DJと僧侶、2つの顔を掛け合わせて創る 「自らの源と向き合う」世界。

「自らの源と向き合う」ことをテーマにした「寺社フェス向源」を主催する常行寺の副住職、友光さん。大学時代は渋谷・六本木を中心にDJとして活動し、僧侶でありながら、大学時代に始めたDJ活動を続けるほか、イベントなど幅広いコンテンツをプロデュースしています。異色の経歴を持つ友光さんが目指す世界とは。お話を伺いました。

友光 雅臣

ともみつ まさおみ|常行寺副住職・天台宗僧侶
1983年東京都江東区生まれ。高校時代からの彼女の実家であるお寺に入り出家。比叡山延暦寺での修行を経て天台宗僧侶となる。学生時代から続けているDJと仏教を掛け合わせ、仏教、神道、キリスト教、日本文化、現代アート、科学者との対話などあらゆる体験をミックスして「自らの源と向き合う」ことテーマにした「寺社フェス向源」を主催。

音楽、DJと出会った学生時代


東京都江東区で生まれました。嫌いだと思ったことはとことんやらない子どもでした。保育園に預けられても、気に食わないことがあればひとりで自宅に帰っていましたし、小学校の頃通っていた塾も、隙あらばサボっていました。でも、そんな自分を見ても両親はガミガミ怒ることはありませんでした。

小学校5年生のとき、姉の影響で音楽が好きになりました。姉が観ている音楽番組には、インディーズのアーティストが多く出演していて、特にハマったグループの曲をラジオで聴いたり、模試を受けに行くときにもらうお昼代をコツコツ貯め、CDを買ったりしていましたね。惹かれた音楽は、むさぼるように聴いていました。

小学校を卒業すると、両親の勧めもあり、中高一貫校に進学します。テニス部に入部したものの、人に指示されるのが嫌で1年半で早々に退部。すると先生から「ブラスバンド部を創部するから、副部長をやらないか」と言われ、未経験からパーカッションを始めました。好きな音楽でしたが、いざやってみると非常に地道な世界だと痛感。一つひとつの楽器の音色や呼吸を合わせてミスなく合奏するために、何度も練習を重ねる大変さを身に染みて感じました。

初めての演奏会も無事終え、部が軌道に乗ると、「次はパソコン部を創部するから副部長をやってほしい」と誘われ入部します。パソコンを組み立てたり、プログラミング言語を勉強してホームページを制作したりしました。そうして一段落したと思ったら、今度は文化祭実行委員に呼ばれ、広報を担当することに。最終的には生徒会にも呼ばれて、生徒会副会長を務めました。不思議と「副部長」や「副会長」という権限あるポジションを任されることが多かったですね。自由にやりたい性格なため、裁量ある役割は合っていました。置かれた環境ではやり切ろうと気持ちがあったからか、どの部活も活動自体は楽しかったです。

ただ、何がやりたいという明確な意志もなかったので、大学は自分の成績で行けるところ、入ってから何を学ぶか選べるところにしました。授業を受けてみるとメディアやアートの分野が面白くて、その分野の教授や友達と仲良くなりました。その中のある教授が、DJをやってたんです。教授は、教授室にある機材を自由に使わせてくれました。最初は「DJなんてできない」と思いましたが、触ってみるとできなくなかったんですよね。上達するにつれ、どんどん楽しくなって、いろいろなパーティへ出演するようになりました。ただ、プライドが高く「俺が好きな曲は良い曲だけど、そうじゃない曲は良い曲じゃない」と、趣向の合わない友達を見下すような態度をとっていました。

音楽友達を作ろうともしませんでしたが、次第に大きなパーティーにも呼ばれるようになり、プロを目指して活動するようになりました。でも、DJだけで食べていける人はほんの一握りです。自分の実力が伴っていない自覚はありました。それでも音楽は続けたかったので、大学卒業後は音楽を続けたいなと漠然と考えながらフラフラしていましたね。

結婚と同時に、僧侶の道へ


僕には高校時代からお付き合いしてる彼女がいました。彼女の家はお寺で、お盆やお彼岸には僕も手伝いに行っていました。就職活動がはじまったころ、彼女の親御さんから「お寺に入る?」とお誘をいいただいたんです。寺に入るということは「結婚」と同じ意味です。彼女とよく話し合い、その結果、お寺に入ることを決めました。寺に入るか彼女と別れるかの選択でしたし、お寺に入っても音楽活動にあてる時間はつくれると聞いて。DJを続けながらできるお寺の仕事は魅力的でした。ただ、まだやったこともないお寺の仕事を一生続ける約束はできないと彼女には伝えたんです。無理だったらやめるよ、と。「世界を救いたい」とか、そんな想いは全くなく、目の前にある進路を選択した感覚で僧侶になることを決めました。

そこから仏教を学べる大学に入り直し、授業を受けながら長期休みを利用して天台宗の総本山・比叡山延暦寺で2カ月の修行を積みます。基本的には掃除と読経の毎日。気を抜けない厳しい環境でした。少し埃が落ちているだけで、厳しい指導がありました。修行を共にする人の中には、手際の悪い人や、雑なやり方をする人もいます。怒られないために自分がカバーしようと頑張ることもありましたが、所詮はひとりの力。言われたことが満足にできず、怒られる日々の繰り返しでした。

