挫折を繰り返した末、辿り着いた幸せ。 経験を型化し、幸せの循環を生み出したい。

株式会社LIFE PEPPERで組織・事業づくりに取り組む岡野さん。幼い頃から人一倍負けず嫌いだった岡野さんは、ベンチャー企業で死に物狂いで働く中で、様々な壁にぶつかります。精神的に追い込まれていく中で、岡野さんが気づいた自分にとっての幸せとは。お話を伺いました。

岡野 求

おかの もとむ|株式会社LIFE PEPPER 執行役員
新卒で中古車販売会社の営業を経験し、その後、成長ベンチャー2社の創業に携わり、ゼロから300人の会社の事業開発・組織開発を経験。現在は、株式会社LIFE PEPPERの執行役員として、事業開発、社外のアライアンス構築、組織づくりを担当。

負けを認められない苦しさ


埼玉県で生まれました。とってもひょうきんな子どもで、家族を笑わせるのが大好きでした。おどけて踊ったりする姿を見て、おばあちゃんは「もっちゃんがいるだけで、家がいつも明るくなるねぇ」と手放しで笑ってくれます。家族みんなに可愛がられて、のびのび育ちました。

小学校では、勉強も運動も1番で、負けることがありませんでした。家庭でも学校でも褒められてばかりで、「自分はなんでも上手にできるんだ」と万能感を持つようになりましたね。

しかし、成長期が遅かったため、中学校に上がってもほとんど背が伸びず、3年生のときには背の順で前から3番目でした。すると体格差の影響で、自信があった運動でも周りに勝てなくなっていきます。また、多感な思春期に仲の良い友達が次々と彼女を作っていくなかで、自分は全くモテない。背も低く、外見も大した事ない。徐々に人に負けることが増えていく自分を受け入れられず、辛かったですね。

コンプレックスと負けるかもしれないという恐怖心が芽生え、少しでも自分のプライドを守るために、勝負をだんだん避けるようになっていきました。高校を選ぶときも、受験を避け、推薦で県内の進学校である男子校に決めたんです。戦わない状態を作ることで、自分のプライドを必死に守っていました。

高校に入ってからは、運動では勝てないので、せめて勉強面で勝とうと思い、定期テストがあるたびに、絶対に負けないように必死で勉強しました。失敗できないという気持ちからか、テスト前日は緊張し、嫌で嫌で仕方ありません。本番でも、毎回お腹を下していました。

テストの成績は常にトップクラス。2年の夏ごろには、このまま行けば現役で日本最難関の大学もいけるだろうと周囲の期待も大きくなっていきます。プライドの高い私は、最難関という響きに魅力を感じ、1年半後の受験に向けて勉強し始めました。

毎日の受験勉強は、想像を超える辛さでした。短期での集中は力を発揮できたものの、長期の継続力が弱かった私は、次第に「俺ってなんで、こんなに死に物狂いで勉強してるんだろ?」と思い悩むようになりました。自分のプライドを守るためだけの勉強には限界があり、動機がない中で頑張る必要もないと自分に言い聞かせて逃げるようになっていきました。

そんな状況なので、高校3年になると成績が伸び悩み、夏ごろには受験が死ぬほど嫌になっていました。このままだと受験に負ける。そんな焦りを感じながらも、ラストスパートで盛り返せるだけの気概はない。無意識のうちに、どうにかして負けることなくこの局面を乗り切れないかと考えていたのでしょう。ある日、指定校推薦制度という仕組みで有名私大に入れる選択肢があることを知りました。調べてみると、人工知能を学べる学科にも推薦で行けることがわかったんです。SF映画が大好きだったので、人間の意識や知能を明らかにするこの分野に強く惹かれました。何より、推薦ならば受験に負けたことにはならない、周りにも自分にも言い訳ができる。推薦入試を受けることにしました。

合格内定後、友人たちが苦しい受験に奮闘する中、自分だけ楽な道を選んだ戒めとして、坊主にしました。その後、3年生の終わりに、近くの高校の学生を集めて、お笑いライブや、ダンス、バンドなど様々な出し物を開催する、一大イベントを企画しました。そうやって受験以外に打ち込むことを作って、推薦入試を選んだ言い訳にしようとしたんです。ただ、あの手この手を尽くしましたが、「自分は逃げたのだ」という意識からは一向に逃れることはできませんでした。

