「好き」を突き詰めれば道は拓ける。 大企業だからできる、自分らしいものづくり。

NTTドコモの新規事業創出プログラム「39works」を運営する中島さん。大企業の中から新たな事業を創出していく中で、目指すのは「最強の金魚のフン」だと話します。その意味とは?お話を伺いました。

中島 義明

なかじま よしあき|NTTドコモ
早稲田大学大学院理工学研究科修了。新卒でNTTドコモに入社し、携帯電話へのGPS搭載やWindows Mobile端末のリリースに従事した後に、社内の研究開発の取りまとめの業務を経て、NTTドコモベンチャーズに出向。2014年から新規事業創出プログラム「39works」の立ち上げに参画した。

料理人の夢とばあちゃんの言葉


神奈川県横浜市で生まれ、東京、大阪と引っ越しが続きました。いたずらが好きな子どもで、騒ぎを起こしては人の反応を見て楽しんでいました。やりすぎて家の納戸に閉じ込められることもありましたが、懲りませんでしたね(笑)。

小学校高学年になると再び東京に戻り、兄が中学受験をしたため自分も受験を考えるようになりました。ただ、どこに行けばいいのかわかりません。兄の学校は校則がしっかりしていて、あまり自分に合わなそうだなと感じていました。そんな時、仲良くなった塾の先生が勧めてくれた学校があったんです。「自由だから楽しめると思うよ」と。僕の性格や遊び方もよく知っている先生だったので、言うことを信じて進学先を決めました。

中学校は本当に自由な感じでした。男子校で、友達と遊ぶのがとにかく楽しかったです。でも、勉強は好きになれず、ただ、勉強をこなしている感じでした。

家に帰ると料理好きな父の影響を受け、ひたすら料理に没頭するようになりました。包丁で切る練習や鍋を振る練習をしたり、出汁を使わずに砂糖、塩、醤油、みりんだけでどこまで美味しい素うどんができるか挑戦したり。好きすぎて、北海道に修学旅行に行った時は、生鮭を担いで帰りました。自然と、夢は「料理人」になりました。

中高一貫校だったのですが、勉強に重要性を感じていなかったので、進学は考えずに、修行に入れる店を探していました。料理好きな父は賛成でしたが、ばあちゃんに話したら正座をさせられて。「料理人になるのは人生の中でいつでもできる。でも今、進学する選択肢を失うと、二度と選べないことになる。どっちの選択肢が貴重なの?」と、ばあちゃんから生まれて初めて説教をされたんです。ばあちゃんがそんな風に怒るのを見たのは初めてでした。衝撃的で、料理人を選ぶのは甘えなのかなと感じましたね。

あとで父から話を聞くと、ばあちゃんは戦前に生まれて教育を十分に受けられず、自営業をして相当苦労したそうです。自分がもっと勉強したかった悔しさ、経験した自営業の厳しさからの言葉だったんだ、と気がつきました。ばあちゃんの言葉をきっかけに考えを変えて、進学することにしました。

やりたいことを突き詰めていいんだ


高校に進学しても、相変わらず料理は続けました。ただ、家に好きなだけ料理できる環境があるのに満足し、料理人になりたいという気持ちは薄らいでいきましたね。一方で、テレビでロボコンを見るうちにロボットに興味を持つようになり、本格的に学びたいと思うように。学部を選んで受験し、受かった大学は全て学生課に行って、前年のカリキュラムを入手。なるべく早くから機械やロボットに触れられるところを探しました。

ある大学のカリキュラムを見たとき、「1年生から草刈り機のエンジンを分解して綺麗に組み直すレースがある」と書いてあったんです。マニアックですけど、すごい面白そうだと思いました。やりたいことができる環境があると感じ、その大学に進学しました。

大学では、とにかくロボット作りに没頭しました。課題が出されると、斬新で面白いものを作ってやろうと燃えましたね。ただ課題をクリアするだけでは飽き足らず、自分で自分に制限を課して、それをクリアするようにしていました。

例えば、「スイッチを1回押して、丸と三角と四角を描けるロボットを作りなさい」というお題。何センチ以上の絵を描きなさい、と最低限のサイズは決まっていて、あとはロボットの構造からプログラミングまで、学生が自由にやっていいんです。僕は自分で「課題をクリアできる最小のロボットを作る」と決めて、できるだけコンパクトなロボットを作りました。

