生き残るため、から世の中の役に立つために。デザインという武器を活かして新たな挑戦を。

デザイナーとして株式会社スマイルズに所属する傍ら、フリーランスとしても活動する北山さん。幼い頃から自立願望があり、実家を出て、一人で生きていくためにデザインという武器を手にしました。しかし、「今は生きるための武器ではなくなった」と話します。今、北山さんがデザインという武器を使う理由とは。お話を伺いました。

北山 瑠美

きたやま るみ|旅するデザイナー
大阪の芸術大学を卒業後、グラフィックデザイナーとして制作・印刷会社に就職。結婚を機に東京へ拠点を移し、インテリア雑貨メーカーのインハウスデザイナーに。現在は株式会社スマイルズに所属する傍ら、フリーランスとしても活動。旅ライターでもある。

兄の暴挙とデザイナーの夢


静岡県浜松市に生まれ育ちました。両親は教育に厳しく、例えば理由があって学校に遅刻した時でも許してもらえず、真冬の夜に家から閉め出されるほどでした。

兄弟は、年の離れた兄と姉がいました。三兄妹の末っ子です。兄は、人とは違う価値観や自分の哲学を強く持っている反面、暴力的で、私はよく手をあげられていました。逃げれば殴られ、助けを求めて両親に言おうものなら、告げ口したことがバレてさらに殴られます。そんな状況だったので、兄から暴力を振るわれていることは怖くて誰にも言えませんでした。友達が家に遊びに来ると、友達の前でも殴られたこともあり、本当に辛かったです。

兄に支配される日常の中では、兄の好きな映画や音楽、漫画を読まされることが多かったです。いやいやでしたが、見ているうちに非現実的な世界に逃避できる魅力に気づき、SF、ファンタジー、冒険、マフィア映画や戦争映画など、様々な映像やストーリーに魅了されていきました。映画のオープニングの文字と映像とのバランス、コントラストやポスターなどにも、かっこいいなと魅力を感じましたね。

私が7歳のとき、中学生の兄が美術の課題で描いた、クラシックのレコードジャケットの絵を見させられました。綺麗な風景の絵です。そこで兄が、「動物が隠れているから探してみろ」と一言。だまし絵のように、風景の中に7匹の動物が隠れていたんです。見つけるたびにワクワクドキドキして、後からふつふつと湧いてくる興奮がありました。映画のポスターより身近で面白く、ハッとさせられたんですよね。ただデザインがかっこいいだけでなく、自分も楽しめて相手も喜ばせられる。気づく人にだけ気づく秘密のメッセージのようなデザインにすごく共感して、衝撃を受けました。

毎日恐いけど、独創的なアイデアを持った兄の存在が大きすぎて、物心がついてから中学に上がるまで、精神的に複雑な環境にいました。

自殺未遂、家を出る決意


中学校に進学すると、映画や音楽の影響から吹奏楽部に入部しました。部活の時間が一番楽しかったですね。学校では友達もいて明るいキャラクターでしたし、学級委員も務めていました。でも、友達や先生には兄からの暴力を打ち明けることができませんでした。

そんな中、兄が東京の大学に進学するのを機に家を出ることになったんです。兄がいなくなって、受けていた支配から解き放たれたそのとき、「死んでもいいんだ」と思いました。これまで、どうにかして逃げたくて、逃げるためには死ぬしかないと思っていたんです。それ以外の選択肢がわかりませんでした。でも、兄がいては何をすることも許されないと思い込んでいました。兄がいなくなった今、ようやく死んで自由になれると思ったんです。

死ぬなら、一番楽しかった部活の時間にしようと思いました。みんなが部活をしている最中に、窓枠を跨いで庇に立ち、下を見下ろしました。すると、はるか下にあるアスファルトが、なぜか柔らかそうに見えたんです。「自由になってもいいよ」と包み込んでくれるような感覚でした。よし、と決意して、いざ飛び降りようとしたとき、友達に見つかってしまったんです。「何してんの!? 」と校舎内に引きずりこまれました。

みんなすごく動揺していて、「なんで?何してんの!? 」と泣き崩れてポカポカ叩いてくるんです。でも私はなぜみんなが泣いてるのか、理由が全くわかりませんでした。泣いている友達の横で「あともう少しだったのに...」とつぶやいていました。でも、誰かが自分のために泣いてくれる経験は人生で初めてで、その涙に衝撃を受けました。

