人を、地域をつなぐ明かりを世界中に灯す。 竹あかり演出家として、日本文化を次代へ。

竹に穴をあけ、ろうそくやライトであかりを灯す「竹あかり」の演出家として活動する池田さん。竹という資源を循環させ、人のつながりを生み出す竹あかりは日本文化だと話します。池田さんが活動に取り組む背景と、その先に目指す世界とは。お話を伺いました。

池田 親生

いけだ ちかお|竹あかり演出家
株式会社ちかけんプロダクツ、合同会社ちかけん取締役。崇城大学を卒業後、内丸惠一氏の提唱する「まつり型まちづくり」を基盤に竹あかりの演出制作・プロデュース会社を設立。熊本地震後は、一般社団法人チーム熊本を設立し、復興支援活動を行う。

人はいろんな面を持っている


福岡県筑後市で生まれました。母はスナックのママとして働いていて、物心がついた頃から父は家にいませんでした。母には「お父さんはアメリカに行っている」と教えられていましたね。夜は母が仕事に行くので、祖父母の家に預けられて過ごしました。夜になると、母がいなくなってしまうかもしれない、父が戻ってこないかもしれないという考えが浮かんで、眠る前に手を合わせていました。うちはキリスト教でも仏教でもなかったけれど、自然とそうしていたんですよね。何かが無くなるのが怖くて、ずっと怯えていました。

外に出ると明るいキャラクターではありましたが、なんとなく自分が周囲の子と違う感じがしていました。普通の家と違う環境だからか、周囲にも避けられていましたね。

ただ、家が近かった先輩とは仲良しでした。先輩のお父さんは新聞関係の仕事をしていたので、小学2年生のとき、先輩と一緒に新聞配達のバイトをやらせてほしいと頼みに行きました。子どもはダメと断られてしまいましたが、二人ともどうしても自分でお金を稼いでみたくて。何かないかと探していたら、サプリを販売するアルバイトを見つけたんです。話を聞きに行ってみたら、自分でお客さんを連れてくるならいいよと言われ、アルバイトをはじめました。

家に届く商品を持って、近所の家に「これ飲んでください、もしよかったら毎日一本頼んでもらえたら嬉しいです」なんて言って回るんです。そしたら20件くらい注文が来て。毎回何本売れたかをまとめて、消費税を計算して集金に行って、その売上の一部を発注業者に回す、というのを全部自分でやっていました。月1万円くらいは収入を得られるようになり、なんとかしてお金は稼げるんだと知りましたね。

3年生になった時、初めて父ちゃんと会いました。父は土建業の社長をしており、母の他にも愛人がいたんです。父は何も気にせず愛人にも会わせてくるのですが、それをどういう風に考えたらいいのかわからなくて。考えれば考えるほど、理解できませんでした。父も母も、他の家のいわゆる父親、母親とは違いました。そのストレスからか、学校では友達をいじめることもありましたね。

5年生の時、父と父の友達が飲んでる場に連れていかれました。父がトイレに立った時、父の友達が「お前の父ちゃんはいろんな人をいじめているから、後を継いだら仕返しされて大変だ」みたいなことを言ってくるんです。なんだこいつ、俺は関係ないだろうと思いましたが、その人は続けました。

「でも、それは俺たち仲間を守ろうとしたからなんだ。だからお前に何かあった時は俺に言え。俺は父ちゃんに恩があるから、お前を絶対助けたいと思う」と。「あ」と思いました。その時、父が男としてかっこよく見えたんです。

父ちゃんは、父親としてはダメかもしれないけれど、父親の他にも社長や男としての人格がある。そんな父の、男としての部分はかっこいいのかもしれない。人格の中を因数分解してみたら、イケてる部分を見つけられるかもしれない。そう思えてからは、人を多面的にみて、良いところを探せるようになりました。

コムデギャルソンとの出会い


5年生のある日、一緒にバイトをしていた近所の先輩が、遊んでいるときに一人だけリュックサックを背負ってきたんです。「なんで荷物なんかないのにリュックサックを背負ってきたんだ」と質問すると、先輩は「親生よ、人と同じじゃ面白くなかろうよ」と一言。マジか、と衝撃を受けました。かっこよかったんです。

その先輩に勧められて、ファッション雑誌を読むようになって、ファッションにハマりました。中学生になると一緒に服を買いに行くようになって、ブランドにも詳しくなり、中でもコムデギャルソンが好きになりました。印象的な太いパンツとでかいシャツ。どう着たらいいかわからなかったけれど、古着を手に入れて着てみた時、なんとも言えない高揚感がありました。人と同じじゃ面白くなかろう、という先輩の言葉とリンクしたのかもしれません。ギャルソンの服は自分しか着ていなかったし、何かを手に入れた感じがしました。

2年生の終わり頃、新品を買おうと初めてギャルソンの店舗へ。しかし、入ってみると店員さんに「あなたに売る服はない」と言われたんです。え、マジで、と理解ができなかったですね。売るに値しない人には売らない、そのくらいロックなブランドだったんです。

