日本酒を通して伝えたい、日本人の誇り。 10年越しで叶えた友との約束。

「僕らの大好きな日本酒を、世界に広める活動をしないか」。22歳の時、大学の同期と夢を共有した駒澤さん。夢を叶えるためには、知識と経験値が必要でした。あえて別々の場所で働いて研鑽を積んだ二人が、10年越しに夢を実現させるまでの経緯とは。お話を伺いました。

駒澤 健

こまざわ たけし|さくら酒店 共同オーナー
1980年、長野県生まれ。金沢大学在学中、オーストラリア国立大学に1年間交換留学。卒業後はワーキングホリデーで再びオーストラリアを訪れ、24歳で香港に渡りバーテンダーになる。27歳で日本に戻り、日本酒の名店「はせがわ酒店」で6年間修業。その後、大学の同級生と日本酒専門店「さくら酒店」を開業。小さな酒蔵がつくる希少価値の高い日本酒を数多く取り揃え、海外に輸出している。

好きな言葉は「努力」


長野県長野市で生まれ育ちました。山に行けばクワガタ、川に行けば魚がとれる自然豊かな環境です。野原を元気に駆けめぐるやんちゃな子どもでした。

運動はあまり得意ではありませんでしたが、小学校の中学年から野球に打ちこみ、最初に任されたのが一番バッターでした。一番は、もっとも打席が多く回ってくる重要な打順。一般的に足の速い人が採用されることが多いため、嬉しい反面、「僕は足が速くないのになぜだろう」と疑問に思い、監督に起用した理由を聞いてみました。監督は、「足が遅くても、君に一番をお願いしたい」と言ってくださり、僕の可能性を信じてくれているんだろうと思いました。

監督の気持ちに応えたい。心からそう思えたのと、「ファミコンしたいなら走ってからにしろ」という父の教育方針がマッチしたことから、来る日もくる日もゲームの前に「走る自主練」を続けました。すると、少しずつ成果を実感するように。着実に走力がついてきたことでチームの中核的存在になり、6年生になるとキャプテンを任されるようになりました。

さらに、小学6年生の運動会では、これまでかけっこで一度も勝てなかった同級生に初めて勝利。クラスの代表としてリレーの選手に選ばれたのです。頑張れば結果はついてくる。有終の美を飾れたことで、好きな言葉は「努力」になりました。中学生になってからも陸上を続けた結果、県大会の400メートル走で1位に。努力が実を結び、大きな成功体験になりました。

かけがえのない人との出会い


中学生になると、勉強にも力を入れるようになりました。親は、「勉強しなさい」なんて一度も言わなかったけど、地道に努力することを苦にしない性格から、どの科目もそこそこの成績を収めることができました。唯一、苦手意識を持っていたのが英語でした。

高校は進学校でしたが、陸上に明け暮れる日々。そんな2年の冬、地元長野で、冬季五輪が開催されました。長野駅前は国際色豊かになり、外国人が構える露店が並びました。彼らが販売する過去の五輪で手に入れたという記念品はとても魅力的に映りました。「物々交換もアリ」という柔軟なルールにも触発され、ありったけの英語を使って彼らとコミュニケーションを図るようになりました。

すると、勉学の方にも変化が。あれだけ苦手意識を持っていた英語の授業に身が入るようになったのです。英語の教科書を丸暗記する勉強法を見出してからは、さらに点が取れるようになりました。地道だけど、努力すれば確実に成果が出る方法です。英語の成績はぐんぐん上がり、金沢の大学の英文学科に進学。「将来は海外に行きたい」と、おぼろげに意識するようになりました。

大学では人並みに遊び、学生ライフを満喫しました。髪を金髪に染めてみたり、バイトに明け暮れたり。友人にも恵まれ、特に仲が良かったのが近藤 悠一という男です。彼は僕を見て「コイツとなら長く付き合えそう」と直感したそうで、入学してすぐに声をかけてくれました。2人ともお酒が大好きで、飲むペースもほぼ同じ。毎晩のように一升瓶を片手に、鍋をつつきながら将来について語り合いました。

僕らは、性格は全く違うのになぜか気が合いました。僕が客としてよく通っていた金沢の日本酒バーで近藤がバイトを始め、いつしか僕も一緒に働いていました。「お互い、相当の日本酒好きだな」と自覚していきましたね。