みんな動揺していて、飛び降り未遂のことは先生や親に伝わることなく帰路につきました。みんなはなんで泣いたんだろう。あれは何だったんだろうと考えたとき、自分はおかしいんだと気がつきました。「自分の感覚が狂ってしまうこの状況から早く逃げないといけない」。そう直感的に思ったんです。

地元や家には兄との記憶が多すぎるし、兄もいつ帰ってくるかわかりません。それなら浜松を出て、自立してひとりで生きていかなくてはと考えました。そのためには、一人でも戦える武器が必要です。その時、あのレコードジャケットの衝撃がよぎったんです。幼少期から影響を受けていたデザインを武器にしようと、デザイナーになることを本気で決意しました。

高校進学後は両親に頼み込んで、美術大学受験のための塾に行かせてもらい、ひたすら絵を描きました。両親には、実家から通える美術大学を受験するように言われていました。しかし、実家から通える距離に美大はありません。兄や姉は東京や名古屋へ進学して一人暮らししているので、「どうして自分だけダメなんだ! 」と理不尽に感じて両親と衝突して言い争うことも珍しくありませんでした。

両親は、初めに受験して合格していた名古屋の美術大学の入学金を支払ってくれていました。でも、もっと挑戦したかったのと、どうしても実家を出たかったので、目標にしていた大阪の芸術大学を記念受験させて欲しいと頼み込み、合格を勝ち取りました。そのとき初めて、意地を張るのを止め「名古屋ではなく、大阪に行かせてください」と父に頭を下げました。でもすぐに、「だめだ」と強く否定されました。

大阪の大学の入学金振込締め切り日の朝。母が泣きながら「大阪に行っていいって」と告げてくれました。父が入学金を払ってくれるというのです。わがままを聞いてくれた両親に感謝するばかりでした。



自分と向き合わせ、居場所をくれた大阪


晴れて大阪の芸術大学に進学します。学費が高いことは自覚していたので、両親に申し訳ないと必死に勉強に励み真面目に課題と向き合いました。無駄になってしまった名古屋の美術大学の入学金を返そうと、アルバイトにも熱を入れます。ジャズサークルに入って、音楽活動も夢中になったりと、全てに全力で取り組んでいました。

大阪は、土地柄なのか、自分の本音を堂々と主張しながら人間関係を築く人が多かったように思います。腹を割って話すじゃないですけど、自分が思っていることを相手にまっすぐ伝える文化がありました。

あるとき、音楽仲間から「あんた、失礼やで!」とはっきり言われたんです。頭をハンマーで叩かれるほどの衝撃でした。「やっぱり私、性格悪いんだ」と恥ずかしくなりました。実家にいた頃は自分をさらけ出せる環境はなく、抑圧されて生きることが沁みついてしまっていたので、虚勢を張り、ときに相手に失礼な態度をとってしまっていたのだと思います。大阪の友人にはっきり言われて初めて、他人に失礼な態度をとっていたんだと自覚し、人生根こそぎ引っこ抜かれた感じがしましたね。「変わらなきゃ」と思いました。

同時に、デザインも同じだと気づきました。自分の人生と向き合って弱さや見たくない部分も素直に受け入れ、昇華させなければ、人の心を動かすデザインはできないんだ、と。デザインを通じて人にメッセージを伝えるからには、描きたいシーンを妄想し尽くして、誠実に制作しないと、誰のことも幸せにはできないと気づきました。正直な気持ちで生きる必要性を痛感したんです。

そうして少しずつ内面が変化し、周りへ自己開示ができるようになり、音楽仲間のもとでやっと居場所を見つけることができました。

東京での戦い


大学卒業後は、居場所を見つけた大阪で働きたいと就職を決意します。インテリアの制作物などを得意とする印刷会社に所属しました。修行のつもりで就職したので、会社の目の前に家を借りて、覚悟を決めて必死に働きましたね。上司は厳しい指導で有名な人で、理不尽に怒られることもしょっちゅうでした。

でも一方で、上司のデザインは格好良かったんです。過去に作った作品を見せてもらっても素直にいいなと思えました。年代を重ねても魅力的に見えるこんな作品を作りたいと憧れ、必死に食らいついて学びました。4年半ほど経験を積むと、ひとりで案件を回せるようになり、アートディレクションも務めるようになりました。ただ、顔の見えないクライアントやエンドユーザーのために制作し続ける働き方に、自分の手掛けたデザインが本当に世の中のためになっているのか、意味のあるものなのか、ちゃんと知りたいと考え始めたんです。