そんな風にプラスアルファの課題を課して、それを乗り越えていくのが楽しかったですね。ただ、他の授業は頑張れなくて。ロボットづくりにのみ没頭した結果、卒業する頃にもっと研究を続けたいと思っても、大学院にいける成績はありませんでした。

仕方ないから就職しようと考えていた矢先、大学の教授に呼び出されました。「なんで大学院に行かないの。ロボット、好きなんでしょ?」と言われて。ロボットはもちろん好きでした。でも今更院の試験を受ける気にも慣れないし、単位も足りない。だから、「無理です」と言ったんです。

すると後日、再度呼び出されて「お前、大学院いけるけど、どうする?」と聞かれました。びっくりしましたね、何がどうなっているかわからなくて。でも、行けるんなら行きます、と答えると、本当に大学院に進学できることになりました。通常、成績の良い学生が推薦をもらえる仕組みだったのに、教授が僕を推薦してくれたんだと思います。

その時、やりたいことを突き進めるって重要なんだ、続けていれば、見ていてくれる人はいるんだ、と感じました。やりたいことをやってていい、と認めてもらえた気がしたんです。

ロボットから経営全体へ


大学院でもロボットを研究し、就職活動に臨みました。推薦で会社を決める人も多かったですが、僕は自分で選びたいと思っていて。自分でいろいろな会社を見る中で、ロボットを作っている電機メーカーと、ロボット関連の研究開発をやっていたNTTドコモの2社に絞りました。特に、通信会社がロボット関連の研究開発をやっていることが意外で面白く、人事の方の印象もよかったので、ドコモに技術職として入社することにしました。

ところが、入ってみるとロボット関連の研究開発はなくなってしまっていたんです。最初から希望部署に入れる可能性は低かったものの、やりたいことへ続く道が閉ざされたことに衝撃を受けました。しかし、働くうちにまた部署ができることもあるかと考え、ひとまず気持ちを切り替えて目の前の仕事を覚えることにしました。

1年目はひたすらいろいろな仕事をこなし、2年目からGPSの構造などハードウェアに携わるように。さらに携帯電話への新規技術の導入などをやってみて、新しいものをつくったり、新しい技術を実装したりするのが楽しいと改めて気がつきました。

そして、入社してから5年目の時、研究開発の取りまとめをする部署に異動になりました。当初聞いた仕事は、ドキュメントのチェックや管理。業務内容を聞いた瞬間「やべえ、どうしよう」と思いました。それまでの業務とのギャップが大きすぎて、どうしたらいいかわからなかったんです。

実際に始めてもやっぱりのめり込めず、どうしようと考えていた時、チーム内にもう一つ別のラインがあることに気づきました。隣のラインは社内の技術や戦略を考え取りまとめるラインで。面白そうだったので、「ちょっとやらせてもらえないでしょうか」と声をかけ、兼任させてもらうことになりました。

そしたら、その仕事が楽しくなっちゃって。会社の大きな戦略を見ることができ、上の人がどう考えているのか、どう取捨選択しているのかを知ることができました。経営者視点を学び実際に意思決定にも関わることができ、やりがいを感じました。

自分は何者だ


そこで4年半ほど働くと、会社全体のことが自分なりに少しは見えるようになりました。会社は綿密な思考のもと、長いスパンで作っているもの。であれば、今度はもっと速いスピードでプロダクトを作り、世の中に出してみたいと考え、異動の希望を出しました。すると、子会社でちょうど開設予定だった、新規事業創出プログラムの立ち上げの部署に行けることになったんです。

会社全体をみて、このままでは心地よい環境に慣れて危機に気づかない「茹でガエル」になる危険性があること、新しいことへの挑戦が必要なことはわかっていました。新しい仕組みを作ろうと仕事に取り掛かりました。

社内外の起業家と一緒に新規事業を作っていくため、ベンチャーの人たちと話す機会が増えました。彼らはみんな、腹に覚悟を決めて、大きなリスクをとって、やりたいことに邁進している人たちばかり。例えば、「シェアリングなんて流行らないよ」と周囲にどれだけ言われても、「絶対にシェアリングには価値があって、世の中が変わるはず」と信じて他のベンチャーに丁稚奉公してでも事業を続けている人。あらゆるものをかなぐり捨ててもやるんだ、という覚悟に圧倒され、目指す世界の解像度の違いに打ちのめされました。

