人生は、ありたい自分を見つける「武者修行」。 大人の本気が、自立し自走できる人材を育てる。

主に学生を対象に、自分でゴールに向かって走れる自立した人材を育成する「武者修行®プログラム」を運営する山口さん。「昔はロボットみたいだった」と話す山口さんが変わったきっかけとは。そして今、事業を通して伝えたいこととは。お話を伺いました。

山口 和也

やまぐち かずや|株式会社旅武者代表取締役
新卒入社した会社が倒産し、米系大手医薬品・医療機器メーカーへ転職。社長室で勤務したのち日本人で初めて米国本社へ異動、世界各国のマーケティング担当者とグローバルプロジェクトに携わる。早稲田大学ビジネススクール入学後、実弟が起業した株式会社シェアーズの代表取締役に就任。2014年には単独で株式会社旅武者を創業し、学生を対象に海外ビジネス研修「武者修行®プログラム」を開始。2020年3月末には累計3,684人が参加し、海外インターンシップ受け入れ実績ナンバーワンに。

親が敷いたレールの上を歩く


神奈川県秦野市で、3兄妹の長男として生まれました。思いついたことはチャレンジしてみる性格で、よく無茶をしていましたね。自転車で下り坂を思いっきりくだって電柱に激突したり、転んで手や顎を切ったりと、怪我が絶えなかったです。

変わっていたせいか、小学校に入るといじめられました。心配した母は、家でそろばん教室を開いてくれて。教室に通ってくる近所の子と遊んでいましたね。母は教育熱心で、空手、ラグビー、書道、そろばんと、いろいろな習い事をさせてくれました。いろいろなものに触れられて楽しかったものの、どれも自分で選んでやっているわけではないので、何をやってもやり切った感じがありませんでした。

中学、高校と、親の勧めに従って進学しました。中学校はリベラルな校風で、いじめなどもなくのびのびと過ごせました。高校は大学の付属校で、将来のことを考えることもなく部活に恋愛に楽しんでいましたね。

大学も、外部受験せず内部進学しました。親から自分の意見を求められることもありませんでしたし、自分で考えて選ぶということがありませんでした。ただ、受験しなかったことはなんとなく後悔が残りましたね。自分をすごい天才だとは思いませんが、受験すればもっと上のレベルで戦えたんじゃないか、と思ったんです。エスカレーターで進学したことで、学歴に対してコンプレックスを抱くようになりました。

芽生えた生存本能


大学入学後、母から留学を勧められました。元々は母が行こうとしていたのですが、スケジュールが合わなくなったから「しょうがないから和也行く?」と言われたんです。せっかくならと、1年間ニュージーランドに留学することにしました。

自分で決めた訳ではないのでモチベーションはそこまで高くありませんでしたが、とにかく言葉が伝わらないので必死で勉強しました。自分の誕生日には、通っていた学校で皆に「バースデイ」だと伝えたいのに聞き取ってもらえなくて。発音記号からやり直しましたね。きっかけは母親でしたが、自分が頑張らないとなんともならない環境にぶち込まれたことで、生存本能が芽生えました。

帰国すると、友達に誘われて学園祭実行委員の幹部をしたり、ホテルでベルボーイの深夜アルバイトをしたりと、活発に動くようになりました。親からの仕送りなしで生活していましたね。活動を通して、自分で考える力を鍛えられました。

就活の時期になりましたが、時代は就職氷河期。企業にハガキを送って応募するのが普通だったので、いろいろな企業に手当たり次第ハガキを送りました。吟味して選ぶというより、入れれば御の字という感じでしたね。留学や実行委員、バイトでの話をすると、だいたいどこの企業でも受けが良かったです。その中で、特に厚遇してくれる企業があり、そこに入ることを決めました。

入社してみると、同期は30人ほど。その中で数名、自分と同じように厚遇されている社員がいました。僕らは新規事業の部署へ配属されましたが、他の人たちは別の部署へ。そこがものすごくブラックだったんです。返事は全て「押忍」。上司は新聞を丸めたバットを持って素振りをして待ち構えており、何かミスをすると叩かれました。業績が悪化すると、僕らもそちらの部署に引っ張られ、大変な思いをしました。

