児童会で副会長を務めるなど、誰からも後ろ指をさされない、完璧な優等生でいたいという気持ちを拭えずにいました。優等生でいたい気持ちと、日本社会特有の固定概念や規範なんてぶっ壊したいという気持ちとのはざまにいて、窮屈さを感じていましたね。

そんなある日、ふとした瞬間に父親が笑いながら「まいちゃんはなんでそんなにいつも真面目なの? もっと肩の力を抜いてふざければいいのに」と言われたんです。父親にそう言われて、なんだか拍子抜けしてしまって。本当に肩から力が抜けた気がしました。それからは、少しずつ、人前でも変顔をしたり、はっちゃけられるようになってきて、かっこ悪い自分を見せることが恥ずかしくなくなって、ありのままの自分を出せるようになっていったような気がします。

海外で認識した 「日本人の自分」


幼い頃から英語を学んだり、海外文学を愛読したり、実際に少し海外を見ていたからか、自然と「世界中で起こる戦争や紛争を解決したい」と考えるようになり、高校卒業時の夢は外交官でした。国際的な問題について学ぶことができる東京の大学に進学。大学では模擬国連のサークルに入りました。そこでは国連のルールに則って、議論を交わしたり、リサーチをして議案を作ったりしました。

紛争が絶えない国々の社会的背景について深く勉強していくうちに、どの国にもそれぞれ言い分があることがわかりました。一つのテーマについて調べて、みんなで真面目に討論して、理解を深めていく過程がすごく楽しくて。学生時代の自由時間をほぼすべて投じるくらい、夢中になりました。

どうせやるなら何か大きな場で挑戦したいと思って、大学1年生の時に全米大会に挑戦しました。ニューヨークにある国連本部の近くのホテルに泊まり込みで、各国の優秀な学生と一緒に討論。大きな刺激をもらいましたね。

そのうちに、模擬ではなく、本当の国連で挑戦してみたいという気持ちが強くなっていきました。国連に行くためには大学院に行って、博士号を取らないといけない。そこまで考えてふと、私が本当にやりたいことは何なのか、もう一度立ち止まって探してみることにしたんです。

ちょうどその時、大学のプログラムでタイのスラム街にあるNGOで2カ月住み込みで現地調査をしながらインターンをする機会がありました。スラム街で貧困の実態を見て、どうしたらこの問題を解決できるのか考えていくうちに、私が解決したいのは、国際的な戦争や紛争だけではないと気がついたんです。突き詰めていったら、日本社会にもまだ解決すべき問題がたくさんあるんじゃないかと思いました。

今までスピーチコンテストや模擬国連などを通して海外に出てみると、日本の政治や経済はどうなっているのか聞かれる機会がすごく多かったこともあって、「日本人としての自分」を強く自覚していました。やっぱり私は日本をもっと知りたい。日本人として、日本の経済や社会について語れる自分でありたいと思いました。

そこで、日本の経済を学びたいと就職活動を開始。一番自分に合っていると感じた、ビジネス系の出版社に入社しました。

震災を機に芽生えた主体性


入社してからは、ビジネス誌の編集部で取材をしたり、記事を執筆したりしました。でも、原稿がうまく書けなくて非常に苦労しましたね。書きたいことはぼんやりと頭の中にあるのですが、どうすれば分かりやすく日本語で表現できるのか、コツがわからなかったんです。英語と日本語の考え方や書き方の違いをはっきりと認識できていなかった部分があったのかもしれません。上司に、「小田ちゃんの書く力を改善するには、これからどうしたらいいんだろうね」と原稿を目の前に置かれて悩まれてしまったこともありました。

記事を書くためにはとにかくネタを集めないといけないのですが、それも思うようにできなくて。書けないし、ネタも集められない。辛くて、毎朝通勤時にはお腹が痛くなったし、よく泣いていました。でも、文章を書くこと自体は好き。書くことに対する情熱と伝えたいという想いで、なんとか続けられていました。

社会人になって数年経った頃、岩手県庁から文化大使をやってくれないかと誘いがありました。もともと「岩手のために何かしたい」と思っていたので、すぐに引き受けました。しかし、いざ文化大使に就任しても、何をしたらいいのかわかりません。

そのあと、今後は東銀座にある岩手のアンテナショップを応援する女子会に入ってほしいという連絡をもらいました。店を盛り上げるために、東京で働く岩手出身でメディア企業で働く若手女性を探していたそうです。早速、私を含め、何人かの女性が集まって、チームで活動することになりました。

でも、最初のうちは大した貢献もできません。アンテナショップの小規模なリニューアルに関わっても、すでに出ている案に対し、どちらがいいかを答えることしかできませんでした。「本当はもっと私にもできることがあるはず」と思いながらも、すべきことがわからないし、実績もない自分が新しい提案をするのも気が引けるし、自信もないし、で。岩手のために何かをしたいという気持ちはあるのに、何もできていない。一緒に活動していたチームのメンバーも、もしかしたら同じような気持ちだったのかもしれません。

プライベートでは、社会人3年目の頃に結婚し子どもにも恵まれました。でも、母親としては0歳で、全然一人前ではないという気持ちがあって。仕事も、年数は経っているのになかなか成果が出せず、岩手の活動もうまく進まない。すべてにおいて半人前で、中途半端。焦りだけが募っていきました。

