栄光と挫折のプロ野球人生。 受けた恩を胸に、人々の人生をサポート。

プロ野球選手として14年間戦い、2018年に引退した鵜久森さん。現在は生命保険会社でライフプランニングをサポートする仕事をしています。独りよがりだったという鵜久森さんが、プロ野球の世界で悪戦苦闘する中で見つけた人生の軸とは。お話を伺いました。

鵜久森 淳志

うぐもり あつし|ソニー生命保険株式会社柏支社第7営業所 ライフプランナー
愛媛県松山市生まれ。私立済美高校で4番打者として甲子園で活躍。2005年に北海道日本ハムファイターズ入団。2015年に戦力外通告を受け、合同トライアウトを経て東京ヤクルトスワローズに入団。2018年に引退。その後、ソニー生命保険株式会社に入社し、生命保険営業を担当。

高校野球は人生で一度きり


愛媛県松山市に生まれました。1つのことに集中しやすい性格の子どもでした。近所に虫捕りに行ってトンボを見つけると、他の虫は全く目に入らなくなり、そのトンボだけを狙い続けていましたね。

小学4年のときに、友達に誘われてソフトボールを始めました。チームに大学野球で実績のあるコーチがいて、基礎からわかりやすく教えてもらえたので、すぐに夢中になりました。夢中になると、うまくなるためにいろいろ試します。何事も練習すればできるようになるという考えだったので、苦手なところはひたすら反復練習。自由に使える時間は全部ソフトボールに注ぎ、少しずつ上達していきましたね。

小学6年の冬にソフトボールを引退すると、リトルリーグに入りました。入団したのは、ギリギリ試合ができる程度の部員数でありながら、個々の運動能力は非常に高いチーム。大会ではあれよあれよと勝ち進み、まさかの全国優勝を果たしました。8カ月間、練習漬けでしんどかったので、試合に勝てたのは純粋にうれしかったです。ただ、全国優勝の凄さをわかっていなかったので、達成感はあまりありませんでしたね。

その後、中学でも、硬式野球のクラブチームに進みました。しかし、あまり上達しなかったので、卒業を区切りに野球をやめようと思いました。自動車整備に興味があったので、高校受験のために自動車の勉強を始めました。

そんなとき、小学校時代のソフトボールのコーチに再会しました。「お前これからどうするんだ」と聞かれたので、「野球やめて自動車整備始めようかなと思います」と答えると、「自動車整備は高校が終わってからもできる。でも、人生において、高校野球は一回しかないよ」と。その言葉がすっと心に入ったんです。今しかできないことをやりたいと思い、野球を続けることを決意しました。

1つ上の兄が強豪校で野球をやっていたので、そこに行こうかなと思いました。そのことを兄に話すと、「お前は来るな」と言われ、別の高校を勧められました。その高校はもともと女子校でしたが、共学化にあたり次年度から野球部が新設される予定の学校でした。監督には、甲子園優勝経験があり、厳しい指導で有名な方が招かれることが決まっていました。兄は私の性格をよく知ったうえで、「しごかれてこい」と背中を押してくれたんです。兄が勧めてくれた高校で、1度きりの高校野球に青春を捧げることに決めました。

本気でプロ野球選手を目指す


せっかく野球を続けるなら、目標を決めて本気でやろう。考えうる最も高い目標はプロ野球選手だったので、プロになるための道のりを逆算して日々の行動を決めることにしました。

まず、プロのスカウトの目に留まるためには、高校野球の雑誌に載るのが近道だと考えました。雑誌に載るには、球が速かったり足が速かったりというわかりやすい強みが必要です。最初は、注目を集めやすい投手をやろうと思いましたが、コントロールが悪く、すぐ監督にクビにされました。自分でも才能がないと気づいていたのですぐに切り替え、野手の道には何が必要か考えました。しかし、足は遅いし、守備は下手…。バッティングを武器にするしかないと思いました。

バッティング一本で高校野球の雑誌に載るためには、ホームラン数を稼ぐことが必要だと思いました。この時点では、45キロのベンチプレスが1回しか上がらないほど非力でした。しかし、努力すれば何でもできるという考えがあるので、無謀だとは思いませんでした。そこから、ひたすらホームラン数を伸ばすための努力をする日々が始まりました。

監督は前評判通りとても厳しく、肉体的にも精神的にも地獄のような練習の毎日でした。全国で一番練習した自信がありましたね。そのおかげで徐々にパワーがつき、1年では4本だったホームランは、2年で17本も打つことができました。公式戦でも4番を任されるようになっていました。

2年の秋、翌春の甲子園がかかった大一番。試合を分ける場面で打席が回ってきました。ここで打ったら雑誌に乗れるかもしれないと思って振りぬくと、見事ホームラン。甲子園を決定づける一打を放つことができ、「やっと舞台に立てる」と思いました。

甲子園では、スカウトの目に留まるチャンスだと思って必死で戦い、2本ホームランを打つことができました。チームも甲子園初出場初優勝。注目度は上がりましたが、全く気が緩むことはありませんでした。春優勝しても、夏出られないと評価されないと思い、練習に打ち込みました。