この会社はおかしいんじゃないかと感じました。でも、「どこの大手もヤバイ時はこんな感じだよ」「企業にもいろいろな時期があるよね」などと先輩に言われると、他の会社を知らないので「じゃあ頑張ってみようか」と思うしかなくて。やめるという選択肢は浮かびませんでした。

しかし、そんな状態だったので会社の業績はどんどん悪化。ボーナスがなくなり、給料が2カ月遅延して、3年目にそのまま倒産してしまいました。慌てるというより、当然だろうな、という感じでしたね。この3年間でさまざまな仕事を経験する中で、企画やマーケティングが面白いと感じていたので、それができる就職先を探しました。外資系の医療品メーカーの社長室付企画担当者に応募し、採用してもらうことができました。

本当に大事なものと、自立


仕事では、様々な部署を横断して見ること、いろいろな製品の知識を身につけることができました。すると、そのことを買われて日本人で初めて、アメリカ本社へいくことになったんです。海外経験のある上司から、「海外に行って帰ってくると婚期が遅れるから、嫁さん見つけて連れていけ」とアドバイスを受け、婚活を始めました。運よく良い人に出会えて、結婚して一緒に渡米しましたね。30歳のことでした。

留学で英語を勉強したことはあったものの、行ってみると全く言葉がわからなくて。会議の内容のインプットだけでもすごく時間がかかってしまい、毎日が地獄でした。アメリカは、仕事が終わるとだいたいみんな午後5時くらいで帰っちゃうわけですよ。でも僕は仕事が終わらない。毎日夜中まで仕事して、警備員さんと顔見知りになるほどでした。

やっと言葉がわかるようになっても、文化や仕事の仕方の違いがのしかかります。VPクラスの人があっという間にクビになる光景を見かけたり、忙しい各国の事業部からデータが集まらなかったり、日本にいる事業部長はお前の部下だと教え込まれたり。できなくても聞ける人がいないので、試行錯誤の日々でしたね。しかし、なんとか2年やる中で、実績をつめて年収も上がりました。

仕事が軌道に乗ったと感じていた頃、妻の具合が悪くなりました。任期が終わり、帰国して不調の原因を探るものの、はっきりわからないんです。その間にも、妻の体調はどんどん悪化。検査を重ねる中で、ようやく難病だということがわかりました。しかしその頃には病状がかなり重くなり、体重は30キロ台まで落ちて、動くことができなくなっていたんです。

妻は入院し、僕は仕事を早く切り上げて妻の病院に行って、面会時間ギリギリの夜9時まで一緒にいて、一人で自宅に帰って酒を浴びるように飲んで寝る、そんな毎日が続きました。そんなある日、いつものように病院で妻の体を拭いていると、彼女がポツリとひどく落ち込んだセリフを口にしました。

その時の妻の姿が頭から離れませんでした。大切な人がそういう状態になっているのに、自分には何もできない。やり切れなさに、どうしたらいいかわかりませんでした。

またある日、自宅に妻の母がきて、二人で結婚式のビデオを見返しました。ハワイでの挙式の様子です。夜中の1時でしたが、「健やかなる時も病める時も…」と誓いの言葉を述べるのをみて、病と闘う妻を想い、二人で抱き合って号泣しました。

自分の人生、何が一番大事なのか問い直しました。どんなにお金や地位を手にしても、本当に欲しいものはそれじゃない。一番に思ったのは、「妻と一緒にいたい」ということだったんです。自分にとって本当に大切なものが何なのかがその時、明確になりました。

それから徐々に、妻の病状は安定、日常生活を送れるようになりました。本当によかった、と思いましたね。でも、変な話、平穏無事に過ごしていたら、妻が自分の中で外せない存在だということに気づけなかったかもしれません。失いそうになって初めて、じっくり向き合ったからこそ、気づけたのかもしれないと思いました。

それからは、何をしていても心が繋がっていると感じられるようになりました。加えて、自分にとって大切なものが明確になったことで、自立して歩いている実感が持てるようになったんです。なんとなく生きていくのをやめて、自分がどう考えるか。それを大事にするようになりました。