大学3年生になり周囲が就職活動を始めても、僕らはどこか無関心でした。無理して、好きではない仕事に就くことに違和感があったからです。次第に、気持ちは海外に向くようになり、留学して自分の可能性を試したいと2人で夢見るようになりました。

それから近藤とは英語の勉強を一緒にするようになりました。国費留学を目指していたので、2人で英語の試験を受けに遠方の会場に何度か足を運んだりもしました。苦労を分かち合った仲なので、3度目の正直で足並み揃えて目標点に到達できたときは、本当にうれしかった。大学4年で近藤はアメリカへ、僕はオーストラリアに旅立ちました。

日本を知らない残念な僕たち


留学先のオーストラリアでも友人に恵まれ、アジアや中東、ヨーロッパの仲間と有意義な時間を過ごしました。かねてから憧れていた異文化交流はとても楽しかったのですが、同時に、自分の至らなさを突きつけられる時間でもありました。他国の留学生は、自分の国をよく理解していて、誇らしげに語るんですね。向学心があり、日本についてもよく勉強していました。彼らに、「僕の国はこうだけど、日本はどうなの?君はどう思う?」と意見を求められる場面は一度や二度ではありませんでしたが、全く答えられません。自分の国について何も知らないのは恥ずべきことだと痛感しました。

留学期間を終え、金沢で再会した近藤もまた、同じ思いを抱えていました。「グローバルな感性を養うのは良いことだけど、日本文化について学ぶことが優先だ」と、いつものように日本酒を飲みながら二人で反省。とはいえ一口で日本文化といっても、衣服、食、文学、芸能など様々な分野があるわけです。僕らが一番やりたいことは何だろうか。ふと、グラスに注がれた日本酒に心が動きます。「僕らが大好きな日本酒を海外に広める仕事を一緒にしないか?」どちらからともなく、そんな言葉が口をついて出ました。

日本酒は日本文化の集合体です。原料は、米と水。稲作が日本に伝わった弥生時代から作られるようになり、日本特有の発酵製法やものづくりの技術、また酒器などの伝統工芸品も歴史に色を添えてきました。つまり日本酒を学べば、日本文化が語れるようになるはずで、これこそが僕らの武器になると、ようやく気がつけたのです。

大学卒業前に、日本酒のソムリエといわれる唎酒師(ききざけし)の資格を取得しました。日本酒の基礎中の基礎は学んだので、次は日本酒以外のお酒の勉強をしたいと思うようになりました。バイトでかじっていたバーテンダーの仕事にとても興味があったからです。それも海外でやりたいと。「もう一度海外へ」と思えたのは、どこかで海外生活に未練があったからです。また、「日本酒を海外に広げるための基盤」を作りたいという思いもありました。

ワーキングホリデー制度を利用して再びオーストラリアに渡りました。現地でバーテンダーのアルバイトをして、ゆくゆくは正規雇用してもらおうという計画です。対照的に近藤は日本に残り、経済と金融の知識が学べる先物取引の会社に就職しました。厳しい環境に身を投じ、営業ノウハウを習得するのが狙いでした。将来、日本酒を販売するために必要なスキルでしたから。

オーストラリアに渡ると、手当たり次第にバーを訪問し、就職活動に励みました。けれど、なかなか採用には至りませんでした。オーストラリアのバーに立つのは、白人のバーテンダーばかり。アジア人の僕にはチャンスが巡ってこず、生活のために日本料理店で天ぷらを揚げる日々が続きました。これでは、夢が遠のくばかりです。計画が狂う中、ようやくネットで見つけたのが香港のバーテンダーの求人情報でした。この時、「これだ」という直感が働いたんですよね。すぐに香港に移住し、見習いバーテンダーとして働き始めました。

香港を拠点に人脈広げ


香港のバーは、日本人が経営する本物志向のバーでした。お客様の中心は、日本企業の海外駐在員や起業家。本格的なカクテルやシングルモルトを楽しむ方ばかりで、僕と二回り以上も歳が離れたお客様ばかりでした。お客様から見れば、20歳そこそこの僕など、ただの“ガキ”に映ったでしょう。

