生も死も、歴史も暮らしも全て詰まった戦場で。 事実を伝え続けることが自分の使命。

アフガニスタン侵攻やイラク戦争など、数々の戦場を取材しているジャーナリストの佐藤さん。常に死と隣り合わせの過酷な戦場で、パートナーであり最愛の女性を亡くしました。それでも戦場に向かい続ける、佐藤さんの想いとは。お話を伺いました。

佐藤 和孝

さとう かずたか|ジャーナリスト
独立系通信社ジャパンプレス代表。一般財団法人山本美香記念財団理事長。1980年の旧ソ連軍の侵攻以来、アフガニスタンの取材を続ける他、ボスニアやイラク、シリアなど20以上の国や地域を取材する。写真とペンに加え、ドキュメンタリーの制作も手がける。2003年度ボーン・上田記念国際記者賞特別賞受賞(イラク戦争報道)。

写真から感じた命の気配


北海道帯広市で生まれ、すぐに東京都へ引っ越しました。好奇心旺盛な子どもで、いろいろなものに興味を持ちました。小学校低学年の時、歯医者の待合室にあった写真雑誌を眺めていると、衝撃的な写真を見つけたんです。新聞社のカメラマンがとった、ベトナムの写真でした。反政府の高校生が処刑される前後の様子が、モノクロの数枚に収められていたんです。

すごいインパクトでした。写真から立ち上ってくるなんとも言えない強い圧力。怖いというより、何が人をこうしたんだろうという思いが強かったですね。

同じ頃、第二次世界大戦を書いた本を読みました。その中で、ノルマンディ上陸作戦の様子を写したロバート・キャパの写真も強く印象に残ったんです。海があって、敵の進軍を妨げる仕掛けがあって、兵隊が大勢いる写真。文章で読むよりも、一枚の写真の方が迫力があり、伝わるものがありました。ビジュアルは言葉よりも、いろんなものを伝えられるんだと感じましたね。

小学4年生のとき、設計事務所を営んで成功や失敗を繰り返していた父と、母が離婚して母子家庭に。母と妹と暮らすことになりました。横浜市に引っ越して新しい暮らしが始まります。学校生活は、青春という感じで楽しかったですね。高校に進み、大学進学を考えていました。しかし、卒業を前にして母が病気で急逝したんです。妹と二人遺されて、大学進学どころではなくなりました。

悲しかったですが、一方でどこかで開放感もありました。ここからは、自分でやっていかなくちゃいけない。悲しみの一方で、自立心が芽生えたんです。とにかく妹がいたので、なんとか生きていかなければと、親戚の経営する土木事務所に入って働きました。でも、専門知識を学んだわけでもないから、これから何をやるの?という気持ちになって。将来の希望を何も感じられなかったので、自分は何をしたいのか改めて考えました。

20歳になっていたので、今から大学に通い直すのもなんだか違う。専門学校なら2年くらいだからいいんじゃないか。そこで、思い出したのは写真でした。小学校の頃見た衝撃的な写真が、ずっと記憶に残っていたんです。また、テレビ番組で見た事件記者に憧れがあり、世の中の不正を暴く仕事がかっこいいなと思っていました。さらに、世界が動いている現場を見てみたい、未知の世界を知りたいという思いもあって。写真を軸に報道に携われば、それら全てができるかもしれないと考えました。報道カメラマンを目指し、専門学校へ通うことにしたんです。

戦場へ


学校には1年半通いましたが、学費を払うのがいやになってしまい中退し、靴メーカーの専門雑誌の撮影の仕事を始めました。街で若い男女のファッションスナップを撮ったり、ファッションショーを撮ったり。食わなきゃいけないからやっているけれど、心の中は報道の仕事をやりたいと思っていました。ファッションの仕事を続けても、超一流と言われるカメラマンにはなれないだろうと。

そう思っていた矢先、ソ連がアフガニスタンへ侵攻したというニュースを見ました。1979年の12月のことです。ベトナム戦争以降初めて、世界を巻き込むような戦争が起きようとしている。時代が動く瞬間だと感じました。行きたい、とにかく行きたい。ファッションの仕事をやっているけど、どうしても行きたい。強烈な思いに突き動かされ、先輩や友達のところを回って、お金をカンパしてもらいました。身一つでアフガニスタンへ向かったんです。

海外へ行ったこともありませんでしたが、怖さは全くなく、ワクワクしていました。直行便はなかったため、一旦ヨーロッパへ飛び、トルコを通ってパキスタンの北西部のゲリラの事務所を訪ねました。英語なんて「This is a pen」くらいしか使えませんでしたが、わからないなりに「日本人です。写真を撮って戦場のことを伝えたいんです。戦場に行きたいんです」と伝え続けました。お前何者だ、と警戒され、最初のうちは全く相手にしてもらえませんでした。でも、毎日朝から行って事務所の人に顔を覚えてもらい、一緒に昼食を食べて話をしました。その中で、スパイじゃない、無害な人間だとわかってもらおうとしたんです。

