生まれてきてくれた命の意味を形にするために。温かい食事で、お母さんの笑顔を支える。

病気の子どもを育てるお母さんを応援するNPO法人キープ・ママ・スマイリングの代表を務める光原さん。陽気な子ども時代から一転、突然の病気や、大切な人たちの死を経験しました。光原さんが現在の活動に至るまでにはどのような背景があったのか。お話を伺いました。

光原 ゆき

みつはら ゆき|NPO法人キープ・ママ・スマイリング理事長
1992年、一橋大学商学部経営学科入学。1996年に卒業後、株式会社リクルートに入社。さまざまなウェブメディアのプロデュースを勤めたのち、人事、ダイバーシティ推進に従事。先天性疾患を持つ娘を亡くした経験から、2014年に就業の傍らNPO法人女子カラダ元気塾(現・キープ・ママ・スマイリング)を設立。2018年12月よりNPO活動に専念。

陽気な子ども時代


広島県で生まれ、すぐ東京に引っ越しました。父が国家公務員だったため、仕事の都合で愛知や兵庫で暮らしたのち、東京都内に戻ってきました。転校ばかりでしたが、私は人見知りをしたことがなく、お笑い番組が大好きなおちゃらけタイプ。新しいクラスでもすぐに馴染み、周囲を笑わせていました。

家では、気難しく厳格な父に怒られることもありましたが、母がポジティブで明るかったので救われていました。両親に加え、優しくきちんとした性格の姉と、繊細な弟の5人家族です。弟とは本当に仲がよく、線の細い優しい子だったので「私が守らなきゃ」と漠然と思っていました。

学校生活は勉強も友達づきあいも特に困ることもなく、深く考えない性格でもあったので悩むこともありませんでした。姉が受験をした流れで私も中学受験をして、中高一貫の女子校へ進学しました。

門限が6時でしたので、特に部活はせず家と学校の往復でした。中学生の時はプロ野球にハマり、贔屓の球団を応援することに時間を使っていました。コンビニでスポーツ新聞を買ってスクラップしたり、野球の週刊誌にハガキ職人のようにネタを書いて送ったり、土曜は学校の帰りに一人でデイゲームを見に行ったりしましたね。高校に入ると、帰り道に寄ったレンタルレコード店で借りたCDに衝撃を受け、渋谷系のバンドにどハマり。音楽ばかりを聴いて過ごしました。

将来どんな仕事をしたいとか、何をやりたいというビジョンは特になく、周囲が受験するのに合わせて国立大を受験。大学に入ったらやりたいことが見つかるかな、と思っていましたが、入学早々始めた大学受験の塾の講師のアルバイトに没頭し、あっという間に3年生に。仕事についてはまるでピンとこないままでした。

お前は何をしたいんだ


ぼんやりしているうちに、就職活動の時期が来てしまいます。商学部だったので、とりあえず金融業界だと考え、銀行や証券会社のOGOBを訪問しました。でも、面白くなかったんですよね。興味のないことについて話しているのが、だんだん苦しくなってしまいました。

そんな時、たまたま情報サービス会社の人と出会い、話すようになったんです。会う人会う人みんな面白く、生き生きしていました。話すことが採用試験だとは思っていませんでしたが、面接に進むことに。合格をいただき、素の自分を出して受け入れてくれた会社なら放り出されることはないだろう、と考え、軽い気持ちで入社を決めました。正直、何の会社かすらよくわかっていませんでしたね。

日本のインターネット元年と言われる1995年の翌年に入社。最初の配属は、紙媒体からウェブメディアへのシフトを推進する部署でした。時代の最先端の部署で、周りの先輩も新しい時代をつくるすごい人達ばかり。新人の教育プログラムなんてあるわけがなく、何をしていいかわからず座っていると上司に怒られました。

与えられた仕事に対し、これまでの勉強のように合格点をとろうと資料を作っても、「それでお前はどうしたいんだ?」と聞かれるんです。「理屈はわかったけど、お前は本当にそう思っているのか?」と。ずっと問われ続ける中で、だんだんと自分は何がしたいかを考える癖がついてきました。すると、少しずつ仕事が楽しくなってきたんです。メディアプロデューサーとして、自分が考えたことを形にできる機会が増えると、さらに面白くて仕事に没頭していきました。

