50歳を過ぎての転職と起業。 いくつになってもワクワクは生み出せる。

株式会社jintでアイデアコンサルティングを行う梶谷さん。大手眼鏡専門会社から服飾専門学校の経営責任者へ転職、そして55歳で独立へ。異色の経歴を歩む梶谷さんを、前へと動かしてきたものは何なのか。お話を伺いました。

梶谷 直樹

かじたに なおき|アイディアコンサル業
1961年、和歌山県生まれ。大手眼鏡会社・三城で店頭接客、海外事業部のバイヤー、商品開発を経験した後、アメリカ法人の責任者に任命され渡米。帰国後、服飾専門学校ESMOD JAPONの経営責任者に転職。現在は株式会社jintの代表として、幅広い事業に関わっている。

仲間と何かに打ち込む楽しさ


和歌山県有田郡で生まれました。自然豊かな所だったので、虫を捕まえたり野山を駆け回ったりして遊んでいましたね。小学校では野球、中学校ではバレーボールに熱中しました。

高校でもバレー部に入り、バレー漬けの日々を送りました。高校のバレー部は、国体やインターハイ、春の高校バレーにも参戦する強豪チーム。勝って当たり前のプレッシャーはありましたが、仲間に恵まれました。楽しそうに活動する人ばかりでしたね。

2年生のとき、ついにベスト8に入ったんです。結果が出たとき、180cmもある先輩が号泣しました。今まで頑張ってきた、いろんな想いがこみ上げてきたのです。その姿を見て、自分も一緒になって号泣しましたね。うれしくて泣くことなんて、まず経験がありません。同じ感情を共有できたそのとき、仲間と一緒に何かに打ち込む楽しさを知りました。

3年生のときにはキャプテンを務め、秋までがっつりとバレーに打ち込んでいました。バレーしかやっていないので、引退しても何をしたらいいかわかりません。ただ、特別背が高いわけではないので、バレーでの進学は難しいと思っていました。勉強などしていませんでしたが、周囲からとりあえず大学には行けと言われました。受かりそうなところを探し、一浪して広島の大学へ進学。何かと汎用性の高そうな経済学部を選びました。

大学では音楽をやってみたくて音楽サークルへ。バンドを組んで、ギターを担当しました。イベントでは社会人と交流する機会もあって、楽しかったですね。ここでも部長を務め、授業はそっちのけでサークルとアルバイトに明け暮れました。

卒業後の進路を考えるときになってようやく、就職しないと、と思い始めました。バンドで食べていこうとする仲間もいましたが、自分には突出した音楽の才能があるわけではなく、その選択肢はありませんでした。

就職活動をするにあたり、とにかく業界でトップの会社を受けようと思いました。それも有名な業界ではなく、シールや金庫、カセットテープなど、あまり知られていない業界を探そうと。その方が、競争率が高くないだろうと考えたのです。それでも状況は厳しく、受けたところはどんどん落ちました。その中で唯一受かったのが、大手眼鏡会社でした。

自分が生んだ眼鏡に、街で出会う


最初に配属されたのは、岡山の店舗でした。彼女が広島にいたので、離れるのは嫌だったのに、岡山に来て4カ月で今度は金沢へ。その後、富山へと、北陸を回ることになりました。遠距離恋愛は大変でしたが、それでも「人生の中で、こういう所で生活する機会はそうないだろうから、行ってみるか」という感覚でした。

接客の仕事は、嫌で仕方ありませんでした。「いらっしゃいませ」なんてどうしてもうまく言えなくて、すぐやめてやろうと思っていました。

しかし働くうちに、だんだんと接客の楽しさに気づいたんです。特に地方のお客さんはみんな優しくて、人とのつながりを感じられました。富山の店では、市場帰りの漁業組合のおじさんが、毎朝魚のお土産をぶら下げて店に来てくれたりもしましたね。

3年ほど店舗で働き、店長も経験した後、東京の本社勤務に。遠距離恋愛を続けていた彼女とは結婚を決めました。配属先は、新しくできた海外事業部のバイヤーです。海外ブランドの商品を買い付けて、日本で販売するのが仕事でした。今までの接客とは違う、新しいことに挑戦しているという面白さがありましたね。海外出張にも毎月行くようになり、英語は喋れないながらも、人脈は広がっていきました。

バイヤーとして3年間働いた後、今度は商品開発部へ。既製の商品を購入するのがバイヤーの仕事なら、商品開発はまだ世の中にないものを、一から作り上げる仕事です。

若くして大きな仕事を任され、会社は上り調子。「俺は正しい。俺が一番だ」と思っていました。デザイナーでもないのにラフを描いて、50歳過ぎの下請け会社の社長に指示を出すんです。彼らはそれをきちんと図面に起こして持ってきてくれるのですが、私は一目見て気に入らなければ、その場で破り捨てていました。すごく嫌な奴でしたね。