失恋で絶望し、刺激を求めて就活へ


大学1年の春、自分にはもっと上のレベルに行ける実力があったという奢りと後悔があり、周りを見下していました。しかし、新たにできた友達と仲良くなるにつれ、そんな考えは消え去っていきます。私が一日かかっても全く理解できない数学や物理の内容を、友達はたった2時間テキストをペラペラめくるだけで、私にわかりやすく教えられるほど深く理解できてしまうんです。次元の違う才能を目の当たりにしたことで、自分はこの分野では到底敵わないと諦めます。また、興味があった人工知能について一通り調べてみましたが、そもそも有機物である人間の脳の構造に、まだまだ謎が多く残されていることがわかり、生きている時間の中でそれを解明するのは不可能だと諦めました。

そんなことが相まって、入学後数カ月足らずで見切りを付け、アルバイトや恋愛といった短期的な自己実現に勤しむ日々がスタート。アルバイト先の学習塾では、筋トレが趣味のちょっと変わった可愛らしい女の子と仲良くなれたので、毎日がすごくウキウキ充実していました。男子校で育ち、女性に対する免疫がなかった私は、その子の愛嬌たっぷりの振舞いにどんどんほだされていきました。

彼女の好みの男になれるよう、自宅にベンチプレスを買って肉体改造したり、サーフィンを始めたり、日焼けサロンに通いつめたり。振り向かせたい一心で、夢中になって努力をし続けました。

しかし、そんな無垢な努力は実りませんでした。舞い上がっていたのは自分だけで、彼女にその気はなかったんです。酷く落ち込み、家から出られなくなり、彼女との思い出を振り返ってしくしく泣く毎日。気を紛らわしたいと思いながらも、何もやる気が起きません。1年近く、引きこもりのような生活を続け、その結果、大学は留年しました。

それでも人の脳には、「忘れる」という素晴らしい機能が備えられており、1年近く経過すると、当時の絶望に近い感情も思い出せなくなっていきます。だんだんと過去を冷静に振り返れるようになりました。

私が好きになった女の子は、日本にいる恋愛対象年齢の女性1000〜2000万人分の一の人。この確率で彼女を好きになったのは、たった一人の運命の相手に出会えたということではなく、ただの思い込みに過ぎない。人間は脳内ホルモンによって感情をコントロールされているので、恋愛とは子孫を残すためのまやかしなんだと気づきました。

それまで「もうこの人以上に素晴らしい女性には出会えるはずがない。これからの人生はおまけだ」と思いこんでいた私にとって、長いトンネルの出口にようやくたどり着いた思いでした。自分の絶望体験と距離をおいて観察し、理論によって乗り越えることができたのです。「これからの人生は、どんな辛いことがあっても乗り越えていける。今のどん底より上がっていくしかない」と思える強さを手に入れました。

卒業後は、肉体労働で稼ごうと考えていました。仕事をしながら趣味の筋トレにもなり、一石二鳥だと思ったからです。ただ、いざアルバイトを始めてみると、同じ作業の繰り返しで、飽き性の自分には向いていないと気づきました。もっと刺激的な仕事をやりたいと思い、様々な業界に視野を広げて就活し始めました。

その中で、ある中古車販売会社の1dayインターンシップに参加しました。与えられた課題は、その会社の海外進出のマーケティング戦略を考えること。テーマが広く、考えなければならない要素が多かったので、頭はパンク状態でした。ワークが終わった後に、人事部長が出てきて解説が始まります。ロシアのスパイが使う分析手法で、グローバルな市場環境をすらすらと解析する姿を見て、全く知らない知的な世界の広がりに強く憧れました。自分もこの人みたいにバリバリ仕事できるようになりたいと思い、選考を受けることにしました。

選考は順調に進み、迎えた最終面接。役員の方が相手です。話し始めてほんの数分も経たないうちに、「岡野君はお調子者で、人に流されやすいよね。でも集中力があるから、1つのことに本気で取り組めば面白い人生にできるよ」と言われたんです。その後、どんな人生にしたいか聞かれ、「誰にも束縛されることなく、自由に自分の人生を選択できるようになりたいです」と答えると、「だったら経営者を目指そう」とアドバイスしてくれました。

