医療は、病院の外まで続いている。 暮らしを支える「社会的処方箋」を。

神奈川県横須賀市の三輪医院で院長を務める千場さん。在宅医療を推進し、これまで1000人以上の最期を看取ってきたと言います。地域の人と繋がる中で千場さんが見出した、「病気を治す」だけではない医療の形とは。お話を伺いました。

千場 純

ちば じゅん|三輪医院院長
神奈川県横須賀市にある三輪医院の院長。名古屋大学医学部卒業後、横浜市立大学附属病院、国立横須賀病院(現横須賀市立うわまち病院)などで勤務したのち、医療法人社団聖ルカ会パシフィック・ホスピタル院長等を経て現職。横須賀市医師会副会長として「在宅看取り」の普及に取り組む。地域の方々の健康や暮らしを支える拠点「しろいにじの家」を開設し、誰もが望む形で医療を受けられる環境づくりを推進する。

命は繋がっている


神奈川県横浜市で生まれました。自然に恵まれた地域で、庭に穴を掘って秘密基地を作るなど、とにかく外で活発に遊んでいました。木や土、たとえば雑木林なんかが好きでした。

小学校時代から学級委員などを任されることが多かったですね。「枝のない木のようだ」と教師からいわれたくらい素直な性格で、大人の言うことをよく聞きましたし、周囲にやたら気も遣う子どもでした。

小学生低学年の頃のこと。地域のガキ大将たちと徒党を組んで遊んでいたある日、近所のどぶ川で流されている子犬を見つけました。子犬は必死にもがいていて、ようやく浅瀬の木切れにすがろうとしたそのとき、誰かが子犬に向かって石を投げたんです。ほんの子どもの遊び心で、当たったら面白いだろうと思ったんでしょうね。みんなが次々と石を投げました。僕も投げました。投げ続けているうちに、誰かの石が命中。子犬は流れに沈んでしまったんです。

それを見たとき、雷が走ったみたいにハッとしました。なんでこんなことをしてしまったんだ。「子犬を殺してしまった…」。大きな罪悪感にさいなまれました。友達の中には、子犬は子犬だと割り切ってなんとも思わないやつもいたかもしれません。でも、僕はそうは思えなかった。初めて死について考えさせられた出来事でした。子犬の命も自分の命も、同じ一つの命だと気が付きました。石を投げられて途絶えた子犬の命と、石を投げて子犬を殺した子供の命、どちらも同じ命なんです。自分と子犬という風に、区別をつけることはできない…。なんだか、子犬と自分との境界線が、一瞬で取っ払われたように感じました。

俯瞰してバランスをとるアウトサイダー


母が教育熱心で、子どもの頃から進路はなんとなく定められていました。高校に入るとすぐに、医学部への進学を勧められたんです。自分では自然が大好きだったので、たとえば農業のような土の近くでする仕事に興味がありました。しかし、母は「漫画家の手塚治虫、小説家の北杜夫、みんな医学部を出てるけど好きなことができているわよ」と言うんです。

そんな母に素直に言いくるめられて医学部を目指し、一年目は浪人。予備校で面白い先生たちと出会えて開眼し、医学部進学コースでの受験勉強も楽しくなりました。名古屋の大学の医学部に合格しましたが、実は医学部がだめならそちらに行こうと思って受けた、農業大学にも受かってたのです。ところが母はさっさと入学手続きを進めていて、勝手に授業料を振り込み、なんと手回しよく下宿先まで決めていたんですよ。そんなわけで、医学部に進学することになりました。

大学では、学生運動が盛んに行われていて、とても授業どころではありません。半年くらいは休講続きで、学生たちは遊び回っていました。僕も例にもれませんでしたね。仲良くなったのは、学生運動に参加するわけではないが無関心でもでもない、中間にいる“ノンポリ”、つまりはアウトサイダーの人たちでした。

学生時代から僕はいろいろなことに興味を持ちましたが、何か一つに没頭して夢中になることはありませんでした。常に俯瞰して物事をみようとしていたせいか、学生運動に燃えるグループにも、遊びに全力なグループにも入り込めませんでしたね。遊びと勉強、両方のバランスをとって要領よく遊びました。よく言えば冷静ですが、悪く言えば本気になれない。そんな自分が少し歯がゆくもありました。

医学を学ぶうち、僻地医療に興味を持ちました。狭い分野を極めるよりも、フィールドに近いところで広く患者さんを診たいと思ったんです。北海道や新潟などの先輩医師を訪ねて学び、いつかは彼らのような地域に密着した医療をやりたいと考えました。そこで、まず、卒後研修には地元横浜の大学病院を選びました。その理由の一つは、研修期間中にいくつもの診療科を選べること。幅広く学べるのが魅力だと感じました。