そんな時、東日本大震災が発生。美しい、大好きな岩手が津波で壊れていくのを、テレビで見ていることしかできませんでした。そのとき、私が何もできなかったからだ、私のせいだ、と感じたんです。

何かをしなければ、と感じてすぐに岩手県庁の東京事務所に連絡しました。東京事務所の職員の方は災害対応があって身動きがとれなかったんです。これはもう東京にいるメンバーが何かやるしかないと思いました。東京にいるメンバーとのミーティングを重ね、分担して活動をしていくことに。はじめは岩手出身のシンガーソングライターのメンバーに協力してもらい、ライブハウスを借りて、復興支援のチャリティイベントを運営しました。そこで集まった寄付金を岩手県のNPOやNGO団体に送ったんです。

そこからは、無我夢中でいろいろな活動をして。自分がやりたいこととやっていいことのせめぎ合いのなかで、本当に今自分がやっていることは正しいのか、日々模索をしていました。リーダーとしての孤独感や、何かを始めるリスクを背負う大変さを痛感しましたね。

でも、だんだんと活動に参加してくれるメンバーも増えて、形になっていって。物事を作り上げる喜びや充足感を味わいました。

自ら実感した、女性の働きづらさ


その頃仕事では、新しく立ち上げる共働きのママ&パパ向けのWebメディアのチームに異動になりました。

異動してみて、これまでのチームとの違いに驚きました。以前は男性中心の職場でしたが、新しい環境では子育て中の女性も多く、困った時はお互いに助け合う雰囲気。保育園のお迎えに間に合うように、集中して仕事を片付けるスピード感を常に共有できますし、家族内での様々なトラブルもかなり包み隠さずシェアできました。

私は学生時代から男女問わず友達がいて、男女の違いをあまり意識したことがありませんでした。むしろ「女性らしい」と思われたくない、と思っていたくらいです。でも男性に囲まれて仕事をしていた時は、かちっとしたスーツを着て、子どもを言い訳にできないと思って、親やシッターさんに力を借りながらがむしゃらに働いていました。無意識に、周りに合わせて「女性だから」と言われないように振舞っていたことに、異動してみて気がつきました。

本当は大好きだった大きいプリント柄のワンピースを着て、子どものその時の状態を周囲に伝えて本音で相談しながら、互いに配慮しあって働ける。そんな環境になって初めて、深々と呼吸できたような気がしました。今まで自分の感情に蓋をして働いていたんだ、とハッとしましたね。無意識に自分の中にあった鎧を、少しずつ剥がしてもらった感覚でした。

ウェブメディアの取材をしていると、そういった問題を自分だけではなく、多くの働く女性が抱えているのだと気づきました。夫婦間固有の問題だけではなく、「女性はこうあるべきだ」といったような社会全体の空気がまだまだある。こんな固定概念は取っ払いたいと強く思いました。

一人ひとりが自分を押し込めることなく、臆せずに、言いたいこと言える世の中にしたい。そのためにはまず、男女の不平等を解消する必要があると思いました。もちろん、性は多様化しているので、男女という概念だけでは語れない部分もあります。でもそれらをひっくるめて、性にとらわれず個が生きる社会にするために、性差を無くしていくべきだと感じたんです。まず、この問題に取り組もうと決めました。

一人ひとりが主役の社会を作る


今は、20〜30代の女性向けメディア「日経doors」の副編集長として、男女平等を目指したコンテンツを発信しています。日々いろいろな人に取材をする中でたくさんの出会いや発見があって、ありがたい仕事だと思っています。加えて、日経新聞社と合同で日本の女性を応援する「日経ウーマンエンパワーメントコンソーシアム」というプロジェクトにも参画しています。

私の個人的な理想は、「一人ひとり、みんなが主役」の社会です。それはつまり、個人が言いたいことを言いたいときに安心して言える社会だと思っています。

今はSNSが普及したおかげで、以前に比べると個人の意見を発信しやすくなっています。個人とメディアの発信力がだんだんと対等になってきていますし、大企業でも副業が認められるようになり、日本社会全体が「個の時代」に向かう過渡期に差しかかっているのだと思います。

それでもまだ、日本社会には、まわりと足並みを揃えて生きないといけない、レールから外れてはいけないといったような固定概念や規範があると思っていて。それによって、言いたいことが言えない人がたくさんいるんです。私はそんな固定概念を壊したい。性別もその一つです。

もしかすると、私自身もまだ、自分の感情に蓋をしているのかもしれません。社会からのプレッシャーだけではなく、「これは言わないほうがいいだろう」「こんなことはできないだろう」と無意識のうちに思ってしまっていることがあるはずなんです。私自身がこの蓋を外して、自分らしく生きることを追い求めていきたいですね。

今後は、本業を通してそれらの想いを叶えたいと思います。それから、岩手の活動にも取り組んでいきたいですね。anecco.の活動を通して、東京と岩手だけでなく、世界と岩手を結ぶ架け橋のような存在になりたいです。子育ても大切ですし、リモートの機会が増えているので、個人のキャリアとしては海外とも繋がりたいと思っています。あらゆる挑戦に臆病にならずに、自分らしく楽しくやっていきたいと思います。

2020.09.17

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 安心院 彩
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?