一瞬で自分の人間性を的確に見抜かれたことに衝撃を受けました。ただ、それ以上に、面接の短い時間の中で、仕事の仕方、スキル、テクニックの話ではなく、一番大事な生き方の話をしてくれたことに感銘を受けたんです。社員の方々よりはるかに高い視座で物事を捉えていた役員の方に圧倒され、この人のもとで学びたいと強く思いました。

ベンチャーで成功を掴み、自分を認めたい


中古車販売は、朝から晩までお客様の車の買取・販売営業、夜中は数十台の中古車をひたすら洗車する重労働。真冬の洗車などは手がひび割れて、特に辛かったです。数カ月して役員の方に辞めたいと泣き言を言いにいきましたが、「全然甘いよね」と一蹴され、その後なんとか仕事を続けて1年後には、営業の成果が出るようになりました。

お客さまと信頼関係を築き、会社、サービス、そして自分という人間に対して期待をしてお金を払っていただく。毎日毎日、数十〜数百万円のお取引の意思決定に携わる中で、商売の基本とは何か、本質的に深い洞察を持つことができました。

現場を経験した後は、もっと経営者の近くで学びたいと思い、より小さな規模の会社への転職を試みました。その中で、知り合いづてにシリコンバレー帰りの起業家と出会いました。自己資産1億円をつぎ込んで1人で会社を立ち上げるというクレイジーな社長さんで、いきのいい社員第一号を探している人でした。ちょうどシリコンバレー発のITベンチャーが、次々と世界にインパクトを与えていた時期で、この人からベンチャーの立ち上げを学べると思い、即決で入社させてもらいました。

多くの友達が大企業に勤め、年収も仕事のスケールもどんどん上がっていく中で、自分だけかっこいいキャリアから遠く離れてしまった私は、早くベンチャーに入って、力を付けたかったんです。皆とは違う路線で自分の価値を認められれば、大学受験で逃げてしまったというコンプレックスからも脱却できると思っていました。

会社は中国で生産された電動バイクの輸入販売事業を行っており、私の役割は人事、営業、クレーム対応、ホームページ作成など。営業以外はやったことがないので、ほとんど手探りの状態です。会社に住み込み、寝る間を惜しんで働いていましたね。社長と年齢差もあり、教える側、教えられる側のような関係性でもあったので、基本的には自分の意見が通ることはあまりありませんでした。

しかし、いくら頑張っても電動バイクは思うように売れません。最初は自分の営業力不足と思って必死に改善につとめていましたが、だんだんプロダクト自体に問題があると思うようになりました。販売していた機種は二人乗り仕様の大きなボディー。一方、日本のバイクは一人乗りがスタンダードで、取り回しの良い小型のものが好まれます。そもそも、プロダクトが日本の市場には全くフィットしていないと感じたのです。

そんなジレンマを社長に進言していったところ、日に日に関係が悪化していってしまいました。このままの気合と根性戦略では乗り切れないと思ったので、その後も粘り強く議論を続けましたが、説得できませんでした。それだけでなく、耳障りの良いことだけをいう同僚が重用され、社内は社長に認められるために足をひっぱり合うような状態に。このままここにいても先がないと感じ、会社を去ることにしました。

次こそはいよいよ起業しようと思いましたが、「絶対にこれが成し遂げたい」というビジョンがあるわけではありませんでした。ビジネスアイデアを見つけるためのアドバイスをもらおうと、いろいろな人に会い、その中で、かつて一緒にフットサルをしたことがあったベンチャー企業の社長に再会しました。すると、逆に彼が将来目指しているビジョンを熱く語られたんです。

彼には強い思いがあり、そのカリスマ性にすぐに引き込まれましたね。自分が持っていなかった「絶対に成し遂げたい」という情熱を、この人は持っている。この人と一緒なら世界を変えるプロダクトを創れるかもしれないと思い、ワクワクしました。そのまま意気投合し、入社を決意しました。

働いている意味が見出せなくなる


自分のメインの役割は、組織づくりの責任者でした。経営メンバーとして、社長と緊密にコミュニケーションを取りながら仕事を進めていきました。すると徐々に、組織づくりに対する考え方の違いに気づいていきます。社長は、目標達成に向けてひたすら突き進むタイプの強烈なリーダーで、そのスピードについて来られない人には、厳しく指導をしました。一方で私は、努力する過程で成長でき、社員一人ひとりがやりがいや幸福を感じられることこそが大事だと思っていたんです。人の成長に求める期待値がずれていて、私はのんびりしていました。