初めてのやりきった体験


家族のことが落ち着き、仕事でも成果を出していました。しかし、だんだんつまらなくなってきたんですよね。これまで、目の前のことだけ一生懸命やってきたので、自分が本当に何をやりたいか考えていなかったんです。アメリカ本社に言われた通り、目の前のことを効率よくやって、できたから評価されてきた。給料も上がるし出世も早いけれど、それは本当にやりたいことをやっていたわけではなかったんです。

何をしたいか考えて、アメリカに行った時にワシントン大学のビジネススクールに通っていた優秀な人たちが「ビジネススクールは楽しいよ」と話していたことを思い出し、自分もMBAを取得したいと考えるようになりました。そこで、会社で働きながら、日本で一番と言われていたビジネススクールへの入学を目指したんです。

しかし、受験してみても全然受かりません。試験は年に1回。3年トライして落ちて、別のスクールにしようかと気持ちが揺れました。しかし、妻に「そこじゃないビジネススクールにしたら、学歴コンプレックスを抱えたままになるよ」と言われて。よくわかってるなと思いました。予備校の先生の教えを受けてとにかく頑張って、4年目で合格を果たしました。


受かって周りを見渡してみると、自分みたいに何度もトライしている人なんていないんですよね。悔しくて、半年に1回貼り出される成績トップの15%に入ろうと闘志を燃やしました。テレビや漫画を見るのも、飲みにいくのも人と会うのも新聞を読むのすらやめて、他の全てを捨てて参考書を読みましたね。

ひたすら勉強する2年間を過ごし、結果として上位15%に入り続け、卒業時には上位10%のDistinguisded student(抜群の優等生)として表彰されました。仲間内では「学校一寝ない男」と呼ばれ、結局やりすぎて肺炎になって入院。「重症オブザイヤー」を受賞してしまいました。しかし、自分の中で初めて「やりきった」と思える体験ができたんです。そのことで、自分に自信がつきました。

加えて、学歴に対するコンプレックスがなくなっていったんです。「志望校に入れたから」「ライバルより良い成績を残せたから」ではなく、自分なりにやりきることで、ステップアップできたと感じたからです。どんなに良い大学、ビジネススクールに入っても、上には上がいます。「俺より学歴が高く、俺より英語ができて、俺よりグローバル経験があって…」なんて比較しても、自分が前に進める訳ではありません。他人との比較は前進するための糧にして、自分の階段を見つけ、自分の足でそれを登ることが大切なのだと知りました。

本気で向き合い、本気で考える


ビジネススクールで話している時に、改めて「山口くんは結局何がしたいんだ」と問われました。そこで、自分ができること、好きなことを書き出し、棚卸ししてみたんです。人にものを教えたり、海外経験を伝えたりしたい、という自分の思いが明確になりました。

それを軸に何かやってみたいと思っていたところ、起業していた弟から、ベトナムに店舗を出店する人たちをサポートしたいと連絡があったんです。「なんの話してるの、俺サラリーマンだけど」と訴えましたが、もう店舗を作ることは決定した状態。仕方なくすぐに現地に飛び、なんとか契約関係を済ませました。

そこでふと考えたんです。ベトナムに自分たちの店舗がある。そこに大学生をインターンさせて、店長をやってもらったらいいのではないか、と。募集を出してみると、4人ほど応募があり、助成金を受けて実際にプログラムを実行しました。

やっているうちにただお店をやってもらうだけではなく、ケーススタディを作ろうと決めて、ミッションをクリアしてもらう形に決めていきました。さらに、学生はビジネスの基本を知らないので、出てくるアイデアが限られてしまいます。もっとビジネスを学べるものにしようと試行錯誤を重ねていきました。その中で変わっていく学生たちをみていて事業の意義を感じ、本格的にやりたいと思うように。会社をやめ、株式会社を立ち上げました。

補助金を獲得し、海外インターン事業を始めました。それまでは一人でファシリテーションしていましたが、人数が増えると一人では回りません。外部からファシリテーターを募ることにしました。初めは主に弟の人脈を使って、ビジネスに精通した社長さんや個人事業主さんにお声かけして、一緒にプログラムを作っていきました。