どうしようかと考えた結果、自分ひとりで頑張るのではなく、班のみんなで協力して掃除を仕上げる作戦に切り替えました。役割分担を決めたり、提案をしながら互いを励まし合って改善を重ねていくことにしたんです。すると、自分自身に変化が起きていることに気づきました。自然と周囲に目が向くようになり「あの人は、掃き掃除は苦手でも拭き掃除は得意なんだな」「あの人、読経上手いな」、「この人はよくお菓子をくれる」など、どんなに些細な部分でも、その人なりの良いところが見えるようになったんです。

部活やDJ活動を含め、個人プレーが多かった学生時代。修行を通し、生まれて初めて人と一緒に成し遂げるやりがいや、みんなで力を合わせることで広がる可能性を実感しました。チームの連携がとれて1日を無事に終えることができると、それまでに味わったことのない達成感がありました。自分だけが成功するより、みんなで喜びを分かち合う方がよっぽど楽しいと気づきました。

若い人たちへ、仏教を広めたい気持ちが芽生える


厳しかった修行の日々を終え、いよいよお寺に入り僧侶になります。僧侶になる決断をした時は「お葬式屋さんになるんだな」くらいに思っていました。でもお通夜に入ってすぐに、お世話になっていたおじいちゃんの葬儀に立ち会うことになったんです。一緒に旅行するなど仲良くしてもらっていた檀家さんたちが亡くなることもありました。身近な人の死に立ち会い続ける日々に、精神的に追い込まれていきました。働き盛りの父が亡くなり残された子どもや、奥さんが一人で喪主を務める姿などを見ると、「人の死」というものがどれほど不条理なのものかを思い知り、打ちのめされました。お寺に入る前に抱いていたほのぼのとした住職のイメージが崩れました。これまでの人生で感じていたものとは別の種類の不条理でした。
「きつい仕事だ」と実感しました。だからこそ、仏教の必要性を実感したんです。生きていれば、あらゆる悩みが付きまといます。進学、就職、結婚、転職、病気、介護など、そしていつ死ぬかわからない中で、さまざまな悩みを抱えながら生きていかなければならない。

仏教には、苦しいときにどうすれば少し肩の力を抜けるかが説かれており、私自身も仏教の説法によってバランスを取ったり受け入れたりすることができました。そこから、仏教の教えを伝えていこうと考えるようになったんです。大学を卒業して間もない自分が、80歳のご年配に説法なんておこがましいですが、20代~30代の若い人になら伝えられるんじゃないかと思いました。会社の上司や同僚との人間関係や、結婚、育児に悩んでいる同世代の力になれればと。普通に生きていて落ち込む日もあれば、楽しいと思える日もある。僧侶として、そんな人々の身近な存在として寄り添える場を作りたいと考えるようになりました。

震災がきっかけで立ち上げた「寺社フェス」


そんなとき、東日本大震災が起きました。被災地で大変な状況が続いているある日、渋谷でサラリーマンが電話している声がたまたま聞こえてきました。どうやら部下は被災地にボランティアに行きたいと話しているようで、サラリーマンは部下に向かって「ボランティアに行くなら会社をやめて行け」と言っていました。行かせてやれよと思う一方、上司の都合も想像できました。ふと目をあげると、スクランブル交差点の巨大モニターには「頑張ろう日本」のスローガン。それを見たときに、なんだか憤りを感じたんですよね。

震災後の日本では、「人のために何かをやらなきゃいけない」という空気が世の中に溢れ、特に若者がそのプレッシャーに流されているように感じました。自分より相手の幸せを考えなきゃいけない風潮に少し無理を感じました。被災地に行くのでも、人の役に立つのでも、それは自分がやりたいからやるものでないと苦しくなる気がしました。みんな自分を優先していいと思ったんですよ。

仏教は「あなたは本当に何がしたいの? 」と考えさせてくれるものです。後回しにしている自分の本心を、真ん中に持って生きてほしい。そんな思いが膨らみ、兼ねてから考えていたイベントのアイディアと掛け合わせ、寺社フェス「向源(こうげん)」を開催することにしました。宗派や宗教を超えて、さまざまな日本の伝統文化に触れることで、自らの源と向き合ってほしい。そんなテーマを設定して企画しました。

当日はお寺にDJを呼び、寺の中で聴くさまざまな音楽コンテンツを用意。ミュージシャンやアーティストなど音楽仲間が70人ほど来場してくれました。最後はお経で締めくくると、来場者は「お経が一番良かった」と言ってくれたんです。その後はお客さんから「座禅をやりたい」「精進料理を食べたい」とリクエストをいただくようになり、じゃあ来年もやるか、と活動が段々と広がっていきました。