死を前に、突きつけられた無力感


そんな風に働いていた29歳の時、体調を崩して熱が下がらない日が続きました。病院に行った時「実はお腹も張るんです」と話してレントゲンを撮ってもらうと、「レントゲンに入りきらないくらい卵巣が腫れています」と告げられました。救急車で大きな病院に移り、熱の原因はこれだから、と手術をすることになりました。

病名を知ったのは手術の終わった後。卵巣がんでした。両親は私に隠そうとしたようでしたが、「自分の命なのだから知るべきだ」と弟が教えてくれたんです。再発を防止するためには卵巣も子宮も取ったほうがいいけれど、出産もしていないし転移も見られないので、片方だけ残したこと。抗がん剤は効かないタイプのがんだということ。それらを聞いて、再発したら死ぬんだ、と初めて死を意識しました。

しかし、手術の終わった後だったからか、その事実は意外と冷静に受け止められました。術後の療養のために1カ月休職し、実家に帰り安静にすることにしたのですが、その時、実は弟も心の調子を崩していたのでした。
ある日、弟が「ちょっと旅に出る」というので、私は「気をつけて行ってきてね」と見送りました。少し心に引っかかりましたが、それが、弟と交わす最後の言葉となるなんて、夢にも思いませんでした。私ががんになったことに気持ちが集中してしまっていて、私も両親も弟の病状が悪化していることに気づけなかったんです。優しくて繊細で生きづらさを感じていた弟を、私が守らなきゃと思っていたのに、守れなかった。自責の念と無力感に襲われました。

仕事が埋めた喪失感


復職後、半年ほど経ち多忙な日々が戻ってきたある日、上司に呼ばれ、医療メディアの立ち上げを任せられることになったんです。会社として医療領域の新規事業を行う中で、メディアを作る担当者を探していたと声をかけられました。4月の異動で、立ち上げの期限は年内。しかも担当者は私一人でした。編集をしたことはあってもメディア全体をイチから作ったことはないので、これ以上ないプレッシャーでした。

自分が動かないとどうにもならない状態の中、様々な人の協力を仰ぎながら奮闘しました。医療には関心があったんです。もし弟の病気について、私がもっと知っていたら。知識があったら、助けることができたかもしれません。20代でがんになり、弟を亡くし、命の有限さを痛感した私だから作れる医療メディアがあるのではないかと思いました。

また、一般の人と医療関係者との知識には大きな差があり、一般の人の医療に対するリテラシーを高めることには、大きな意義があると考えていました。その差を埋めることを目標にしていたので、大変なことはあっても辞めたいとは思いませんでした。毎日メディアのことばかり考えて、夜中の3時くらいまでは平気で会社にいましたね。

その努力が実り、なんとか年内にメディアを立ち上げたときは、感無量でした。一緒に作り上げた仲間やパートナーさんたちのおかげでスタートできたと心の底から感じました。チームで仕事をする楽しさを知り、やり遂げたことに大きな達成感を覚えました。

二度の出産と看病の日々


編集長として医療サイトを運営する充実した日々を送る中で、結婚して子どもを授かりました。もともと、私は子どもを見ても無条件に可愛いとは思えないタイプ。自分が出産するイメージがありませんでした。でも、ちょうど、がんの手術から5年経過した頃、不妊治療に関する取材を通して「生まれること自体が奇跡」だと痛感したこともあり、出産に気持ちが傾いてきました。それに、周囲の働くママたちに話を聞くと、みんな「産んでよかった。後悔したことはない」というんです。先輩ママたちの言葉に背中を押してもらいました。

娘は陣痛が始まって24時間でようやく生まれました。しかし、生まれたその日に救急車で新生児集中治療室に行くことになったのです。検査の結果、すぐに手術が必要だと判明しました。娘は生後5日目に長時間にわたる手術を受け、生後11日目の大晦日にようやく一般病棟に移れました。そこで初めて、抱っこしてミルクをあげることができたんです。そこから半年ほど、娘と一緒に小児病棟で過ごすこととなりましたが、幸いにも回復し、保育園に入園することもでき、育児休暇明けに復職も叶いました。