社長は組織の長として結果を出さなければならないという強いプレッシャーにもがき、私は口説いて採用した一人一人のメンバーの幸せを担保しなければならないというプレッシャーにもがきました。結果が大事か、プロセスが大事か、考えが交わらないと感じながらも、お互いが成長すればいつか歩み寄り合えると信じ、働き続けました。

その後、事業は急成長を続け、組織も肥大化。自分達の器以上の組織を抱えるようになり、社員ともコミュニケーションが取れなくなっていきました。自分で抱えきれないストレスをお互いにぶつけ、私はそのストレスを家庭に持ち込み、家族に発散してしまう毎日。家庭では自ら彼女を追い込んでしまってどこにも居場所がなくなり、精神的にかなりひどい状況にありました。

もうこれ以上、自分で自分を支えられなくなりつつあったある日のこと、ある会議の自分の担当のパートでボロボロのプレゼンをしてしまい、周囲のメンバーから責め立てられてしまいました。私の心はもはや限界で、自分の落ち度を冷静に振り返る余裕はありません。その瞬間、完全に感覚が麻痺してしまいました。怒りも悲しみも悔しさもない。ただただ、椅子に座ったまま、呆然と空を見つめるだけ。30分以上その場から動けませんでした。

今までなんのために働いてきたのか。意味を見出せなくなったんです。ストレスをぶつけ続けてきた彼女との関係も崩壊。仕事もプライベートもどん底で、会社に行こうと最寄りの駅まで行っても、どうしても電車に乗ることができず、そのまま家に戻りました。常に元気が取り柄で、皆勤賞を取り続けていたような私でしたが、体から発せられた無意識の赤信号を感じ、生まれて初めての登校拒否を選択しました。

たどり着いた自分にとっての幸せ


しばらく会社を休んでいる間、主に犬の散歩くらいしかやることがなくなりました。毎日激務の中で突き進んでいたので、ぽかんと空っぽな状態になったんです。毎日毎日、何時間も愛犬と散歩しながら、人は何のために生きているんだろうと考えました。

お金持ちになるため、有名になるため、異性にモテるため、生きる意味を見出すため…。いろいろ浮かびましたが、ひたすら散歩をしていると、結局、それらの先には自由で幸せになりたいという純粋な願望だけが残りました。自分も幸せになるために生きているはずなのに、ここまでがむしゃらに、人の何倍も働いて頑張ってきても、一向に手が届かない。じゃあそもそも、自分にとっての幸せってなんだろう。考えるヒントを得るために、本を読み漁りました。

その中で、ある幸福学の分野で著名な大学教授が、幸せになるための要素を4つにまとめていました。人から「ありがとう」と感謝されること、「ありのまま」の自分を認めてもらえること、自ら「やってみよう」とチャレンジできること、最終的には「なんとかなる」と思えること。この考え方を知った瞬間、ストンと腑に落ちた感覚がありました。

今までいくつかのベンチャー企業の創業期から参加し、がむしゃらに働いてきました。成長途上で組織の向上心が強かったこともあり、何かを成し遂げると、「もっとできる、まだ上を目指せるはず」と鼓舞し合い続けてきました。だから「ありがとう」と感謝されることや、「ありのまま」の自分を認められる経験がほとんどなかったんです。こんなに頑張っているのに、人からも認めてもらえない、自分も自分を認めてあげられない。それが自分が抱えてきたしんどさだと気づきました。

それに気づいた上で、これからどう生きるか。会社は自分が不登校になっている間も、ますます急成長を続けており、このまま戻れば数年後にはお金持ちにはなれるかもしれませんでした。でも、また自分らしさを捨てて、心を削りながら仕事をしなければならない。きっとまた彼女に八つ当たりしてしまう。自分の幸せはそうじゃない。