そうして2カ月がすぎたある日、ついに戦場に連れて行ってもらえることになりました。とにかく暑い中、トラックの荷台に弾薬箱を敷き詰め、その上に乗ってアフガニスタンまで移動します。下には弾薬があるのに、みんなタバコを吸っているんですよね。日本の安全基準なんて全く通用しない、自分がしっかりしていないと生きていけない世界。ワイルドな感覚で、すごく面白いと思いました。

戦場に行って写真を撮り、日本に戻ると雑誌に掲載してもらうこともできました。しかし、何もわからなかったというのが正直な気持ちでした。そこから、何度もアフガニスタンを訪れました。食べ物は脂が多くて合わないし、どんどん痩せて、肝炎になって全身真っ黄色になって2ヵ月入院したこともありました。でも、辞めたいとは思いませんでしたね。

何者かになりたいという思いがあったんです。何か自分の生きた証を残したい。そのために、戦場に行き続けていました。続けていると、そのうち仕事をもらえるようになります。フィリピンでマルコス政権が倒れる瞬間など、歴史的な現場に立ち会うことができました。

誰かが伝えないといけない


36歳になった頃、アフガニスタンの取材に参加しないかという話が新聞社から舞い込みました。新聞社とテレビ局が共同で取材を行う試みが始まったころで、「君はテレビの取材をしろ」と8ミリビデオカメラをポンと渡されたんです。映像取材などしたことのない僕でしたが、自信たっぷりな顔を繕ってアフガニスタンに向かいました。本格的なテレビとの出会いでした。それまでは、ペンとスチールカメラでの取材でしたが、動画で伝えることの魅力に取りつかれたんです。

翌年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の取材に向かいました。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に反対するセルビア人が、首都サラエヴォを包囲し、戦闘が起きていたのです。NHKの取材で予算もしっかりついており、戦場の取材のプロフェッショナルとして認められた感覚がありました。

現地の状況は過酷でした。サラエヴォに住む人々は、街から出ることができない状態。みんな逃げ出したいのに、毎日砲弾が飛んできても逃げられないのです。しかし、僕たちジャーナリストは、自由に行ったり来たりすることができました。

イタリアから飛行機でサラエヴォに入ると、そのあまりの違いに驚くんです。イタリアは太陽が燦々と輝いていて、綺麗なお姉ちゃんがたくさんいて、うまいものもいっぱいある。でもそこから1時間飛んでいくと、景色が変わるんです。サラエヴォに近づくにつれ、眼下には砲撃などで破壊され、瓦礫になった家々が増えていきました。天国から地獄。でも僕らはまた、地獄から天国に戻れる。不思議な感覚でした。なんなんだろう、この仕事、と疑問を感じ、自分がジャーナリストとして在る意味を考えました。

サラエボの中にいる人は、発信手段もないからどうにか現状を、状況を伝えて欲しいと思っている。やっぱり誰かが伝えないといけない。ジャーナリストは現場に入って得たものを、伝える義務がある。強い責任を感じました。

取材し始めた頃は、正直世界平和なんて考えたこともありませんでした。でも、仕事をしていく中で、その責任感はどんどん強くなっていきましたね。色々な命を受け取って、背負っていくのだと感じました。

突然の襲撃


40歳に差し掛かった頃、山本美香という女性と出会いました。テレビ局でディレクターや記者をしていて、戦場に行きたいというんです。気が強くて根性はあったけれど、華奢な女性。現場で通用するかはわからないと思いました。

しかし、何度も頼まれ、アフガニスタンに連れていくことに。行ってみると、しっかり取材のできる彼女は力になりました。加えて、男社会のイスラム社会で普段は隠れている女性たちの姿を、女性だからこそ取材できたんです。男では知ることのできない女性の目線、女性の意見を取材できるのは、かなり貴重でした。

それから彼女と一緒に、様々な国を回りました。籍こそ入れませんでしたが、事実婚の関係になり、まさに運命共同体でしたね。チェチェン、ウガンダ、サラエヴォ、イラク…。戦場は一つとして、同じものはありません。何度行った土地だとしても、行く場所も、そこへ行くための手段も、取るべき素材も毎回変わる。過去は経験としては役にたつけれど、蓄積が何もないところから取材をスタートさせるんです。特に戦場の取材は、取材場所にいくためのコーディネーションが全て。コミュニケーションが取れるかどうかで取材の可否が変わります。毎回、痺れましたね。年に4回ほど海外に行き、半年は日本の編集室にこもる暮らしが10年ほど続きました。激務でしたが、やりがいを感じました。