子どもが可愛いと思えなかった頃が嘘のように、産んでみたら娘はもちろん、すべての子どもが可愛くなり驚きました。娘が3歳になり、兄弟がいると良いなと思いました。幸いなことにすぐに授かりましたが、妊婦検診で、生まれてくる子どもが上の子よりもっと難しい疾患を持っていることがわかったんです。ショックでした。手術をすれば治るけれど、障害は残ると聞き、今度こそ仕事はできなくなると思いました。でも、生きてさえいてくれたらと覚悟を決めました。

生まれた2人目の娘も、出産後すぐに手術を経験。その後も入退院を繰り返しました。私は娘を看るために、毎日病室に泊まり込みました。ずっと病室にいるので季節もわからないまま、チューブから少しずつミルクを飲ませたり、検査に連れて行ったり、回診する医師や看護師に娘の様子を伝えたりと忙しないので、ご飯を食べるタイミングもありません。娘が寝たすきにコンビニで買った食事を食べ、落ち着けるのは娘が寝ている少しの間だけでした。ただ、ベッドの周りのカーテンを開けて医師や看護師、同じ部屋の付き添いママが話しかけやすい環境を作るようにしていたので、人と話せる時間は楽しいひとときでもありました。

彼女が生まれてきた意味は


その後、手術のために京都の病院へ。娘が集中治療室にいる間、病院から出られる時間がありました。とにかく温かい栄養のある食事を摂りたくて、近くにおばんざい屋さんを見つけて入ることに。出てきたご飯を食べたら、本当に美味しかったんですよね。また食べたくて3食続けて通っていると、「昨日からずっと来てるけど、近所に引っ越してきたの?」と店の大将から声をかけられました。

事情を話すと、大将は「この店は弁当も作っているから、電話をくれれば病棟まで持っていくよ」と言ってくれたんです。好意には甘えるタイプなので、「本当ですか、ぜひ!」と約束し、仲良くなったママ友の分もまとめて注文しました。ずっとコンビニのご飯ばかりだった病室で、手作りのお弁当を食べられたんです。あったかい、美味しい。生活の質が急激に上がるのを感じました。どんな励ましの言葉よりも、ご飯の力ってすごいなと感動しました。

しかし、そんな必死の闘病も、終わりを迎えました。2人目の娘は、11カ月で突然亡くなってしまったんです。自分の元に生まれてこなければ、娘はもっと長生きできたのかもしれない。こんな気持ちにもなりました。入院している期間が長かったので、近所の人にも、私の友人にもほとんど会えず亡くなってしまい、彼女のことを知っている人は本当にわずかでした。彼女は何のために生まれてきたのか。彼女が生まれてきた意味はなんだったのか。それを考えると辛くて、写真や動画を見ては泣く日々が続きました。

亡くなった娘が小さな棺に入って家に帰ってきてから斎場に行くまでの数日間、私は絶望の底で何をする力も出ませんでした。そんな時、近所のママ友がご飯を作りに来てくれました。そして、家にはまだ死もわからない長女がいました。長女の存在と、ママ友の温かいサポートに救われました。

同じように子どもを亡くした経験のある友人から、何が支えとなったかを教えてもらいました。その中で、私なりに2人目の娘が生まれてきた意味を考えたんです。証明はできませんが、私たちは誰でもその人なりの目的を持って生まれてきています。彼女が生まれてきたことにも意味があったし、目的を果たしたから空に帰っていった。私に伝えるべきことを伝えたから帰って行ったのだとしたら、彼女から受け取ったメッセージを形にして誰かの役に立つことが、私の役目だと考えるようになったんです。

救ってくれた、温かい食事を届けたい


私にできる、誰かの役に立つこととはなんだろうかと考えました。娘たちが生まれてきてくれたことで私が知ったこと、だからこそできること。それは、たくさんの小児病院で一緒に過ごした日々にあると気づきました。病児に付き添う母親の環境はとても過酷で、私自身が倒れたこともありました。

子どもが1日も早く退院して家族揃って笑顔で暮らすためには、子どもと向き合うお母さんこそが健康でいなければいけない。「そうだ、小児病棟で付き添うお母さんたちが安心して過ごせる環境を作りたい」と思いました。その第一歩としてNPO法人を立ち上げました。しかし、具体的な活動を決めたわけではなく、最初は手がかりになりそうな場所に出かけ、付き添いママたちにどのようなサポートができるのか模索する日々が続きました。

