チャンスに飛び込める自分であれ。走りながら考え続け、新たな価値を世の中に。

「NHKスペシャル」や「おやすみ日本 眠いいね!」「平成ネット史(仮)」など、NHKで数々の番組を作り上げてきた神原さん。様々な企画を立ち上げてきた背景には、どんな経験や想いがあったのでしょうか。お話を伺いました。

神原 一光

かんばら いっこう|NHK 2020東京オリンピック・パラリンピック実施本部 副部長
東京都出身。早稲田大学卒業後、2002年にNHK入局。これまでの担当番組は「NHKスペシャル」「週刊ニュース深読み」「おやすみ日本 眠いいね!」「平成ネット史(仮)」など多数。 (公財)日本テニス協会普及プロジェクト委員、大企業54社の若手中堅有志でつくる実践コミュニティ「ONE JAPAN」副代表。

褒められて伸びる子


東京都大田区に生まれました。写真家の父とライターの母、弟の4人家族です。好きなのは、絵を描くことと、自宅沿線の駅のスタンプラリーをすることでした。

小学校に上がると、担任の先生も同じ路線の駅に住んでいて、電車が好きな子どもがいるとわかったんです。そこで、自宅沿線の電車の絵を書いて、カレンダーを作ってあげることにしました。毎月カレンダーを作って渡すと、先生はすごく喜んで、褒めてくれて。「もっといろんなものを調べて描いて」と言ってくれたんです。

それが嬉しくて、学年が上がっても自主的に自分で興味のあることを調べ、提出するようになりました。「自由勉強」と呼んでいましたね。歴代の先生はそれに対して反応をくれました。自分が調べて表現したことで、相手の表情や気分が変わる。それをみるのが楽しかったです。

9歳の時、両親に誘われてテニスを始めました。両親が趣味でテニスをはじめたのですが、今から自分たちが習うよりも、子どもに習わせて子どもから教われば良いと考えたようです。子どもは教えるために理解を深めるし、自分たちも学べるから一石二鳥だと。そんなわけで僕がテニススクールに入ることになりました。

テニスは、一つの球を打ち返すにも、走って、止まって、道具を使う、という動作が発生します。様々な身体機能を使う、実は難しいスポーツなのです。だから、うまくいかないのが当たり前。小さなことでも、うまくできたら褒めてくれる文化がありました。

コーチに褒められたら嬉しいですし、両親の期待にも応えたいという気持ちもあって、どんどん練習して力をつけていきました。小学5年からは選手育成コースに誘われ、本格的に競技に取り組むようになったんです。

プロテニスプレイヤーへの階段


14歳で、ジュニア日本代表に選ばれました。練習の中では苦しいこともありましたが、努力が苦とは思いませんでしたね。むしろ、練習だから辛いのは当たり前、どうやったら楽しめるかを考えようと思っていました。

テニスはどの大会でも、試合に勝ってトーナメントの頂点に立った人が優勝です。極端に言うと、優勝者以外はみんな敗者ということになる。一回戦負けでも、準優勝でも同じ「負け」だと思っていました。どうやったら勝てるかだけを考えていましたね。

一方で、中学校では生徒会に入りました。時事問題にも関心があったので、文武両道でいきたいと思っていたんです。それに、テニス以外の刺激があることで、新鮮な気持ちでテニスとも向き合えると感じていました。

生徒会では学校の課題を解決するため、いろいろな企画をしました。例えば「ノーチャイムデー」。毎日、チャイムが鳴らないと行動できないのは「ちょっとダサい」と思って、一日だけチャイムを全く鳴らさず、生徒が自発的に行動する日を作ったのです。実行の前の日には、全クラスの学級委員を集めて、全員で時計の針を合わせました。みんなで何かを企画して実行する、その瞬間が面白かったですし、実際にみんなが一生懸命取り組んでくれるのを見ると、やりがいも感じました。

