普通じゃなくていい、理解されなくていい。 楽しいと思うことを積み重ねてきた人生。

DDTプロレスリング所属のプロレスラーとして活躍する佐々木さん。病弱で人付き合いが苦手だった幼少期から、パンクやプロレスに目覚め、その独自のスタイルで「カリスマ」と称されるレスラーになるまでの経緯とは。お話を伺いました。

佐々木 大輔

ささき だいすけ|DDTプロレスリング所属プロレスラー
2005年10月22日デビュー。師匠であるプロレスラー、ディック東郷から指導を受け、DDTの最前線で活躍。KO-D無差別、KO-Dタッグ、KO-D6人タッグなど数々の主要タイトルを獲得している。2016年には、ユニット「DAMNATION」を結成。「群れない・媚びない・結婚しない」を掲げて活動中。

サプライズがある、プロレスの面白さ


東京都練馬区で生まれました。父は大工、母は主婦で、兄と妹がいます。4つ上の兄は几帳面な性格で、細かく注意をされるのでケンカばかりしていましたね。一方で、子どもの頃は病弱で、病気にかかりやすかったり入院してしまったりすることもありました。

小学校3年生ごろから体は強くなりましたが、小、中学校と人付き合いが苦手で、友達が少なかったですね。面倒臭いことからは距離を置こうという性格でした。動くのも好きではなかったので、スポーツも一切やりませんでした。

中学生になったある日、深夜にテレビをつけるとプロレスの試合を放送していました。見た瞬間、ハマったんです。とにかくかっこいいし、見ていて楽しい。レンタルビデオ屋まで、ビデオを借りに走りました。

最初に見たのは日本のプロレスでしたが、そのうち海外のプロレスの試合も見るようになりました。海外は、日本よりもめちゃくちゃなことをやっているのが面白かったです。試合の最後には絶対に乱入があったり、裏切りがあったり。普通の試合を見ているよりも、そういうサプライズが楽しかったですね。ただ、自分でやりたいとは思いませんでした。自分にできるものではないだろうと感じていたんです。

普通じゃないことをやってもいい


小学校、中学校と成績が良かったので、高校は選び放題でした。 部活をやっていなくて時間があったので、暇なときに勉強していたんです。でも、勉強そのものに興味は持てませんでしたね。

高校では運動してみようかと思い、柔道部のある高校を選びました。プロレスラーには、柔道上がりの人も多いんです。自分にはできないと思っていながら、どこかでプロレスに興味がありました。「絶対レスラーになりたい」というよりも、「どこかでやれるかな」くらいの気持ちでした。

しかし、高校に入学して、実際に入部したのはラグビー部。友達について行ってやめるにやめられなくなり、そのまま入部することになりました。それまでは運動を特にしてこなかったので、練習はめちゃくちゃきつかったです。でも性に合ったのか、次第に楽しいと感じられるようになって、3年間ラグビーを続けました。

とにかく開放的で変わった人が多い学校でしたが、中でもラグビー部が一番変わっていましたね。入学3日目でモヒカンにしてくるようなやつもいました。でも、それが自分には居心地良く感じられたんです。

その頃、周囲に音楽好きが多く、自分もいろんな音楽を聴き漁る中で、パンクに出会いました。そこからは、パンクの世界に完全にハマりましたね。音楽やファッションの感じがピンと来たんです。

中学校までは、型にはまっているような窮屈さがありました。いわゆる不良でさえも、型にはまったことをやっていると感じていたんです。パンクをやっている人達を見て、普通じゃないことをやってもいいんだと気づきました。高校では、髪の毛を赤く染めて学校に行ったり、ライブハウスに行ったりもしました。校内ではおとなしい方だったと思いますが、それでも変人でいることができて楽しかったですね。

できるはずがないと思っていた、プロレスの道へ


高校3年生になって進路を考えるときに、周りはみんな大学へ行くと言い出し、受験シーズンには誰も遊んでくれなくなりました。自分は完全にパンクにハマっていて、普通じゃないのがいいという感覚だったので「勉強なんかしてどうするんだ、こいつらみんな普通になってしまったな」と悲しくて。でも、みんなと同じように大学に行ってサラリーマンになるという選択肢はゼロだったんです。違う道へ行くことに、不安すらありませんでした。

卒業後、とりあえず働こうと思い、父の大工の仕事を手伝うことにしました。親からは特に何かを言われたわけではなく、家を継ごうという意志も全くありませんでした。ただ、手に職を付けて自分で生きていこうという気持ちです。

週6日間働きましたが、仕事に向いていなかったようで、面白くないと思うようになりました。特にお金が欲しいわけでもないのに、どうして週に6日も早起きして働かなければいけないんだと。空いた時間に何かやりたかったわけではないです。仕事の内容も苦ではありませんでしたが、ただ毎日働くのが嫌になりました。

そんなとき、プロレス雑誌で、プロレスラーを育成するスクールの一期生を募集する記事を見つけました。とりあえず仕事をやめて行ってみようと、応募しました。プロレスは、自分にできるものではないとずっと思っていたけど、一回くらいやってみるかと思ったんです。

入学して最初は、やっぱり体力的にきつかったですね。でも周りが年上ばかりだったので、以外といけるんじゃないかとも思いました。今までテレビで見てきたことを実際にやるのは、純粋に楽しかったです。そこで一年ほど練習し、学校が主催する第1回目の大会でデビューしました。