ある公益財団が運営する、入院中の子どもに付き添う家族の滞在施設「ファミリーハウス」を見学した際、ボランティアの人たちが付き添いママたちのために夕食病を作っている光景を見ました。「これだ」と思ったんです。私もつらいとき、苦しいとき、誰かが作ってくれた温かいご飯に救われてきた。だから同じように病気の子どもを看病しているお母さんたちに温かいご飯を届けて応援しよう、と。

さっそく料理が得意な友達を募り、東京都内のファミリーハウスを拠点に看病中のお母さんに食事を届けるサービスを開始しました。調理も指導してくれるシェフにも出会え、活動は少しずつ軌道に乗っていきました。

一方で、仕事は続けていました。人事に異動し、従業員の成長に関わる仕事やダイバーシティ推進の仕事などやりがいはありましたが、NPOの活動を続けて5年目に全国に支援を拡大するチャンスに恵まれ、付き添いママたちへの食事支援を本格的に行うために会社を辞めてNPO活動に専念することにしました。

病児を抱えるお母さんに笑顔を


今は、病気の子どもや発達のゆっくりな子どもを育てるお母さんを支援する応援する、「NPO法人キープ・ママ・スマイリング」の理事長を務めています。主な活動は、入院中の子どもに付き添うお母さんたちへの食事支援です。東京都内の小児科病棟やファミリーハウスに滞在する付き添いママに、ボランティアスタッフと調理した夕食やお弁当を月1回~2カ月に1回程度、定期的に届けています。

病院の外に自由に出られない付き添いママたちは、コンビニ食やおにぎりを食べざるを得ないので、栄養が偏りがちでどうしても野菜が不足します。そこで、提供する手作りの食事では野菜たっぷりのメニューを心がけています。また、健康を支援するだけでなく、食事には「付き添っているお母さんを応援している」というメッセージを添え、心のサポートをすることも大切にしています。

ただ、小児病棟に付き添うママたちは、衛生面や時間面でお弁当すら食べるのが難しい状態。どうすればいいか模索する中で、缶詰にすれば衛生的に安心で、常温で保存も効くから自分の都合のよい時間に食べられるとひらめいたのです。そこで、シェフに缶詰の監修を依頼し、さらに缶詰製造企業のサポートと助成金のご縁をいただき、缶詰の概念を超えた“美味しすぎる缶詰”を製造することができたのです。

全国の医療機関の小児病棟を対象に缶詰を配布する活動を「ミールdeスマイリング」と名付け、今は佐賀県の病院に毎月1回、定期的にお届けしています。付き添いママはもちろんのこと、ママが笑顔になることを医療者のみなさんにもとても喜んでいただいています。

子育てはただでさえ大変ですが、特に病気の子どもの子育ては困難なことも増えます。もちろん、一番大変なのは闘病している子どもです。だからこそ、医療者や周囲の関心は子どもに注がれますし、お母さん自身も「大変なのは子どもだ」と自分自身のケアをおろそかにしがちです。私が経験したように、お母さんも子どもと同じようにつらいし大変なのです。それでも子どもを早く治すためには自分が弱音を吐くわけにはいかないと頑張り続けている。そんなお母さんたちが、笑顔で安心して子どもとその病気と向き合える支えになりたいと思っています。

今後は情報発信も強化して病気の子どもや発達のゆっくりな子どもを持つお母さんたちの現状を広く社会に伝えていきたいです。そうすれば、大変な状況にある彼女たちに対する理解が深まり、差し伸べられる支援も増えていくはずです。

この活動を行っていくことは、全てのお母さんたちの笑顔のためであるとともに、自分のためでもあるんです。2人目の娘を亡くした辛く悲しい気持ちは、時が経っても乗り越えるものではない、一生抱えていくものだと思っています。でも、自分のところに来てくれた彼女から、私にしかできない使命を与えられ、この活動を続けている。活動を通して誰かが喜んでくれることは、彼女の生まれた意味を作っていくことでもあります。だからこそ、時間はかかると思いますが、「キープ・ママ・スマイリング」が存在しなくても、全てのお母さんたちが笑顔で子どもと向き合える社会を作っていきたいと思っています。

2020.04.27

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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