震災をきっかけに志したプロレスラーの道。プロレスを通してお客さんを笑顔にしたい。

19歳で東京女子プロレスのレスラーとしてデビューした舞海さん。震災をきっかけに初観戦したプロレスに感動し、プロレスラーの道を選びました。自分の「好き」に全力で打ち込める原動力とは?お話を伺いました。

舞海 魅星

まいうみ みらい|東京女子プロレス所属レスラー
岩手県宮古市生まれ。小学生の頃、東日本大震災で被災。震災チャリティー大会に招待されて初めてみたプロレスに感動し、プロレスの虜に。19歳で東京女子プロレス所属のレスラーとしてデビュー。

お兄ちゃんに負けたくない


岩手県宮古市に生まれました。3人きょうだいの末っ子で、いつも5歳上の兄にくっついて遊んでいました。どんなことでも、兄ができることは自分もできるようになりたいと思っていましたね。小学1年生の時には、兄が二重跳びができないことをからかってくるのが悔しくてたまらず、一日中二重跳びの練習をして、結果、地区で開かれた縄跳びの大会で優勝するくらいうまくなりました。何をするにも「お兄ちゃんに負けたくない」という思いが強かったです。

兄の影響で、小学4年生の時に柔道をはじめました。兄は中学の部活で柔道部に入部しており、家で私を抑えたり投げ飛ばしたりしてきたんです。やられっぱなしでいてたまるか!と思い、親に「私も柔道を習いたい」と頼みました。

でも、その場の思いつきだと思われて取り合ってもらえず「一年よく考えなさい」と言われました。私は本気だったので、一年後に改めて自分の気持ちが変わっていないことを伝え、そこでようやく柔道を習うことを許してもらえました。

柔道は楽しくて仕方なかったです。技を覚えてうまくなっていくのがうれしかったし、道具も使わず体の使い方ひとつで、人をこんなに簡単に投げ飛ばせるんだということが面白くて。先生に投げ技をかけられても、ずっと笑ってましたね。何度投げられても笑ってるので、みんなからは不思議がられていました(笑)。

プロレスに元気をもらう


柔道に夢中で充実した毎日を過ごしていた小学5年生のある日、教室にいる時に突然、今まで経験したことがないような強い揺れの地震が起こったんです。地震がおさまったあとも、親と連絡がとれず家には帰れなかったので、学校にいた子達と一緒に学校に泊まることになりました。

外ではサイレンの音がずっと鳴り響いていました。不安でしたが、私よりも下の学年の子の方が、不安に押しつぶされそうになっていて。それを見てなんとか元気づけたいと思い、ひたすら「大丈夫だよ」と唱えていました。それくらいしかできなかったです。

次の日、 父と母が迎えにきてくれました。家族がみんな無事だったことを知ってほっとしましたね。そこから、高台にあった祖母の家に移動することに。父に頭の上からジャンパーをかけられて「見るな」と言われて。言われるがまま、車の中でただじっと下を向いていました。

その後、一カ月くらいを祖母の家で過ごし、ようやく学校に通えるようになりました。私の通っていた校舎に、津波の被害を受けた他の学校の生徒も集まっていました。私は小学6年生と最年長、児童会長をしていたので、学校のリーダーとしてみんなを引っ張っていく立場でした。地域を元気付けられるように先生たちと取り組みを考えたり、意識的にみんなに声をかけてコミュニケーションをとったりするようにしていました。

そんな時、柔道を習っている友達に「震災のチャリティーマッチでプロレスの試合が開かれるから、一緒に行こう」と誘われたんです。気軽な気持ちで行きましたが、はじめて生で見るプロレスに圧倒されました。リングの上でレスラーが何度も倒れながらも必死に相手に立ち向かう姿に、気づいたら手に汗握って応援していました。

リングの上で行われる戦いに、見ている周りのお客さんが自分のことのように声を上げて応援している。熱気と興奮に包まれた会場の一体感に、「すごい」と胸が震えました。街の沈んだ空気を吹き飛ばすような、観る人を元気にするパワーに感動したんです。そこからプロレスが大好きになって、暇があればテレビやネットの動画サイトでプロレスをみるようになりました。

18歳、自分で決めたレスラーの道


さまざまな活動をする中で、地元で震災をテーマにしたNHKのドラマのオーディションがあったんです。新しいことに挑戦するのが好きだったので、受けてみたら合格して。主人公の友達役として出演することになりました。撮影はたくさんのカメラに囲まれて緊張しましたが、普段とは別世界を味わえてすごく楽しかったです。

でも結局、時間の都合で私の出演したシーンはカットになってしまいました。せっかく頑張ったのに映らず、悔しかったです。もっと演技の仕事をやってみたい、と女優に憧れるように。仙台の芸能事務所のオーディションを受けて合格し、所属するようになりました。

中学に上がっても柔道は続けていて、大会で県3位になるなど成果も出ていました。柔道は好きでしたが、大会に向けた減量がきつく、はじめた頃のようには純粋に楽しめなくなっていました。