それでも、自分がつくり上げたものに街で出会ったときには、大きな喜びがありました。初めてそれを発見したのは、帰省途中の電車の中です。斜め前に座っていた女性が、私が企画した眼鏡を掛けていました。まさに彼女は、眼鏡を開発する中で自分が思い描いていたような女性だったんです。思わず「ありがとう!」と叫びたくなるような、震えるくらいの感動でした。

商品開発をする傍ら、テレビCMなどの広告に携わったり、新しい店舗づくりに奔走したりと、他部門の人と連携する場面も多く、飽きる間もなくさまざまな仕事が舞い込みました。

しかし、次第に管理する立場になり、論理的に考える場面が増えてきました。クリエイティブな想いは薄れ、売れるものをたくさん作ろうと、数字のことばかり気にするようになりました。

逆風の中でのチームづくり


その頃、アメリカ法人の経営が思わしくなく、責任者を代えようという話が経営陣の間で持ち上がっていました。

同僚とニューヨーク旅行を楽しんだ帰りのこと。同僚を自宅に呼び、一緒に妻が作ってくれたカレーを食べようとして、缶ビールを開けた瞬間、電話が鳴ったんです。相手は社長でした。「アメリカに行く奴が決まったぞ」と。「よかったですね。誰ですか?」「お前だ」「……」。

娘はカレーライスを前にして号泣しましたね。絶対行きたくないと言われました。家族はパニックで、同僚は帰宅。カレーライスはすっかり冷めてしまいました。ただ、息子が「俺は行ってもいいよ」と言ったんです。その一言でみんな決心がつき、家族全員で急遽、渡米することになりました。

アメリカの会社では、日本人は私一人でした。言葉は話せないし、通訳もいません。中にはアジア人に偏見を持つアメリカ人社員もいて、なんで日本人が上司なんだという雰囲気もありました。そんな中、営業成績が良くないアメリカ法人を、何とか立て直さなくてはいけません。

私が試みたのは、社員のモチベーションを上げることです。小売りの世界では、モチベーションが変わるだけで、売上は数%伸びると言われています。そこで、会社に新しい刺激をどんどん取り入れる道を選びました。新しい仕組みやテクノロジーを取り入れたり、パーティーを開いたり。抵抗する人もたくさんいましたが、一人でも賛同者が居れば、仕組みは広がっていきます。

結果、少しずつ成果が数字に表れ始めました。余裕が出て、新しい州に店舗を出したり、ネットショップと連携して商品を販売したりと、新たな取り組みができるように。そうした取り組みが、また社員のモチベーションアップになるという好循環が生まれました。モチベーションだけでなく、社員と気持ちを一つにするチームビルディングにも力を入れましたね。

ある日、サッカーのワールドカップで、日本対ブラジルの試合があり、社員を自宅に呼んで、みんなで試合観戦をすることにしました。

残念ながら、結果は日本の負け。落ち込みつつ、試合後にみんなで食べようと社員が用意してくれたケーキの蓋を開けると、そこには日の丸のケーキと「JAPAN2-BRAZIL0」の文字が。日本が2点を取って決勝に進む、というメッセージでした。

サッカー文化のないアメリカ人が、自分のためにこんなサプライズを用意してくれた。予想もしなかったアメリカ人の思いやりに驚きました。チームとして一緒に取り組んできたからこそ、生まれたコミュニケーションだと思いました。同じ文化をもつ、良いチームが作れたことを実感しましたね。

居酒屋で生まれるアイデア


5年間アメリカの生活にどっぷりとはまっていましたが、社長から突如帰国を命じられ、後ろ髪を引かれる思いで帰国することになりました。

バイヤー時代にお世話になった上司が受け入れてくれ、再び商品開発の部署に配属されました。「何をしたらいい?」と聞くと「しばらく遊んでてくれ」と言われたんです。入社以来そんなことを言われたのは初めてで、何をしていいのか分かりません。あまりに暇なので、定時になると毎晩職場の仲間と飲みに行くようになりました。

そこで得たのが、飲み会の場で生まれる、クリエイティブシンキングやクレイジーシンキングという発想法でした。会議室でアイデアを出そうとしているときは、硬いロジカルシンキングになりがちです。それが居酒屋で話すと、頭が柔らかくなってアイデアが自由に生まれるクリエイティブシンキングになり、もっとお酒が入るとクレイジーシンキングに変わります。翌朝思い出すと「バカなこと言ってたな」というクレイジーな話の中から、一つ二つ面白いことが出てくるんです。ただ楽しく飲んでいるだけなのに、そのとき話したことが、新しい店舗づくりに活かされたりもしましたね。