自分は、会社の中にいて自分だけの力で稼いだこともない甘ちゃんだと痛感しましたね。新しいサービスを作って世の中を変えるという思いだけでは、解像度としてはもうダメなんです。彼らには、どんなアクションを毎日続ければどう変わるのか、具体的に見えているんですよね。僕の中には、それが全くありませんでした。その解像度の差があまりにも大きく感じて。自分は何者なのだろう、何もねえじゃん。そう感じて、悩むようになりました。

上司にも、「会社の為だけじゃなくって、なかじが社会の為に、一個人として人生をかけてやりたいことはなに?」と問われていました。何を持てば自分に自信が持てるのかわからず、ゴールの見えない中を進まなければならない感覚。それでも答えは出ず、嫁にも「大丈夫?」と聞かれるほどずっと悩み続けていました。

まず自分が何者なのかを知ろうと思い、徹底的に自己分析しました。就活の時に戻ったみたいでしたね。考える中で、まず今の僕には、「シェアリングの世界をつくろう」といった明確なビジョンを描くスキルがないとわかりました。でも、その代わりに持っているものにも気づいたんです。ビジョンはなくても、僕には没頭できる好きなものが多くありました。料理、ロボットに加え、ゴルフやダーツ、ボーリングなど…。思えば、それらに没頭する中で、うまくなるためにひたすらPDCAを回していたんですよね。ダーツだったら、肘と肩、手首の動きを研究して、再現性を高めるためにいろいろなものを省いていけばいい。うまくなるために必要な要素を因数分解して、再構築する。その結果をまた試してみて、改善し、再現性のある仕組みを作っていく。そんな風に、より良い仕組みを作っていく力はあると。そしてそれこそが、自分が好きで、得意なことだと気がつきました。

それに気がついたとき、これまで現場で見ていてバラバラだったものが、繋がりはじめたんですよね。まるでパッチワークみたいに。そして、たまたま読んでいた漫画の中に出てきた、「極上の腰巾着」という言葉が目に止まりました。今の自分ではビジョンを描けないならば、仕組みを回して改善する力を使って、誰かのビジョンを形にするお手伝いをすればいい。だから自分はこれを目指そう、と思ったんです。腰巾着の中で最強、一言で言うなら「最強の金魚のフン」になろう、と。新規事業を始めようとする人のビジョンを、そしてドコモ自体が掲げるビジョンを形にしていこう、と自分の役割を決めました。

そのために、会社や経営に関する知識体系を学びたくて、勉強して中小企業診断士の資格を取得しました。そして、大学の経験を活かせる、ものづくりを支援している新規事業にも参画しました。知識体系を学んでいくと、現場で見たものを繋ぐつなぎ目が、どんどん滑らかになるのを感じたんです。まるで、パッチワークから一枚の綺麗な布にするみたいな感じでした。現場での学びを体系立てることの重要性を感じましたね。

没頭できる、新しいものづくりを


今は、NTTドコモのイノベーション統括部で、新規事業創出プログラム「39works」を運営しています。自分で新規事業案件にも携わりながら、プログラム全体の事務局も務めています。自分が実際に経験してうまくいかない部分を、プログラムにフィードバックするイメージですね。39worksを通して、ドコモの次の20年を支えていくような事業作りに取り組んでいきたいと思っています。

今後も、通信は生活する上で必要不可欠。我々通信会社は、その上で何を積み上げていけるかが重要になると考えています。ドコモは「新しいコミュニケーション文化の世界を創造する」会社。大きい会社だからこそ、文化として根付くような、「新しい当たり前」を作っていきたいと考えています。

個人的には、ずっと好きなものづくりを続けている感覚なんですよ。今作っているのは、新しいものを生み出す仕組みです。今はまだ、新たなパッチワークを作る前の一つの布みたいに、一つひとつの取り組みがバラバラにあって繋がらないかもしれない。でも、それを繋げて、体系化していくことで、いつか更に大きな綺麗な一枚布の、体系化された仕組みを作りたいですね。

僕は80歳まで現役が目標なんです。今は、取得した中小企業診断士の資格を更に活かせるように、ワークショップデザインやファシリテーションの技術を学んでいきたいと思っています。最強の金魚のフンとしての立場から、学んだ知識や技術を生かして、没頭できるものづくりを続けていきたいです。

2020.05.14

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?