プロレスは変わらず好きで、中学3年生の時にはじめて一人で夜行バスに乗って、東京にプロレス観戦に行きました。やっぱり生でみるプロレスの迫力は格別でしたね。学校で嫌なことがあっても、プロレスをみると「また明日から頑張ろう」と前向きな気持ちになれました。

高校では最初、文化系の部活に入ったんですが、減量など辛いことはあってもやっぱり柔道が好きだったので、柔道部に入り直しました。土曜日に部活が終わった後、夜行バスで東京に行ってプロレスをみて、また夜行バスで帰るといったこともしていました。柔道と一緒で、もうプロレスが生活の一部になっていましたね。

高校3年の進路選択で、改めて将来について考えました。芸能事務所の演技レッスンは楽しかったですが、自分が女優としてトップになるのは厳しいし、お金を稼げなくても続けられるほど頑張れないなと思いました。ちょうどその時、映画のオーディションに受かって、端役ですが映画にきちんと出演ができたこともあり、自分の中で女優への思いは消化できました。

大学の先生から柔道でスカウトは受けていましたが、自分の中で迷いがありました。プロレスラーになりたいと話すと、先生は「大学柔道で基礎を作ってからがきっと良い。体力をつけて、怪我をしない体を作ってからの方がいい」と誘ってくださいました。でも、自分は早くからプロレス自体の練習をした方がいいと思っていました。「好きなことでお金を稼いで生きていきたい」という思いが強かったんです。私の好きなものって何だろうと考えた時、「やっぱりプロレスだな」と気持ちが固まりました。

一度決めると一直線の性格です。自分で東京のプロレス団体に連絡して、先生や親の反対を押し切り、高校卒業後18歳でプロレスの練習生になりました。

諦めなくてよかった


上京後、プロレスのトレーニングをはじめましたが、今までやっていた柔道とは勝手がまるで違い、最初は戸惑うことばかりでした。

柔道はルールの中で技を決めて、試合に勝つことが一番の目的でしたが、プロレスはお客さんが興奮し、楽しんでくれるような「魅せる」技でないといけません。

自分の戦う姿を動画でチェックして、お客さん目線で「どうやったらお客さんが楽しんでくれるんだろう?」と考えながら、ひたすら練習を繰り返しました。派手に見える技の決め方や、身体の使い方、煽り方など先輩に教えてもらいながら、技を磨きました。

一人で上京して生活環境も変わり、毎日練習を続ける中で、心がめげそうになる時もありました。プロレスラーになるという選択に、本当にこれでよかったのか?と悩むこともたくさんありました。それでも、今の努力が憧れのプロレスの舞台につながっているんだと自分を奮い立たせ、ひたすら練習に励みました。

トレーニングを初めて一年が経ち、19歳の時にとうとうデビューが決まりました。緊張もありましたが、夢の舞台に立てる!と思うとワクワクが止まらなかったです。

初めての試合、リングに上がったら、とことん力を出し切ってやると無我夢中でした。試合には負けてしまいましたが、相手の選手が試合後、耳元で「デビューおめでとう」と言ってくれたんです。

試合に負けて悔しい気持ちでいっぱいでしたが、その瞬間にふっと力が抜けて、じわじわとうれしさが込み上げてきました。自分が頑張ってきた日々を認められたような気がしたんです。客席には応援に来てくれた友達が見えて、入場してリングで名前を呼ばれると紙テープを投げてくれました。楽屋に戻り、一人になってもまだ胸がどきどきしていました。ずっとリングの外からみていたあの熱気と興奮の中心に自分がいたことが、まだ信じられないような思いでした。

自分が闘う姿や、会場から湧き上がった歓声を思い返していると、次第に涙が溢れてきました。試合が無事終わってほっとしたのもありましたが、何より「プロレスを諦めなくてよかった」と思いました。

見る人に元気を与える存在に


現在は東京女子プロレスに所属し、レスラーとして活動しています。主に夜の時間で練習し、週1くらいで試合に出場しています。

力強く迫力のある男子プロレスのようなファイトスタイルを目指しています。技の一発一発に力がこもっているパワフルさが自分の持ち味。技が決まってお客さんから歓声が上がるとうれしいですね。

私が尊敬するプロレスラーの方が出した本の中に、「自分は休まないうさぎだ」という言葉があるんです。自分が持つ高い能力に慢心しない姿勢に感銘を受けて、「私もそうなりたい」と思いました。

でも、私は人より秀でた運動能力もなく、技の習得にも時間がかかる方だったので、そもそもうさぎじゃないなと(笑)。地道な積み重ねでゴールする亀として頑張らなくちゃと考えたんですが、ふと、視点を変えればうさぎも亀と同じなのかもしれないと思ったんです。

外から見たら才能に溢れて、軽々とハードルをクリアしていくようにみえても、その陰では地道な努力があるのかもしれない。私もこれからもっともっと練習や経験を積んで、いつか人から「休まないうさぎ」だと思ってもらえるような存在になれたら、と思っています。

私の原点は、震災の時にみたチャリティーマッチ。あの光景に勇気づけられたように、お客さんが私のプレーをみて元気になってくれたら最高に幸せです。駆け出しですが、プロレスを通してたくさんの方を笑顔にしていくのが一番の夢です。

2020.05.03

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 山田 えり佳
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