バーテンダーは、お客様と一対一で接客を行う仕事ですから、人柄も経験値も、お客様に簡単に見透かされてしまうのです。店に立ち始めてすぐの頃は、お客様との会話が成りたたないこともありましたが、唯一武器になったのが、唎酒師としての知識でした。「君は日本酒に詳しいのか。じゃあ、このお酒は知ってるかい?」なんて日本酒の話題から会話が弾むことが徐々に増えていきました。とはいえ、社会人一年目の人間がつくるカクテルは未熟な味わいだったに違いありません。それでも、海外経験が豊富でダイバーシティに寛容な彼らは、僕のカクテルを楽しんでくれました。伸び代に期待してくれたところもあったのかもしれませんね。

香港で培ったのは実務経験だけではありませんでした。お客様と触れ合う中で、人脈も広がっていったのです。例えば、日本から香港に日本酒を輸入販売する会社に勤めていた香港人男性。日本酒の造詣が深く、日本語も堪能な彼とは同い年ということもあり、公私ともに仲良くさせてもらいました。

こうした2年半の修行の末、チーフバーテンダーを任されるまでに。もちろんバーテンダーとしてはまだまだでしたが、「やりきった」という達成感はありました。自分の中で、気持ちの整理がついたため、本格的に日本酒を学ぶため帰国を決意しました。

ただし、気がかりなのは、相棒である近藤の気持ちでした。香港で過ごした2年半もの間、近藤とはほとんど連絡を取りあっていませんでしたから。香港の生活が楽しくて、近藤との夢が薄れかけたこともありました。恐る恐る、「日本の酒屋に勤めようと思うんだけど」と相談を持ちかけると、近藤は意外な反応をしました。「じゃあ、俺も先物取引の仕事をやめて酒屋に就職するよ」と言ってくれたんです。彼も、夢を忘れてはいませんでした。

東と西に分かれて自己研鑽


近藤と僕は、段階を踏みながら一歩一歩夢に近づけるよう計画を立てました。もともと僕と近藤は性格が真逆です。野球に例えると、近藤は長嶋茂雄さんタイプ。天然で動物的な勘が冴えます。僕は王貞治さんタイプ。コツコツ努力して計画的に成果を上げていきます。正反対の2人だからこそ、何かあった時に支え合える。それが僕らの強みだと感じました。

そうした考えのもと、僕は業界トップクラスの東京の酒屋に、近藤は関西のパイオニア的な大阪の酒屋に転職しました。僕の勤め先が、どちらかと言うと、フルーティーな日本酒をワイングラスで嗜むような、新しい客層に日本酒の新しい楽しみ方を提案する酒屋なら、近藤の勤め先は、日本酒愛好家が酒の棚を吟味するような玄人好みの酒屋。東西の趣向の違う店で各々が研鑽し、数年後にスキルを持ち寄れば、最強のパートナーになれるとワクワクしました。

バーテンダーの経験しかない僕が、その東京の酒屋に転職できたのは、運が良かったとしか言いようがないですね。サポートしてくれたのは、香港で親しくなったあの香港人男性です。彼が僕に会いに東京まで訪ねてくれて、彼の酒屋巡りに同行させてもらったとき、何軒か訪問して最後にたどり着いたのが、この酒屋でした。「ここで働きたい」と思った僕は、カバンの中に忍ばせていた履歴書を、その場で酒屋のスタッフに手渡しました。少し強引なやり方でしたが、偶然にも新しく立ち上げる店舗の酒バーでバーテンダーを募集していたとのことで、トントン拍子に転職先が決まりました。

その店舗に2年務めたのち、会社のナンバー2である専務の直近の部下になり、専務の仕事を一から学びました。蔵元さんとの付き合い方から、仕事の流儀まで。専務が口すっぱくおっしゃったのは、「経営者目線で仕事をしろ」という言葉。自分の頭で考え、向上心を持って働くことで、強いチームに成長するという教えです。専務のそばで働いた4年間は、日本酒業界で生きていくための肥やしになりました。

そうやって充実して働いていた、32歳の夏。近藤が大病を患いました。それをきっかけに、時間は有限であると悟ったんです。長く会社勤めをしていると、生活するので精一杯で、「お金が貯まってから起業しよう」と、いつまで経っても行動に移せずにいました。しかし、「いつかいつか」と言っている間に、自分たちの人生が終わってしまうかもしれない。今、やるしかないと覚悟を決めたんです。