ところが、チームにするとまとまらない。自分一人でやるのは、どこまでやるのか自分で全部決められるので、ある意味楽だったんです。みんなでやると、考え方に差があるので、気持ちが一つになりませんでした。

毎晩、夜中までファシリテーター達と大激論です。学生たちとどうやって付き合うのか。向き合えるのか、やめるのか。ひたすら問いかけました。

本気で向き合える人だけをファシリテーターとした結果、事業は拡大。海外インターンシップ受け入れ実績ナンバーワンになりました。徐々に取材を受けるような立場になっていったんです。

取材などに答えるうち、自分たちが提供しているのは、海外経験やビジネス構築のノウハウではないと気がつきました。僕らが提供しているのは、「本音・本気で参加者と向き合うこと」、ただそれだけだったんです。

思えば、僕が子どもの頃も、大人が本気で自分と話し合ってくれることがありませんでした。だから、自分で考えることがなかったのかもしれません。大人の本気に触れる前は、そんな世界があるということに気づかない。だから不満もモヤモヤもないけれど、かつての私のようにやり切ったという思いがないまま、「餌を待つ雛」のように与えられることに慣れすぎていて、自立できないままなんです。それはそうですよね、与えれば与える程「自立」から遠ざかるのは、当たり前と言えば当たり前です。

ファシリテーターたちの背中を見て、本気の大人の生き様を知り、さらに本音・本気で対話することで、学生たちは変わります。自分の人生を自分で切り拓ける自走式エンジン®を搭載して、自分で走っていけるようになる。そうすることで、より良い人生を生きられる人を増やしたい。そんな思いが生まれました。

生涯、人に向き合い続ける


今は、株式会社旅武者の代表として、学生を対象とした海外ビジネス研修「武者修行®プログラム」を展開しています。新型コロナウイルスの影響があるため、海外だけではなく地方創生に携わるプログラムや、オンラインのプログラムも用意しています。

海外を見て世界を広げることも、ビジネスを学ぶことももちろん重要ですが、武者修行®プログラムのコアバリューは、海外やビジネスなどの手法ではありません。ファシリテーターである大人と学生が、本音・本気で向き合うことです。

プログラムに参加することで、「何をするか(Doing)」だけではなく、「自分がどうありたいか(Being)」を見つけて欲しいと思っています。最終的には、みんなにより良い人生を歩んで欲しいんですよね。ただ、それだけしか考えていません。これまで7年間で約3684人の大学生に関わる中で、そのために必要だと思ういくつかの要素を独自に見つけました。自立して走れること、まず自分から相手に与えること、自分から人に頼れること…。それらを獲得することを軸にプログラムを展開しています。

実は、少し前に血液検査で異常が見つかりました。なかなか原因がわからない中、知人に医師を紹介してもらい、2020年に入ってようやく原因がわかりました。年に30例くらいしかない、慢性活動性EBウイルス感染症(CAEBV)という難病だっだのです。

診断を受け、初めて死について考えました。正直な話、いま死んでも悔いはないと思います。やりたいことができていて、それを一緒にやってくれるたくさんの周りの人たち、ファシリテーター、社員、武者修行修了生、家族がいる。妻に恵まれて、子どもにも出会えました。今がとても幸せだと思うんです。でも、そんな気持ちでいると生存欲求が感化されないのではないか?もうちょっと頑張って生きていかなきゃ!というのが、今の正直な気持ちです。

ただ、今後やりたいことはあります。一つは、武者修行®プログラムを対企業用に展開すること。すでに国内外の新人研修などに活用いただいているので、拡大していきたいです。もう一つは、就活前の大学生だけでなく、就職してから先もサポートできる仕組みづくりです。転職の支援など就労機会と、生涯学び続けられる体制とを提供したいと考えています。

武者修行®プログラムの修了生も毎年1000人ずつ増えています。みんなの夢のサポートをしていきたいですね。それを、他人ごとではなく自分ごととして一緒にできる仲間がいるのも、幸せだと感じています。武者修行®プログラムの参加者をサポートし続けられる新たな仕組みを構築して、生涯、人に向き合い続けたいと思っています。

2020.08.31

インタビュー・ライディング | 粟村千愛
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