表現に、素直にいいね!と言えばいい


イベントを企画する中で、コンセプトのあるフェスが求められていると感じるようになりました。いろいろなフェスを調べる中で、アメリカの「バーニングマン」というフェスを知り、実際に行ってみることに。運営側がコンテンツを用意するのではなく、参加者それぞれが表現者となり、コンテンツをつくりあげていくフェスです。私は僧侶として参加し、火を焚いて祈禱(きとう)する護摩(ごま)をおつとめしようと準備をして乗り込みました。

ところが会場に着くと、キャンピングカーから一歩も外に出られませんでした。他の参加者があまりにオープンマインドで、自然体のままパフォーマンスをする姿に圧倒されてしまったんですよね。自分には彼らのように提供できる価値はないと感じて、殻に閉じこもりました。周りから「外に行こうよ! 」と誘われても断り、5日の日程のうち4日間は引きこもっていました。

迎えた最後の1日。なんとかパフォーマンスをやり遂げると、みんなからハグをされ「良かったよ! 」とうれしい感想をもらうことができました。それで、初めからそこにいるだけでよかったんだ、と気が付いたんです。何か価値を出さないといけない、自分はそんなにさらけ出せる人間じゃないと思い込んでいたけれど、そんなもの必要なかった。表現している人に対して「いいね!」と素直に笑顔になったり、心に響いた感情を表現するだけで良かったんです。

本心から「やりたい」と思えるイベントを


帰ってきてからは、バーニングマンでの体験と、自分が開催するイベントの違いを考え、目指したい方向性を見つめ直しました。

向源は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け200万人規模のイベントにしようと、夢を掲げて運営していっていました。70人から始めたイベントの来場者数を、150人、300人、2千人、6千人と増やし、そこからさらに動員数増を目指していたんです。

しかし、規模が大きくなるにつれ資金繰りは難しくなります。次第に協賛企業やメディアから気に入られやすい企画ばかりを考案するようになり、運営陣が追うのは数字ばかりになりました。1万5千人まで到達した翌年のイベントで、僕らは小さくない額の赤字を出してしまったんです。なによりいつの間にか主催する自分自身が全く面白さを感じられなくなっていました。

はたからみればイベントは成功で、「来年は5万人ですね」と声をかけてくれる人もいました。でも、全く楽しくない。本当は自分がやりたいかどうかとか、お客さんが向き合ってくれるかとか、企画内容とか運営する上での哲学のところを一番に考えなきゃいけないのに、いつのまにか数字が一番になってしまっていました。数字に踊らされていると気づき、「やりたいと思うこと以外はやらない」と心に決めたんです。「源に向き合う」という本質に立ち返り、自分たちにできる範囲でお客さんのことを考えた企画をやっていこうと方針を変えました。

しかし、ここまで付いてきてくれた運営メンバーに、「2020年までに来場者数200万人」と掲げた目標を今さら取りやめたいと言ったらどう思われるか。裏切り行為なのではないかと罪悪感が重くのしかかり、なかなか言い出すことができませんでした。積み上げてきた信頼が一瞬で消えてしまうのではないかと、怖かったんです。

5カ月ほど思い悩み、ついに打ち明けました。無理をしない範囲でやっていきたい、だからみんなも無理のない範囲で好きなようにやって欲しいと。苦悩した時間は、杞憂に終わりました。ほとんどのメンバーが残ってくれたんです。それからは周りを信頼し、素直に自己開示できる自分になれました。

「向源」で世界中の人を繋ぐ、夢


現在は東京にある常行寺の副住職を務める傍ら、個人でDJ活動やイベントなどのコンテンツのプロデュースをしています。

向源は2020年で10周年を迎えます。東京オリンピック・パラリンピック開催を見据え、集大成となるプロジェクトにしたいと思っています。具体的に進めてるのは、選手村ならぬ「ゲスト村」の企画。東京オリンピック・パラリンピックの一番素敵なポイントは、世界中から人が集まっていることだと思うんですよ。日本を訪れた旅行者と日本人が交流できる場を作り、国籍、年齢、性別関係なく、互いが好きなものを語り合える出会いの場を提供できたらいいなと思っています。

具体的には、寺社仏閣にテントを設置し、翻訳機とメモ用紙だけを置いておき、訪れた人が一対一で対話できる空間を作る。相手が好きなものを「それいいね」って言ってあげることは、誰でもできると思うんですよ。そうやって出会った人が仲良くなって何か繋がりができたらいいし、それだけでなくて、人と出会うという行為は、自分と出会い直す機会でもあると思っています。

人と出会っていろいろな考えを聞くと、私はそうは思わないなとか、私はこうしたいな、とか、自分の考えを捉え直したり、トライしたいことが生まれたりする。だから、このイベントも広義で「自らの源と向き合う」向源だと捉えています。

今後も、僧侶としてありながら音楽やイベントに携わり続けたいと思います。ただ、僧侶やDJという肩書きに依存したくはないんですよね。生活のためにやっているものになると、どうしても制限ができて本当に好きなことができなくなってしまう。仏教も音楽も、自分が本当に好きなものだからこそ、できるだけピュアに、素直に向き合いたいんです。それができる自分になれるよう力をつけて、「好きだからこそやりたい」と思うエネルギーを源に、活動に向き合い続けていきたいです。

2020.03.30

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 貝津 美里
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