帰国時に受け入れてくれた上司は社長になり、自分も経営の中心にいました。しかし3年ほど経って、その社長が退任することが決まったのです。ずっと二人三脚でやってきた仲だったので「それなら俺も身を引こう」と、次の仕事も決めずに退職することにしました。50歳のことです。

時を同じくして息子も、スタートアップをするために、勤めていた会社をやめると言い出しました。家族で先が見えない状態。しかし幸いにもやめる段になって、いろいろなところから声を掛けてもらえたのです。

その中で惹かれたのが、フランスの服飾専門学校の日本分校の経営でした。学校経営という新しい分野に興味を持ちましたね。学生とはどんなものか、もう一度思い出してみようという気持ちもあり、やってみることにしました。

55歳で人生を見直す


全く異業種での、新たなチャレンジです。講師のほとんどはデザイナー。フランス人も多く、眼鏡会社から突然やって来た私に対して「眼鏡はファッションじゃない」とあからさまに言われることもありました。

経営は赤字で、しかも経験のない学校経営。最初の一年はひたすら「教えてください」の姿勢で臨みました。自分一人では絶対に成し遂げられないと思い、何より力を入れたのはチームづくりです。前職で培ったスキルを生かして、メンバーをまとめていきました。チームが動いてくれたからこそ、次第に成果を出すことができました。

この学校では、生徒たち全員がデザイナーかパタンナーになって卒業します。皆、強いモチベーションを持って必死で3年間学び、夢を叶えていくのです。そのパワーに触れられたことは、この職場で得た大きな副産物でした。また、フランスの文化やフランス人について学ぶことができ、卒業生とも、その後長く続く人脈ができました。

学校を退職したのは、55歳のときです。この歳では他に雇ってくれるところもないだろう、という軽い気持ちで、起業することを決めました。息子が既に起業していたので、怖さはなかったですね。今の若者はこうなんだと、子ども達から学びました。

独立を考えて自分の人生を見直したとき、気づきを与えてくれたのは、いつもそばにいる家族でした。常に自分を基準にして、他人に理解を求めていた私を見て、息子は「他人はベストを尽くしてる。人を変えるんじゃなく、自分が変わらないといけないんだ」と言ったんです。身内に言われて初めて「あぁそうなのか」と。自分の根底にどこか残っていた「嫌な奴」から、ようやく抜け出せる気がしました。

息子から教わったことは他にもあります。それは「他人にどう思われようが関係ない」ということ。それまで私は、他人のことばかり気にしていたんです。でもその気づきで、すごく楽になりました。好きな人と、自分が楽しいと思う仕事をやればいいんだ、と。

独立して1年目は、つながりのある方々が発注してくれる単発の仕事で食いつなぐことができました。しかし2年目には仕事が激減。妻からは「このまま収入がないなら、会社を畳んでコンビニでバイトしたら?」と言われましたね。

営業活動もしていないし、ホームページもない。それでも、さまざまな場所で培ってきた人脈のお陰で、徐々に事業は軌道に乗り始めました。依頼される仕事はすべて、今までのネットワークから来たもの。そしてそのネットワークから生まれる仕事は、不思議と面白いものばかりなんです。

刺激をくれる仲間と楽しい仕事を


今は、株式会社jintの代表として、教育と、企業コンサルティングの2軸で活動しています。教育分野では、服飾専修学校の教頭を務めたり、大学でマーケティングやロジカルシンキング、経営全般についての講義をしたりしています。

企業コンサルティングでは、眼鏡のデザイン・企画から始まり、企業を元気にするサポートなど、楽しいと思える仕事を幅広くお受けしていますね。最近では、イスラエルの会社が日本に工場を作る手伝いや、1950年代の米軍支給の眼鏡を、文化遺産にする取り組みにも関わりました。

根幹にあるのは「一緒にものごとを解決したい」ということ。そのため、「エスノグラフィ」という主に人類学などで使われる研究手法を活動の軸にしています。これは、相手の生活に入り込み、文化を体感して、思いを共有するという手法です。そうすることで、ただアドバイスするだけではなく、一緒に前進できると考えています。

たった一人の会社ですが、今までのネットワークが自分を支えてくれています。案件が来たときに、すぐ適切な人材をアサインできるのが強みですね。そしてネットワークから生まれた仕事は、また新たな人のつながりを生みます。そうやってできた仲間と、お酒を飲みながらクリエイティブシンキングやクレイジーシンキングしている時間が、一番楽しいですね。

今後は、自分や妻が生まれ育った地域で、地方再生に繋がる事業をやってみたいです。この歳になってもまだ、知らないことはたくさんあります。自分に新しい刺激を与えてくれる人達と一緒にいられることがうれしいですね。そういう人達とお酒を酌み交わしながら、ワクワクするアイデアをどんどん生み出していきたいです。

2020.04.20

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 塩井 典子
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