ちょうどその頃、お付き合いしていた男性と結婚することになりました。彼が働いているのは東京だったので、結婚すれば大阪を離れることになります。自分の人生を変えてくれた学生時代からの音楽仲間のもとを去り、またゼロから自分の力で切り拓いていけるのか、悩み、葛藤しました。でも、2人でチャレンジしてみようと、結婚を機に東京行きを決意しました。

東京での転職先は、クライアントや生活者の顔を見ながらデザインしたいと思い探していました。名のある企業よりもまだデザイナーがひとりも在籍していないインテリア雑貨メーカーのほうが面白そうだと考え、最初のインハウスのグラフィックデザイナーとして入社します。数年後には6人ほどのチームとなり、毎日出勤が楽しみなほど仕事に夢中になりました。

しかしその一方で、経験のある自分がいつまでも居続けては、後輩たちの成長機会を奪っているのではないか、いつまで経っても自由にやりたい仕事をできないのではないかと思い始めます。同時に夫との金銭的な価値観の食い違いや、仕事観への食い違いが積み重なり、離婚することになってしまったんです。

ものすごく落ち込みました。私は人生最高だった大阪と全部お別れして結婚を選んで、奥さんをするんだ、と覚悟を決めて東京に来た。なのに、思い描いていた「奥さん」をできなかったんですよね。相談できる友達も東京には少なく、何のために東京にいるのかわからなくなりました。、夜な夜なひとりで泣いていると、大阪の友達は「帰っておいで」と言ってくれます。でも、自立してやっていこうと覚悟を決めて出てきたのに、別れたからといって大阪に甘えるのはダサいと思ったんです。大阪で人生の厳しさや楽しさを教えてもらったからこそ、思うようにいかなくなったからといって帰るのは違うと思いました。とはいえ、東京に居たくない気持ちは膨らむ一方だったので、交通の便も良い川崎へ住居を移し、ひとりで生活を再スタートさせることに決めました。


必要としている一人へのものづくり


さらに心機一転するために、転職も考えました。面白い会社はどこだろうと考えていたとき、思いついた店がありました。「想いをバトンする」をコンセプトに、個人の思い出の品へストーリーを添えて販売する、セレクトリサイクルショップです。コンセプトとお店の空間に感銘を受けたことを思い出し、その店を運営している会社に入社を決めました。

会社の理念、それから上司の仕事に対する考え方に、とても共感しました。上司に、「丁寧なものを作りたいなら、丁寧に自分と向き合うこと」と教えられハッとしたんです。クリエイティブの考え方を根本から変えてくれました。

例えば、運営しているブランドの一つ、『スープストックトーキョー』の店舗の作り方にも彼の姿勢が現れています。通常、ファストフードの飲食店は席数を増やすために壁に向かってカウンターをつくりがちです。でも、彼はそうしない。スープストックトーキョーは、「日々忙しく働く女性にホッと一息ついてほしい」というコンセプトを掲げています。であれば、いろんな人生を歩んで日々頑張っている女性たちに、壁に向かって食事させるのはよくない。彼はそんな発想から、道ゆく人が見えるよう、壁をガラス張りにし、そこにカウンターを作るんです。女性じゃないのに、女性のことをこんなに考えられる人がいるんだと感動しました。

さらに彼は、器ひとつにもこだわりを持ちます。100円で買った器でもいいのかもしれないけれど、作家が想いを込めて作った器を使って食べたほうが、料理も美味しそうに見えるし、食事に向き合う自分も誠実な気持ちになれる。だから人生が変わるんだと教えてくれたんです。

会社で大事にされていたのは、n=1という考え方です。nはアンケートなどの母数で、通常はn=10000とか、もっと大衆に向けたリサーチを行うのが慣例です。でも、会社ではn=1、つまりひとりでも必要としている人がいれば、それは必要なものだと見なされます。たった一人でも、それを選択した人がいるのなら、それはすくい上げるべきアイデアだしヒントなのだと、デザインに対する姿勢を教えてもらいました。



旅するデザイナー


環境の変化と同時に、ひとり旅にも目覚めました。国内にある秘境、離島、廃墟や、人がなかなか近づかない危険な場所など、地元の人も知らないようなあらゆるところへ行きました。そこで出会う人との交流が楽しいんですよね。