衝撃的で、でもどうしてもギャルソンの服が欲しくて、3年生の最初にもう一度チャレンジ。ようやく新品を買わせてもらって、そこからは春夏秋冬、各コレクションが始まったらお店に通い詰めていました。店員さんに、今回のコレクションはどんな感じなのか話を聞きながら、ファッションとは、ブランドとは、みたいなことをずっと学んでいましたね。ギャルソンは自分の学校でした。

ただ、好きなのでブランドについて調べてみると、作っているのは日本人のおばちゃんだったんです。てっきりかっこいい外国人のデザイナーが作っていると思っていたので、おばちゃんが作ってる服を好きになってしまった…とすごいショック。でも、調べていくと、創始者の川久保玲さんが持っている世界観のすごさ、世界的に尊敬を集めているデザイナーであることを知り、感動しました。世界の有名なデザイナーたちが、川久保玲の名前を出して「影響を受けた」と言っているわけです。日本人がこれをやっているんだ、日本の誇りだと思いました。震えましたね、なんてかっこいいんだ!と。

ある日、テレビで川久保さんがインタビューされている番組を見ました。「なんでメイドインジャパンにこだわるんですか?」と聞かれて、彼女はこう答えたんです。「世界のいろいろなものを使えばクリエイティブなものを作れるかもしれない。でもそれでは日本のものを使う機会も、日本の文化もなくなっていく。それは寂しいことだと思います。私は日本の素晴らしさを、世界に伝えたい」。痺れました。それと同時に、自分がギャルソンの演出をしているところを想像したんです。パリコレの演出をして、その手法についてインタビューを受けている…。そんな絵が目の前に浮かんで、自分もこの人のような仕事をしたいと思うようになりました。

働くってこういうこと


父に仕事を継いで欲しいと言われていたので、高校は工業高校へ。しかし、ギャルソンへの憧れは変わらず、デザインにも興味がありました。土木とデザインを両立できる方法はないかと模索し、建築ならいいのではないか、と思いつきました。就職する人がほとんどの高校でしたが、建築を学ぼうと決め、大学進学を目指して勉強。地元だけじゃない世界を知りたいと思い、熊本の大学に進学しました。

大学は、毎日合コンと飲み会の日々でしたね。とにかく楽しくて。毎日飲みすぎて、ある飲食店からは合コンを開催するとお金をもらえるように。実家には帰らず彼女の家に住んで、遊んでばかりの毎日を過ごしました。

4年生になって、まちづくりのゼミに所属するように。先生は、竹害をなんとかする仕組みとして「竹あかり」の研究をしていました。地方では、以前は手入れされていた竹林が伸び放題になっていて、それが住環境や植生に悪影響を与えるようになっていました。それを解決するために、竹林を伐採し、デザインして穴を開け、中にあかりを灯して飾る。地域の人と一緒にそんな「竹あかり」をたくさん作って、それらを一斉に灯す祭りを開く。そうすると竹害の解消にもなるし、地域の人が目的を持って一緒に作業したり、普段出会わない人と話したりするきっかけを提供できるのです。使い終わった竹は肥料にするなどして土に返し、資源として循環させる仕組みでした。

その研究を一緒にやる中で、三城賢士に会いました。彼も飲み会と女の子と遊ぶのが好きな男で、すぐに意気投合。竹あかりの祭りを開催するときに女の子を呼んで「これ俺が作ったんだ」と言うとすごくうまくいくので、お互いに女子を呼び合っていましたね。

だんだん、二人で「竹あかりよくない?」と気持ちが盛り上がりました。モテるってことは、相手に喜んでもらえているってこと、つまり自分の能力を発揮できているってことです。

それに、イベントに来たおばあちゃんが、あかりに向かって手を合わせているのを見たんですよね。竹あかりが灯されたそこは、普段は何もない場所です。そこに手を合わせてくれているということは、場所ではなくみんなで作ったこのあかりに、神様を感じてくれたんだと思ったんです。みんなで神様は作れるんだな、それができるのが竹あかりなんだな。そう思い、続けていくことに意味を感じました。

竹あかりをやると、自分たちのしたことでみんなが喜んでくれる。何かがはまったような、「働くってこういうことなんじゃないか」という感覚がありました。

日本人として世界と対峙したい


卒業も近くなったある日、三城くんが一冊の本を持ってきました。著者は奥さんと世界一周した記録を本にしていて、「大人が本気で遊べばそれが仕事になる」「夢は逃げない。逃げるのはいつも自分だ」みたいな言葉が並んでいて。やべえなと思いました。読み進めると著者は大学4年生の時に起業したと書いてあって、「三城くん、俺ら会社やろう」と一気に盛り上がりましたね。俺らならできるだろ。何をやる?竹あかりじゃね?って。俺たち、竹あかりしかしてないですからね。

三城くんは大学院に進んだので、俺は1年教授を手伝い、残りの一年で世界をみてみようかと、船で世界一周の旅へ出かけることにしました。そこには、戦争反対、原発反対、などの考え方が強い人が乗っていました。そういう考え方もあるんだなと思いつつ、別の考え方も知りたくなったんですよね。そこで、帰国後は古くからの日本の思想を研究する塾を見つけて、通い始めました。