仲間と場づくりの面白さ


研修医時代の下宿先は、中華街の近くでした。ある日、元町の運河沿いを歩いていると、面白い場所に出会いました。運河に捨ておかれていた廃船の一つ、大きな達磨船が改装され、画廊のようなスペースになっていたんです。そこに何人かの若者が集まって、絵画教室や茶室などを開いていました。

そのスペースを企画したのは、とある風変わりな建築デザイナー。なんでこんな場所を始めたのか聞いてみると、「人が集まって語る場所を作るため」との答えが返ってきました。もともと昔の家には、みんなが集まって話す場所として居間があった。でも、都会の家は狭くてその場所がない。みんながちょっと集まって話す時間を作ってくれるのが街中の喫茶店だと。彼は建築家の視点から、そんな喫茶店文化を意識して、いろんな人が集まる場所を、ここに作っているとのことでした。それは面白いですね、と賛同して、僕もその場所づくりに携わることになりました。

とにかく、いろいろな人が集まると、いろいろなことが起こります。例えば、美術関係の業界人や学生が多かったから画廊ができたし、そこではデッサン教室なんかも開かれてました。お茶が好きな人がいたのでお茶室を創ってお茶会をやりました。場所があれば、そこに集まる人のニーズでいろいろなものが生まれる。それがとても面白いと思いました。

病院の外での医師の役割


横浜の大学病院では、幅広く医療を身に着けるために内科と皮膚科、産婦人科、麻酔科を研修し、その中から全身をみるリウマチ・膠原病を専攻しました。約10年間の病院勤務で診療した患者さんの中には、重病で亡くなっていく方も大勢います。身近な死というものをいやというほど体験しました。その後も膠原病や関節リウマチ診療を中心に、呼吸器疾患、糖尿病などの慢性疾患、そしてがんや白血病の治療に従事し、様々な病院を約2年ずつで転々と移動しました。その間ずっと僻地医療をやりたい気持ちはありましたが、周りに気を遣う性格なので、教授に言われるまま、特に争うこともなく勤務しましたね。

そんななかで、筋ジストロフィーという病気で、呼吸困難に陥ってしまう患者さんを担当したことがあります。その患者さんは、昼間は自力で呼吸ができるのですが、夜だけ人工呼吸器が必要な状態でした。その患者さんがふと「正月は家に帰りたい…」そうつぶやいたのです。そうなると、病院の外で使える呼吸器が必要になりますが、そんな機械装置はありませんでした。

この病気は治らないわけですから、僕ら医師ができることはせめて患者さんの希望を叶えてあげたいと想い遣ることくらいです。なんとかしてあげたい、と強く思いました。どうやったら?とあれこれ考えた結果、学生ボランティア20人くらいに声をかけました。両手で胸を押さえては放す作業を繰り返す“用手体外式の呼吸法”を彼らに教え、患者さんの自宅で夜だけ交代で呼吸を補助してもらうことにしたのです。時々僕も見に行って、問題がないか確認しました。それによって患者さんは正月の三が日、なんとか自宅で過ごすことができたんです。

家に帰って生き生きとした患者さん夫婦の笑顔を見た時、自宅にいることの意味を体感しましたね。その時の在宅医療はほんの一時的ではありましたが、患者さんご夫婦にとっては実に大切な時を過ごせたわけです。できない!と言ってしまえばそれまでですが、もしやれるとしたら?というところから発想することの大切さを実感しました。

39歳の時、横須賀の病院へ赴任することになりました。それまでは大学病院医局人事の意向で異動していましたが、年齢的には今回の異動を最後に、内科医長として落ち着いて就職できることはわかっていました。その病院では8年以上、地域に密着して勤務することになり、これまでには見えなかった病院の中だけの医療の限界が見えてきたんです。以前来ていた患者さんが来なくなったと思ったら、亡くなってしまっていた。せっかく退院した患者さんがまた症状が悪化して、再入院を余儀なくされた。そんな経験をいくつもしました。

病院医療は、来る人を診ては自宅に送りかえすけれど、治しきれずにそのあとのフォローができなかったのです。病院の外まで繋がってゆく医療が必要。そう思いつき、より在宅医療に関心が向き始めました。そんな時、在宅医療をやっている、とある老人病院から院長としてお招きを受けたんです。これまで、流されるままにキャリアを決めてきましたが、初めて自分から行動したいと思いました。迷惑はかけましたが、仕事を後輩に引き継ぎ、新しい病院に移ったんです。