他にも、真剣に掃除に取り組んだ人を表彰する「清掃キャンペーン」の行事を作ったり、「この先生はここが面白い」など、僕が取材して書いた手書きの新聞を掲示したりしていましたね。新しい取り組みを通して、価値を生み出すのが楽しいと感じました。

高校へは、テニス推薦で進学。16歳の時には再び日本代表に選ばれ、アジア各国を転戦しました。世界中から今後有名になるであろう選手たちが集まっており「日の丸」を背負っているんだという自覚が芽生えました。幼心に「日本のテニスの歴史に新しいページを書いている」という感覚がありましたね。

テニスの世界は、「プロになります」と申請して協会に正式に認められれば、誰でもプロになれます。ただ、そこから稼いでやっていけるかは、まったく別の話。高校卒業時にプロになる道もありましたが、僕にはまだ十分な実績も覚悟もありませんでした。なので、大学に行ってからプロに挑戦しようと考え、再びテニス推薦で進学の道を選択しました。

リミッターを外せなかった


大学では、創部100年近い「庭球部」と名がつく伝統的な部で、変わらずテニスを続けました。体育会ならではの縦社会で厳しさも味わいましたが、歴史ある部の一員としての誇りや自覚も芽生えました。

ただ、やっぱりテニスだけでは面白くなくて。大学のスポーツ新聞になかなかテニスの話題が取り上げられないため、自分たちでメディアを作ろうと考えました。ちょうどウェブメディアが出てきた頃です。ウェブなら紙面の制限がなく、好きなだけ書けるだろうと、スポーツメディアを立ち上げることにしました。大学で知り合ったあらゆるメディアサークルの仲間と一緒に立ち上げ、様々な体育会やサークルの活躍を自分たちで取材して記事化していましたね。

周囲には、「君は何やってるんだ」とも言われました。日本代表に選ばれるような選手で、専門のスポーツ以外の活動をしている人はほとんどいませんでしたから。でも、他のスポーツを取材するとテニスとの違いがはっきりわかり、かえってテニスへの理解が深まるんです。そうすると、毎日の練習に意味を持って取り組むことができるんですよ。いかに新鮮な気持ちでテニスに取り組めるかを大事にしていました。

やがて大学3年生になり、自分の進路を考え始めました。テニスでいくと決めてプロか、実業団に入るか、就職してスポーツの魅力を発信できるような仕事に就くか。悩んでいたちょうどその頃、お世話になっていたスポーツメーカーから「うちと契約しないか」と言われたんです。「2008年のオリンピックを目指そう」と。ビビりました。テニスで本当に食っていけるのか。若干のためらいがあり、「ちょっと考えさせてください」と答えたんです。

結果として、契約の話はなくなりました。聞けば、「テニスで食っていけるかどうか」ではなく、「テニスで食っていくんだ」と思えないとダメだということです。「そりゃそうだ。迷うような人はプロとしてはやっていけない」。プロのテニスプレイヤーになれるタイミングで、なんで僕は、リミッターを外せなかったのか。チャンスが目の前にあったのに、躊躇したことに後悔が残りました。

それからはプロテニスプレイヤーの道ではなく、就活に切り替えました。スポーツの魅力を伝える発信をしたいと、テレビ局や広告代理店を中心に活動。最終的に、NHKに入局が決まりました。躊躇した自分への後悔から、社会に出てからは圧倒的に頑張ろうと決めました。できることを全力でやり、リミッターを外したいと思ったんです。


「お前がニュースになってどうする」


意気込んで入局しましたが、入ってみると同期はみんな優秀な人ばかり。これまで取材をしてきたといっても学生メディアで、やってきたことはテニスばかり。テニスコートの外の世界は、自分の想像以上に広く、勝てそうにありませんでした。

初任地は、静岡局。配属された後も、仕事について行けず辛くて仕方ありません。そんな時、一本の電話がかかってきたんです。「静岡県代表として国体に出てもらえませんか」。翌年秋の国体に向け、開催県として選手の増強を図っていた静岡県のテニス協会から、大学を卒業したばかりの僕に打診があったんです。