2012年、シリア内戦の取材で、アレッポという地域に向かいました。戦闘地帯で警戒しながら進んでいましたが、市民も家の外に出ている状態で、戦闘は行われていませんでした。歩いていくと突然、前方に武装集団が現れたんです。向こうは我々が来るのを、待ち構えていました。銃撃。みんな散り散りになって逃げましたが、彼女が撃たれたんです。彼女はそのまま、帰らぬ人となりました。

その思いは、表現することができません。どんな言葉を持っても、表現できない。パートナーであり、同士であり、部下でもある彼女を現場で失ったのは、全て、現場での判断をした自分の責任でした。逆が一番よかったんです。美香が生き残って僕がいなくなればよかった。俺の方がでかいし目立つし男だし、ターゲットにしたらちょうどいいはずなんです。なぜ彼女だったのか。痛恨の極みという言葉でも言い尽くせない、深い後悔がありました。

彼女の遺体とともに帰国すると、メディアの取材が殺到。質問には全て答えました。それが彼女を守る唯一の方法だと思ったからです。必死でした。

人生の戦いはまだ残っている


状況が落ち着くと、なぜ、生き残ったのが自分だったんだと自問しました。イスラムの世界では、神が与えた使命があるから生きているのだと考えます。何かをするために残したのだと。人知では計り知れない人の生死。もし神様がいるのなら、「お前の人生の戦いはまだ終わっていない」と言われている気がしました。

だから、それからも戦場に行き続けました。毎日、写真で彼女の顔を見ます。美香の死でこの仕事を辞めてしまったら、彼女と一緒に、これまで自分がやってきたことが全部嘘になる。そしてそれは、今まで取材させてもらった人たちに失礼なことだと思いました。自分が苦しいからやめました?馬鹿野郎、今までやってきたことはなんだったんだ、責任果たしてないだろ、そう言われる気がしたんです。生き残ったからには、戦場に立ち続けて、その場で起きていることを伝え続ける。でも、その責任がどれだけ重くなったとしても、飯も食い酒も飲む。そうでなければ生きている意味がないでしょう。人間はみんな弱虫だから、自分に正直に強がって生きるんだ、と思うようになりました。

戦場に向かい続ける傍ら、彼女の想いが、やってきたことが、のちのジャーナリストの灯台のような役割を果たせたらいいと考えました。彼女の、僕らの取材の原点は「怒り」でした。社会への、戦争への、理不尽への怒り、なんでこんな世の中なんだという、不条理への怒り。それがあるから伝え続けたんです。そんな彼女の想いを、ジャーナリストとしての名前を、遺してあげたい。彼女が持っていた理想というバトンを、後からくるジャーナリストに繋げたい。そんな思いから、彼女の名前をつけたジャーナリストを支援する財団を立ち上げました。

現場から、事実を伝え続ける


今も、戦場ジャーナリストして現場に立っています。これまで何度も、時代が動く瞬間を実際に見て、伝えてきました。2017年にはISのイラクでの本拠地・モスルが、イラク軍によって陥落するのを取材しました。そういった戦場からの中継をするほか、大学での講義や書籍の出版、山本美香記念財団の運営もしています。

僕が伝えたいことは、当たり前のことですが、戦争をやっちゃいけないということです。伝えるだけで戦争を止められる訳ではないし、自分が伝えていることはほんの一部。ある立場の、ある角度から見た一部のみを伝えているので、真実ということではないかもしれません。でも、一つの事実であるのは確かです。凄惨な現実の中で生きざるを得ない人たちがいるという事実。

ジャーナリストは裁判官ではありません。判断するのは情報の受け手です。ただその受け手に、今も戦争で殺されている人がいるという事実を伝え続けていくことが、その人が物事を判断する上での一助になる。物事を立体的に見るための事実を提供するのが、僕の仕事だと思っています。

今の時代、インターネットが発達し、人は自分の好きなことに特化して情報を得るようになりました。でも、興味や関心がなくたって、自分に関係するものはたくさんある。戦争が起きると、歴史が変わる、経済が変わる、暮らしが変わる。全てがそこに詰まっているんです。だから、そこに好奇心を持って欲しい。僕はいの一番に、そこで何が起きているのか知りたい。そこに行けない人も、薄っぺらいコメンテーターの言葉じゃなく、現場にいる人の言葉に耳を傾けて欲しいと思うんです。だからこの仕事は必要とされていると、僕は確信しています。

今後も現場に行き続けたいですね。肉体的に戦場にいけなくなることもあると思いますが、そうなったらテレビなどを通して、どう伝えていくかを考えたいです。戦争がなくなり、みんな豊かな、より良い社会になってほしい。そのために、伝え続けていくことしか自分にはできないと思っています。

2020.02.25

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛
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