塾では、日本人がどうやってこの国を作ってきたか、守ってきたかを学びました。その中で、天皇は公をもつ存在であり、「誰かのために」という無私の心を象徴していると知ったんです。「誰かのために」というその心が、美しいと感じました。

中3で川久保さんの話を聞いたとき、彼女の中に何か1本立っている軸を感じました。その軸、日本人としての軸を持たなければ、地球人としてしっかり立てないんじゃないか。そんな感覚がありました。例えばそれは、誰かのためにという「公の心」かもしれない。自分なりの日本人としての軸を持って、世界と対峙することが大事だと学びました。

貧しく楽しいゼロの時代


三城くんの卒業とともに、二人で竹あかりを事業とした会社を起業しました。登記を終えた時は満足感がありましたが、もちろん会社を作ったからと言って仕事があるわけではありません。「ここからどうするんだっけ?」と顔を見合わせてしまいました。

可愛がってくれていた熊本の社長に出資してもらうなど、お金のないところからのスタート。少しずつ仕事は入るようになりましたが、竹あかりをやるとなると二人とも熱が入ってしまって、事業をやった後に利益は残らない状態。

そんな感じだったので、三城くんの祖母の家の近くに家賃1万円で家を借りて、僕らのやっていることに賛同してくれた人たちと5人で暮らしながら、竹灯りを作る日々がスタートしました。休みや給料という概念はありませんでしたね。でも、楽しかったんです。収入はないけれど、生活できるし仕事はあるし、なぜか絶対にうまく行くという自信があったんです。小さい頃から、小さな成功体験を積んできていたからかもしれません。しっかりやっていればうまくいく、俺らは絶対ビックになる。そう信じていました。貧しいけど楽しい共同生活は、8年ほど続きました。

そのうち、社員として働きたいという人がジョインしてくれて、給与や休みという概念ができてきました。給与分の利益をとって事業を運営するようになり、経営は健全に。会社として機能するようになっていきました。

個と個のつながりで生まれた「チーム熊本」


竹あかりの仕組み自体は、全国で使ってもらえるようにしました。全国各地に出かけて行って竹あかりのやり方を教えて、自由に開催してもらえるようにしたんです。僕らが稼げなくなるという声もありましたが、竹あかりを日本の文化として伝えることの方が大事だと考えました。活動は全国に広がり、イベントやコンサートなど、竹あかりの演出による大きな仕事が舞い込むようになったんです。

そんな中、熊本地震が発生しました。ちょうど東京にいるところで、地元に何かしようとすぐに熊本へ。戻ったとき本震が発生し、自分も被災することになりました。ただ僕は東日本大震災のボランティアに行った経験もあり、今後何が起きるか、ある程度予想できたんです。

まず被害の大きさから、県内で物資の受け入れが困難になると思いました。そこで、支援側と被災側の電話窓口を作って、いろいろなところからの連絡を受けられるように。さらに、地元のある福岡に物資の受け入れ拠点を作り、そこから熊本県内へ配送してもらうようにしました。

ボランティアも受け付けてそれを割り振っているうちに、活動が大きくなり、被災地支援チームができました。「チーム熊本」です。混乱の中でチームはうまく機能し、物資の受け入れをスムーズにできました。

助けてくれたのは、竹あかりの祭りで繋がった人々でした。祭りは、肩書きのいらないフラットな場。そこで個人として出会った人々が、信用してくれていろんなものをギブしてくれたんです。僕はそれをさらに困っている人へギブすることで、良い循環が生まれました。これは、竹あかりが、祭りの場があったからこそできたこと。会社や団体の肩書きを抜きにした、個と個のつながりの重要性を実感しました。

竹あかりを、100年後に残る日本文化に


今は、竹あかり演出家として全国を周り、様々な会場で竹あかりを灯しています。アーティストのライブや、ファッションブランドのショウウィンドウなど、手がける規模も内容も毎回変化します。お客さんが喜んでいるのも、クライアントが喜んでいるのも嬉しいし、単純に作るのが楽しいですね。東京オリンピック・パラリンピックに合わせて、全国で竹あかりを灯すプロジェクトを画策しています。

竹あかりは、日本中の余って荒れている竹やぶを、伐採して地域の人で加工し、作品にすることで、竹害を解消し、地域の人のつながりを作ります。さらに、そこにあかりを灯してお祭りにすることで、地域の内外の多くの人が、フラットにつながる場を作ることができます。使った竹は堆肥などにして土に返すことで、資源を循環させることもできる。祭りも循環も、昔から日本が培ってきた文化。その土地のつながりを作る、日本文化だと感じています。

竹あかりを続けることで、日本文化を世界に向けて発信できる。そしてそこでできたつながりが、これから先の日本を作っていくと信じています。頭の中はいつも、作りたいものでいっぱいです。大勢の人と一緒に竹あかりを広め、100年後に残る日本文化にしていきたいです。

2020.04.01

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?