気持ちは大きく揺らぎました。番組の企画は一向に通らない。辛い、やめたい、自分を求めてくれるテニス界に戻りたい。そんな想いを抱えて、上司に国体への出場を相談。すると、「お前がニュースになってどうする、ダメだよ」と言葉が返ってきました。

いっそ、NHKをやめてでも国体に出てやると本気で思いました。しかし、話を聞くと、上司は六大学野球で名を上げた投手だったことがわかりました。卒業後、プロや実業団の道もあったけれど、NHKで番組を作りたいと野球をすっぱり辞めたそうです。自分と同じアスリート出身の上司の「踏ん切りがつかなくなるぞ」という言葉が重く心に残りました。

考えた結果、選手の要請をお断りしました。すると上司は、僕に国体の「総集編」をメインディレクターとして担当するよう指示してくれたんです。静岡県内全域で放送される特番を作る大仕事。サポートがあるとしても、かなりの大抜擢でした。僕は番組をなんとかより良い形にしようと、民泊や選手の横顔といった競技だけじゃない国体の魅力を広く取材して制作。その結果、県内の平均視聴率19%という成果を残すことができました。上司の「采配」に感謝しましたね。同時に、テニスに対して区切りをつけ、テレビの世界でやっていくという覚悟が決まりました。

リミッターの先の世界


ただ、その後も番組の企画はなかなか通りませんでした。企画書を出すと、チェックするデスクには「的が違う」と言われ、焦燥感は募るばかり。これまで、テニスだったら大会で優勝すれば「一番」でしたが、多様な価値観があるこの世界では、何が一番なのかわかりません。自分の順位がわからない状態が辛かったです。思い余ってある日、デスクに「僕は今、あなたの部下の中で何番ですか」と質問。返ってきた言葉は、「相当、思い詰めてるな」でした。

飲みの席で、デスクに「好きな番組を書き起こしてみたら」と言われました。なんで人が感動するのか、憤るのか。それを知ることが大事だというのです。そこで、気になった番組をノートに書き起こし、構造を分解するようになりました。加えて、なんでもメモをとるようにしました。日常の中の小さな違和感や気づきを、書き留めていくんです。それが企画のヒントになるかもしれないと。続けていった結果、徐々に企画が通るようになりました。

32歳になり、東京に異動して数年経った2011年のこと、東日本大震災と福島第一原発事故が発生。被災後は、夜眠れない人が増え、社会問題になりました。これをなんとかしようと、仲間と一緒に、安心して眠ることができる番組の企画を考えました。夜眠れる方法を徹底的に紹介することも考えましたが、そんなもので解決できないから眠れないわけで。それよりも、眠れる本質って、安心することだなと思い、ありのままの自分に戻れる、「化粧落とし」のような番組がいいと組み立てました。

演出を具体的にどうするか考えた時、これまで取っていたメモを振り返ると、テレビに対する違和感が書き出してあったんです。

テレビはなぜ深夜になるとハイテンションな番組ばかりなんだ?双方向にコミュニケーションすると言いながら、実はこちらの都合のいい意見だけ選択していないか?答えを出すことに終始して、視聴者の声を傾聴する番組ってあまりないのでは…?

そんな違和感と問題とを組み合わせて、企画を練っていきました。深夜の空いている時間帯を使って、放送終了時間は未定。見ているだけで、なんだか眠くなりそうな人たちに出演してもらって、リラックスできる音楽を届けたり、悩み事やふとした疑問などを答えもなく、ひたすら話したりしていく。それで、視聴者が眠くなったら「眠いいね!」ボタンを押してもらい、「眠いいね!」が一定数溜まったら番組を終了する…。

タイトルは「おやすみ日本 眠いいね!」。形になった時は、初めてゼロから番組を生み出せた気がして、すごく嬉しかったです。それと同時に、初めてリミッターを外せた気がしたんですよね。チャンスが目の前にきた時、ちゃんとそれに飛び込めたと。