人前でやる試合は、練習よりもテンションが上がるなと思いました。ただ、知名度を上げたり、注目を集めたりすることには興味がなくて。アルバイトで収入を得ながら、学校に行って練習をして、試合に出たのはデビュー戦を含めて3回くらい。プロになるんだという意識はなかったですね。「デビューか、楽しそうだな」と思った程度でした。

予測できないことが起こる、メキシコの楽しさ


デビューしたあと、今後どうするかを学校と話し合いました。そこで、メキシコに行ってみたいと、軽い気持ちで伝えたんです。師匠が、昔メキシコに行っていたこと、小柄な選手がよくメキシコで修行していたこともあって、興味があったんですね。学校からは「じゃあ行ってみたら」と送り出され、デビューして半年後、単身メキシコに渡ることになりました。

メキシコに行けば何とかなると思っていたので、そこで何をしようとか、具体的なイメージはありませんでした。根拠は全くないけど、たぶん大丈夫だろうという感じです。せめて現地の言葉を学ぼうと思いましたが、飛行機の中で本を開いて、これは無理だと諦めました。

到着してすぐに、日本とはまるで違う、めちゃくちゃな国だと思いましたね。現地の日本人が空港まで迎えに来てくれて、宿泊場所や練習場所を案内してくれたのですが、渋滞した道路や、信号待ちの車がずっとクラクションを鳴らしている状況に驚きました。そこで飛び交う言葉ももちろん全く分かりません。

練習の内容自体は、日本とそれほど変わらず、大変さは感じなかったです。ただ、メキシコは日本のようにいろいろなことが整っていないので、何が起こるか予測できません。リングに穴が空いていることもあるし、そもそも会場に無事たどり着けるのかどうかも分からない。練習のときに話される言葉も、全く理解できませんでした。そうこうするうちに、貯金を使い果たして無一文になってしまったんです。日本食レストランで皿洗いのアルバイトをして、なんとか食いつなぎました。

それでも、着いて1、2週間くらいで練習場にいた仲間と飲みに行くようになり、徐々に現地の言葉も覚えました。ハプニングは多かったですが、むしろ想定外のことが起きるメキシコでの生活が、楽しかったですね。

昔テレビで見たサプライズを与える側に


一年過ぎた辺りで、メキシコにいることに、ちょっと疲れたなと思い始めました。言葉も段々理解できるようになってきて、環境を変えたいという気持ちもありました。日本でどうするかは決まっていないけど、とりあえず帰ろうと帰国を決めました。

通っていた学校がもう無くなっていたので、帰国してからはまず師匠に連絡を取り、その繋がりでDDTプロレスリングの試合に参戦するようになりました。言葉にするのは難しいですが、師匠からはたくさんのことを学びましたね。

それでもしばらくの間、プロレスが仕事だという意識はなかったんです。お金を稼ぐことが目的なら他の仕事をしていただろうし、ただ楽しいからやっているという感覚でした。パンクの影響もあって、仕事をして普通に暮らすことは、悪いことだと思っていましたね。

試合では、自分が面白いと思うことをやっていました。選手は大抵、観客や周囲に理解されようとして行動します。しかし、自分がやりたいと思うことのほとんどは、理解されなかった。それなら、無理に周りに合わせる必要はない。理解されなくても、自分が楽しいと思うことをやってみる方がいい。そう考え、自分のスタイルを確立していきました。

あるタイトルマッチのあと、いつでもどこでもチャンピオンに挑戦できる権利を使ってチャンピオンに挑みました。観客は誰も、自分が勝つなんて思っていない。勝てる自信があったわけではありませんが、タイトルマッチの後の乱入の形だったので、純粋にここで戦ったら面白いだろうと思ったんです。

結果は、勝利。みんなびっくりしていました。まさに、自分が思い描いていた通りの理想的な反応です。「やってやった!」という感じでしたね。昔テレビで見ていたサプライズを、自分も与えられたんだ!と。そのときに、自分みたいな人間も上に立てるんだという意識が生まれました。やってきたことは間違ってなかった。ただ楽しくやってきて、それでよかったんだと思えました。

他人の理解を超えてやる


今も、DDTプロレスリング所属のプロレスラーです。基本的には土日に試合があって、それ以外のときはお酒を飲んでいます。お酒を飲むと頭が冴えるんです。

チャンピオンになってから、周りの反応が変わりましたね。自分自身は何も変わっていないのに、歓声が増えたり、理解しようとするやつが現れたり。でも、自分は誰かに理解されたいとは思わないし、理解できるとも思わない。普通の人間ではないという自覚があるんです。他人の理解を超えてやるという気持ちが、エネルギーになっています。

試合では、そのとき楽しいと思ったことをやるようにしています。その時々で自分の流行があって、それをパフォーマンスに取り入れるんです。例えば、道端で暴れてるようなおじさんとか、映画や海外ドラマに出てくるマフィアとか。パンクもその一つですね。共通しているのは、たぶん普通の人がやらないだろうということ。普通じゃないことをやるのが楽しいんです。

年齢的にいろいろ考えることもありますが、今は体が動くので、レスラーでいることは大事だと思っています。普段から気を付けているのは、衰えないことと、楽をしないこと、好きなようにやること。その時の気分でやりたいことを、枠組みに囚われず、自由にやっていたい。最近は、リングの外にも活動の幅を広げたいと思っています。将来は「こんなレスラーがいたな」と良くも悪くも印象に残ればいいですね。いつか地元の練馬駅に、自分の銅像を建てて貰えたらうれしいです。

2020.03.02

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 塩井 典子
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