自分の幸せは、お互いに感謝しあったり、認めあったりできる、そして自分自身を認められる、あたたかい関係を築くこと。だから、もう一度やり直して、自分が納得できる生き方をしよう。人はいつ死ぬかわからないんだから、人生で一番大事なのは、一瞬一瞬の巻き戻せない時間を、意味のあるものだと実感できることだ。そう思って、退社を決めました。

誰かの元で事業をやってもうまくいかなかったので、1人で会社を立ち上げようと思っていました。すると、新卒のころから師匠と仰いでいた中古車販売会社の役員の方に、彼自身が会長を務めるベンチャー企業を紹介されたんです。しかし、過去の失敗経験からトラウマを抱えていた私は、「他人の会社ではうまく働ける気がしません」と断ろうとしました。するとその方に、「俺を信じてここに入って、演技でもいいから、やる気マンマンのフリして仕事に打ち込んでごらん」と言われました。

その人には恩義を感じていましたし、いつも私のために本気で魂のこもった助言をくれる人です。よくわからないけど、とりあえずこの人を信じてやってみようと思い入社。働き始めると、これまでの会社と組織風土が全く違うことに驚きました。会長の教育のもと、まだまだ荒削りではありますが、1人1人がお互いを活かし、切磋琢磨しあう高い意識を持ったチームがそこにあったのです。社内イベントのたびに、役職関係なく、応援なのか、ツッコミなのか、ヤジなのかよくわからない賑やかしが飛び交う、フラットに意見を言いあえる雰囲気。だからといって、なれ合いになるわけでもない。会議のときはみんなが率直に意見し合い、真剣勝負をしながら共に成長していこうという意識が浸透していました。

誰かがアイデアをプレゼンすると、よりよいアイデアになるよう周りがいろいろな意見を出してくれるんです。その結果、その案がみるみるブラッシュアップされていきました。社員が書く日報も、業務の振り返りだけではなく、人生の悩みや熱い想い、周りへの感謝、それらを包み隠さず吐露していて、とても素晴らしいんです。

日々いろいろな壁に直面し、苦しみもがきながら成長していく1人1人の物語。それらを皆で共有し、お互いを理解し、認め合い、感謝しあう。そして鼓舞しあいながら、チームの物語を紡いでいく。働きながら社員全員で群像劇を演じている感覚で、一人一人が主役なんです。皆が同じ目標に向かって一つになりながら、多様性の中で毎日を充実させて成長していく。それが組織で働く醍醐味であり、自分にとっての幸せだと感じました。たどり着くのに10年以上かかりましたが、やっと、仲間と働くのが楽しいと思えたんです。

働く全員が幸せな事業・組織モデルを


今は、日本企業の海外マーケティングや、訪日外国人へのデジタルマーケティングを支援する株式会社LIFE PEPPERの一員として、自社オリジナルのプロダクト開発や取引先の開拓・関係性づくり、組織づくりなど多岐にわたってなんでもやっています。

今後は、これまでの経験と、今の会社で実践していく経験をもとに、事業・組織づくりを型化して広めていきたいですね。自分は、急成長企業の目標達成と、それが故にすれ違ってしまう人間関係に苦しんだ末、なんとか今の会社にたどり着くことができました。もちろん、今もまだまだ発展途上ですし、これからもたくさん失敗するだろうと思います。

しかし、みんながみんな、過去の私のような苦しい体験をする必要はないと思うんです。だからこそ、まず自分の失敗経験を生かしたい。それに私の失敗経験を元に先の物語を紡いでもらって、さらにすごいことを成し遂げる人がたくさんいたら最高じゃないですか。

強い思いを持って事業をスケールさせようとすると、社内に犠牲を強いることになりがちです。でも本当は、健全で強固な尊敬しあえるチームがベースにあるからこそ、社員の士気が高まり、生産性が上がり、創造性が最大限に発揮され、イノベーションが大量生産されてスケールしていくんです。そんな企業の成長モデルが実現できれば、みんな幸せになれるはずです。

もっと前にそれができていたら、自分にもっと実力があったら、今までもうまくやれたんじゃないかと思うんです。高い志をもった強いリーダーシップはなくてはなりません。その志は本当に、世界を大きく前進させるかもしれない。だからこそ、志を持ったリーダーも、組織で働く一人一人も、全員が幸せに事業を前に進められるモデルをつくっていきたい。今は、それができるはずだと確信しています。

2020.03.12

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊藤 祐己
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