大学の時は、「その時」がきたにも関わらず、リミッターを外せずチャンスに飛び込めませんでした。気持ちが整っておらず、立ち止まってしまったんです。でも今度は、何度通らなくても、数カ月に一度の募集には必ず企画を出していた。それを続けた結果、タイミングを逃さずにアイデアを形にすることができたんです。考えながら走り続けていたからこそ、きちんと「その時」に飛び込めたんだと感じました。

「考えるだけでやらない」でも、「とりあえず走るだけで考えない」でも、結果は出ません。走りながら考え、考えながら走り、思考と実践と修正をぐるぐる回しながら臨機応変に対応することが大事なんだと学びました。

走りながら考え続ける


今は、NHK2020東京オリンピック・パラリンピック実施本部の副部長として、開催都市として2度目となる大会を盛り上げるための企画を任されています。たとえば、国民的アイドルやアーティストの楽曲制作や、世界各国・地域それぞれの言葉で応援する「世界を応援しよう!」というプロジェクトなどをチームで担当しています。放送から、インターネット、そして実際のイベントまで、幅広く手がけていますね。

学生の時、「2008年のオリンピックを目指そう」と言われたでしょう。そのオリンピックの開会式を局内で見ていたのですが、日本選手団が入場するのを見て、恐れ多くも、ちょっと涙してしまったんですね。万が一、もしかしたら、あの場に立てたかもしれない」って。そんな僕が今、この東京で開催されるオリンピック・パラリンピックを伝える側として最前線に立てているというのは感慨深いなと思います。僕のキャリアにおけるハイライトだと感じているので、集大成となるような仕事をしたいと考えています。

それだけでなく、大企業の若手・中堅有志団体「ONE JAPAN」の副代表としても活動しています。大企業54社を横断して、各社の知見を持ち寄って事業開発や組織開発にいかしたり、働き方の意識調査をして社会に広く提言したりなど、この団体だからできることが多くありますね。

NHKには、取材を通してありとあらゆる社会課題が集まってきます。そうした課題を「ONE JAPAN」の皆さんにシェアすることで、ビジネスとして解決していけるヒントにつながるかもしれない。テレビでは、番組を通して課題を伝えることはできても、解決するところまではなかなか持っていけません。そこを、各企業のチカラを結集して解決していくことができたら、メディアとしても新たな挑戦になるし、持続可能な社会にも近づけるんじゃないかと思って、積極的に取り組んでいます。仕事が終わった後や、土日などの休みの時間を費やすので、並大抵のことではありませんが、充実した時間を過ごしています。

加えて、日本テニス協会では、僕を育ててくれた恩返しの気持ちもあって、テニスの普及に関する企画を作ったり、政策を練ったりする活動も務めています。

一見バラバラに見える活動ですが、これらを通してやりたいのは、それぞれが持つ魅力やポテンシャルを、時代に合わせた形で「再定義」することです。NHKで取材する様々な人や事柄もそうですが、大企業も、テニスも、すでに魅力を持っています。でも、今の時代に合わせたタイミングで再定義できれば、もっと輝けるし、もっと魅力が増すとと思うんです。新型コロナウイルスなど、世界的に大きな変化が続く時代、何が起きるかわかりません。でも、自分たちの魅力や本質をとらえ、「再定義」できていれば、危機が来ても、即座に対応できます。

ある室町時代から続く和菓子の会社の社長が、「伝統は革新の連続である」と仰っていました。その通りだなと思っていましたが、社長は最近、その言葉を使っていないというんですね。「革新」という大層なことを言う前に、今、目の前のお客様に喜んでいただくために何をするのかを考え、即座に実行していくことの方が大事な時代なんだと。それを知って、このスピード感が、今は強く求められているんだと心を新たにしています。

もう、自分自身でリミッターを設けて立ち止まったりはしません。たくさんの気づきをメモに認めながら、いつもアイドリング状態でいられるようにしたいですね。「走りながら考え、考えながら走る」をモットーに、これからも魅力的だと感じてもらえる仕事や活動を続けていきたいです。

2020.06.15

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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