とはいえ、正直、見切り発車な面もありました。彼にも僕にも家族がいて、僕の場合はもうすぐ新しい命が生まれようとしていましたから。子どもの誕生を目前に、会社を辞めて固定収入を失うのですから金銭面の不安は当然ありました。それでも迷いはありませんでしたね。近藤は入院中、病室で事業計画を考えて、幸い順調に回復していきました。そして退院後、「さくら酒店」を立ち上げたのです。

「さくら」とは、日本人がさくらを愛するように日本酒を愛してほしいとの願いを込めてつけた名前です。これは、自分たちなりの決意表明でもありました。留学から帰国した直後は、無知な自分に心底ガッカリしたのですが、そんな精神状態でも、さくらを見れば、日本人としてのアイディンティティを取り戻せる感覚がありました。日本のみなさんにも日本酒を通して、日本人としての誇りを取り戻してほしい。そんな願いを込めました。

人対人の関わりが事業の助けに


こうして、近藤と二人三脚でさくら酒店を立ち上げたのですが、何もかも手探りでした。最初は営業の仕方もわかりません。営業経験のない僕は、グルメレビューサイトで日本酒にこだわりを持つ飲食店を調べて、一日に10~20軒ほどの飛び込み営業を行うことに。門前払いなら仕方ありませんが、少しでも脈がありそうなら何度でもお店に通いました。泥臭い営業活動でしたが、地道に努力することは大の得意です。店主との関係性を少しずつ構築していきました。

初訪問から何度か通ったある日、初めて六本木の飲食店のオーナーが「じゃ、一本もらおうかな」と声をかけてくれたんです。本当に嬉しかったですね。「お酒って一本売るのにこんなに時間がかかるんだ」としみじみ実感しました。最初に売れたこの1本は、忘れられないものになりました。

少しずつ卸先は増えていきましたが、2、3年間は、食えない時期が続きました。とにかくお金がなくて、消費者金融から借りた金を、「給与」に見立てて妻に渡したこともありました。それでも、最後は「人対人」だと信じ続けました。時間をかけて信頼関係を築けば、長いお付き合いに発展することもあるからです。

事業を始めて4年目のある日、前職の酒屋を紹介してくれたあの香港人男性から連絡がありました。またとない朗報でした。彼が、香港で独立して日本酒の輸入会社を立ち上げたことで、さくら酒店との取引をスタートさせてくれたのです。彼には感謝しかありません。また、時をほぼ同じくして、今まで対話を続けてきた他の国々への輸出も始まり、さくら酒店は軌道に乗り始めました。

日本酒を巡る世界一周旅行を目指して


現在は、3つの柱でさくら酒店を運営しています。一つは、飲食店に日本酒を販売する卸売業、もう一つはインターネットで個人に販売するECサイト事業、そして海外輸出事業です。

うちの強みは、なんといっても日本酒一筋なところです。知識量も、蔵元さんとの絆の深さも絶対的な自信があります。和食はもちろん、フレンチもイタリアンも中華もエスニックも、料理に合わせた幅広い提案をしています。

年内の事業化に向けて急ピッチで進めているのが、定期購入サービス。さくら酒店が運営する、お酒の劣化を最小限に抑える「マイナス5度の氷温倉庫」で自家熟成させた、唯一無二の日本酒を毎月お届けするサービスです。これを4本目の柱に、と考えています。

今、僕には夢があります。7歳の息子と3歳の娘が成人したら、家族で世界旅行に出かけること。日本酒を輸出した国を、点を結ぶように巡る旅です。2020年現在の取引先は12カ国ですが、あと17年かけて輸出先を世界中に広げていきたいです。

そして、いつか海外の地で、我が子のグラスに自分が輸出した日本酒を注ぎながら言うんです。「父さんがやってきた仕事はこういうことなんだ」と。子どもたちには、日本酒を通してアイデンティティを養ってもらいたいです。これは、ビジネスマンというより、僕の親心なのかもしれません。

2020.03.16

インタビュー・ライティング | もろずみ はるか
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