地域とのつながりで知らされた社会的処方の必要性


新たな病院では基本的な在宅医療を学び、5年ほど経った時、今度は別の地域の診療所から声が掛かりました。ちょうどそのころには次のステップとして、診療所での在宅医療をしてみたいという思いがあったので、迷わず転勤しました。その診療所では先代の院長先生も以前から往診をなさっていたので、まずはその患者さんたちを引き継ぎました。やがてそれに加えて、リウマチ性疾患や呼吸器疾患の診療に専門性を残しながら、本格的な在宅医療にとりくみ始めたのです。

患者さんの中には、治らない病気をいくつも抱えた方もいます。中には、病院でなく家で最期を迎えたいとおっしゃる方もいる。できる限りその望みを叶えたいと、いろんな取り組みをしました。とにかく在宅医療では、多くの患者さんを看取りましたね。

はじめは、そこまで積極的に地域と関わっていくつもりではありませんでしたが、5年、10年が経過すると、一人ひとりの暮らしが印象に残ってくるんです。具合が悪くなるときに、その原因がその人の暮らしの中にあることもあるでしょう。患者さんを診るときに、家と診療所の境目が繋がっていた方がやりやすいと感じ、どんな暮らしをしているかも知りたいと思うようになりました。

すると、我々が処方する薬ではないものを求めている患者さんが大勢いることもわかってきました。例えば、胃潰瘍で薬を出しても、なんだか患者さんに元気がない。薬は効いているけれど、どうしてだろう、と思うわけです。そこで話を聞いてみると、離婚を迫られているという。これを解決しないと、患者さんは良くならないんですよ。僕自身が直接調停に入るわけにはいかないけど、「知り合いの弁護士さんがいるから、ちょっと紹介しようか?」との提案はできます。そんな風に、薬以外の暮らしを助けるようなアイデアを出すようになりました。

薬と同じように、患者さんの役に立つような“地域社会とのつながり”を処方する、という考え方、これを「社会的処方」といいます。在宅療養支援診療所として、その必要性をとても強く感じました。積極的に地域に出ていって、いろんな職種の人達とのネットワークをつくり、患者さんやその家族のためになる「社会的処方」を意識するようになりました。

その中で、ふと研修時代に横浜元町界隈で関わっていたような、人が集まる場所を作ってみたらどうかな?と思ったんです。診療所の患者さんが立ち寄ることもできるし、そうじゃない近所の人が来てもいい。そこでは医療に限らない相談もできるし、世間話や身の上話もできる。そんな場所があったらいいなと。

そんなことを思っていたら折良く、医院のほど近くに土地が見つかり、地域の方々の健康や暮らしを支える拠点にしようと、「しろいにじの家」という施設を建てました。そこにベテランの看護師さん、管理栄養士さんを中心にボランティアの方々を集めて、気軽に相談ができて語り合える「しろいにじのカフェ」をオープンしたんです。

持続可能な地域医療の仕組みをつくる


今は、三輪医院の院長を勤めています。しろいにじのカフェを始めてから、地域に入っていくのはとても難しかったですね。今も少しずつ人間関係を築きながら、住民の健康を支える仕組みをおりにふれて考えています。これまで、カフェでは週2日ほど管理栄養士監修のランチを提供したり、いろんなサークル作って20種類くらいを個人に合わせてコーディネートしたりと、様々な取り組みをしてきました。おかげさまで、現在140人を超える会員がおり、年間延べ2000人近い利用があります。これからの一番の課題は持続性ですね。

どこのNPOでも抱えている問題かと思いますが、お金の問題、人の問題をクリアできなければ、どんなに良いことをしていても活動が断ち切れてしまう。それを防ぐためにどうしたらいいか?それを考えながら、2019年度からは近隣の地域資源発掘と活用を地域住民主導で考える、神が集まる神社ならぬ、人が集まる「人社」プロジェクトに取り組んでいます。

今後は横須賀市内のあちこちで、「しろいにじのいえ」のような助け合いのサークルがある地域をつなげて、同じようなコミュニティ創出事業「よこすか人社プロジェクト」を行う予定です。うまくゆけば少しずつプロジェクトの数を増やし、ゆくゆくはその統括事務局を設けてまとめて管理できるようにする。そうすることで、それぞれの地域活動団体が活動しやすくできるのではないかと考えています。    

NPOほか、市内で活躍中の地域活動主宰者たちは、それぞれしっかりとした目的意識を持ってやっているのですが、いかんせん横のつながりがない。今後はいろいろな方の力を借りながらそれらを繋げ、地域全体で持続可能な仕組みを築いていく必要があると思っています。地域医療もそうです。三輪医院のような在宅療養支援診療所も地域資源の一つとなって、地域に住む人々が “病院の中だけではない、それぞれに望む形の医療が受けられるような地域風土を作る役割を担ってゆくべきだと思っています。

2020.04.16

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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