離島や秘境と呼ばれる地に住む人々は、私にとっての非日常の中で、日常を営んでいます。無数にある生き方の選択肢の中から、どうしてこの場所に住むようになったのか。その背景や想い、タイミングや感情はどんなものだったのか。一人ひとりのストーリーを聞くのが好きなんです。それに、些細な世間話でも、ハッとさせられることがあるんですよね。意外なところに、クリエイティブな発見があったりもする。私にとっての「n=1」をたくさん増やすことが、デザインの引き出しを増やすことにもつながりました。

そうして日本中あらゆる場所へ、いろいろな人の選択を知る旅を続けていくと、旅先での繋がりが直接仕事に繋がるようになりました。

あるとき、ご縁あって北海道浦幌町から、名産のハマナスという花を使用したコスメのパッケージデザインをしてほしいと依頼をいただきました。「浦幌町の未来を考える」をテーマに、地元の子ども達のアイデアで商品化が決まったオーガニックコスメで、自分がデザインをしていいのか葛藤がありました。主役である子どもたちや地元の人々の意志が、おざなりになるのは避けたかったのです。

子ども達にとって心に残る商品にしたいと考えた結果、子ども達にハマナスの花を写生してもらい、それをパッケージデザインにしようと考えました。自分の描いた絵が商品化されて町の名産品になったら、その子はそのことを一生誇りに思えるし、自信にもつながるなって思ったんですよ。そしたら、私がデザインをする意味があるんじゃないかって。

商品には、5人の子どもたちの絵を採用しました。商品がローンチされる日には、子どもたちの親戚が総出で、涙と拍手で喜んでくれたそうです。当日は現場にいけませんでしたが、イメージ通りになってホッとしました。デザイナーが作ったパッケージではなく、その子たちが作ったパッケージで、町のためのコスメだって言われ続けることに意味があると思ったからです。私の仕事は、何かを作りたい人の「想いや理想のイメージ」を引き出し、商品ができあがった後までしっかり妄想し、形にすること。デザイナーとしての自分のあり方が定まった経験でした。


生き抜くためではなく、世の中の役に立つために


現在はデザイナーとして株式会社スマイルズで働きながら、フリーランスでも仕事をしています。今までの経験を肥やしに、デザインと別のものを掛け合わせた新しい挑戦も考えています。例えば「旅×デザイン」はもちろん、地域、ビール…。それから「告別式×デザイン」もやっていきたいと考えています。

告別式は、兄が亡くなったことがきっかけとなりました。ずっと会わずにいた兄が、亡くなったと急に連絡があったんです。心筋梗塞だったと聞きました。家族とともに遺品整理をする中で、人の死というものを考えさせられました。何年も何年もかけて築いてきたものが一瞬で途絶えてしまう。生と死はとても不思議なものだと思いました。彼の生とはなんだったのだろう、と。ちょうど遺品整理士の資格を取得し考えを深めていたとき、ご縁があり、知人のお父様の告別式をプロデュースさせていただく機会があったんです。

「死」となると忌み嫌われてしまい、没個性な重たい雰囲気になりがちですが、私は告別式はもっと、故人の個性を出しても良いんじゃないかと思いました。知人のお父様の告別式では、彼が好きだった釣りからヒントを得て、たくさんのバケツを天井から吊るし、中に思い出の品を入れるというバケツのインスタレーションを作ったり、彼が生前大事にしていた言葉の贈り物などを取り入れながら、告別式を作りました。これからは、そんな機会も増やしていけたらと思っています。

別れだけではなく、出会いもありました。自分の過去を「大変だったね」ではなく「面白い人生だね」と言ってくれる男性と巡り会い結婚し、出産も経験しました。妻・母としての体験を活かして、妊婦さんやお母さんが安心できるカフェや保育園のような空間づくりも手掛けたいとアイデアが湧いています。

今までの私にとって、デザインは生き残るための武器でした。でも今は、熱い想いを持った人々と一緒に新しいものを生み出し、世の中の役に立つための方法や手段の一つです。今は、小さな頃の環境も、東京に来てからの苦労も受け入れられ、両親と新しい家族に感謝しています。これからもデザインと色々なものを掛け合わせながら、デザイナーになるきっかけになったあのレコードジャケットのように、心に残るものを自分らしく生み出していきたいです。

2020.04.09

インタビュー | 粟村 千愛ライター | 貝津 美里
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