夏の県予選では、各チームからしっかり対策され苦しみました。特に私は引っ張る打球が多かったため、左に詰めて守る「鵜久森シフト」が敷かれました。相手の狙い通りシフトに引っかかり、凡打の山。決勝でも大事な場面で打てませんでしたが、チームメイトのおかげで甲子園出場が決まりました。

自分のせいで負けたと思った試合を、仲間が救ってくれた。甲子園では絶対恩返ししようと思いました。同時に、監督がいつも私に言っていた言葉を思い出しました。「お前らレギュラー陣は活躍したら、良い大学や企業に入れる。でも、裏方に回ってくれたやつが何人いるんだ?お前らが勝つことで野球部の評価を上げて、そいつらの評価もあげるんだ」。自分のことだけ考えていれば良い立場ではないんだ。チーム全員の人生を背中に感じ、甲子園で絶対優勝しようと思いました。

甲子園では3本ホームランを打ち、チームも順調に決勝まで勝ち進みました。頂点まであと1つ。決勝は壮絶な打撃戦の末、3点を追いかけて最終回を迎えました。2アウトランナー1、2塁。ホームランなら同点の場面で打席が回ってきました。3年間の想いをバットに込めました。しかし、ふらふらと上がった力のない打球は、相手の遊撃手のグラブに収まりました。ゲームセット。飛び出す相手ベンチの部員たち。チームメイトに恩返しできず、残るのは悔しさだけ。約4000校の中の2番目になっても、達成感はありませんでした。

このままじゃ終われない


甲子園での最後の試合には強い後悔が残りましたが、高校時代の活躍が認められ、目標としていたプロ野球の球団から指名を受けることができました。今までの努力が報われて凄くうれしかったです。ただ、まだこれがゴールではないから、もう一回頑張ろうと気を引き締めました。

入団するとすぐにコーチにいろいろ指導されましたが、素直に聞き入れることができませんでした。今まで自分で試行錯誤しながらやってきたから、自分の力で勝負したいと思ったんです。高校時代の活躍によってプライドが高くなり過ぎていました。結果、試合では全く打てず、プロの壁にぶち当たりました。それでも、コーチの指導に耳を傾けることができず、焦りと葛藤の中で自分の殻に閉じこもる時期が長く続きました。

3年間全く芽が出ず、もう契約を切られるかもしれないと思い始めていたとき、新任のコーチが「鵜久森を一年間、僕に見させてください」と言ってくれたんです。もうこの人についていくしかないと思いました。

4年目。頑なに変えなかったバッティングスタイルを、コーチに言われた通りにしました。自分の持ち味は長打でしたが、まずは当てないと意味がないので、ミートを重視するフォームに変えたんです。その結果、一軍で初めてヒットを打てました。人に言われた通りにしたほうがうまくいったんです。

出場機会は徐々に増えていきましたが、レギュラーを獲ることはできませんでした。代打に活路を見出そうとしても、なかなかうまく自分を表現できません。答えの見つからない世界を彷徨っている感覚でしたね。

11年目のオフ、戦力外通告を受けました。自分のポテンシャルを発揮しきれなかった気がして悔しかったです。このままでは終われない。やれることはやろうと思い、合同トライアウトを受けることに決めました。

「誰かのため」が力になる


トライアウトは、100人中1、2人しか受からない狭き門です。そんな中、自分の力を出し切った結果、合格することができたんです。その球団の首脳陣を始めいろいろな方々が「鵜久森はまだ行ける」と判断してくださりました。入団が決まったときは今までにない感情が湧きました。

戦力外通告を受けると、もう一度野球をやりたいと思っても叶わない人が大半なんです。拾ってもらえた自分は、まだ野球を続けられる。人は自分の力だけではなく、人に助けられて生きているんだなと実感したんです。今までは自分のことしか頭にありませんでしたが、人のために頑張ろう、期待してくれた方々に恩を返そうと決心しました。

球団には、自分より先にトレードで移籍していた前の球団の先輩がいました。久しぶりの再会を懐かしんでいると、その先輩に「お前変わったな」と言われたんです。先輩から見ると以前の私は、人の言うことを聞かないイメージだったそうです。それが、素直になって言い訳しなくなっている。昔の自分を知る人に言われて初めて、意識が変わった感覚を得ました。

そして迎えた移籍後初めての試合。先輩が「ニュー鵜久森、行ってこい」と背中を叩いて送り出してくれました。新しい自分を見せる。そう誓って打席に向かいました。ストレートを待とう、右方向に打とうなど技術的なことはあまり考えず、こんな舞台にもう一度立たせてくれた球団、監督に恩返ししたいという気持ちだけがありました。

人のために、打ちたい。その想いで打った瞬間、球場が静まり返りました。大観衆の視線を集めた打球は、弧を描きスタンドイン。球場が湧きあがりました。ダイヤモンドを周りながら、支えてくれた人への感謝の気持ちがこみあげました。意識を変えると結果がついてくる。人にために頑張ると、自分だけでできなかったことも成し遂げられるんだと思いました。

その後も、代打サヨナラ満塁ホームランなど、今までの自分では出せなかった結果を出していきました。「鵜久森が出たら流れが変わる」と思ってもらえる選手になろうと、自分の役割に徹しました。

どういう人生を送りたいんだ?


移籍3年目、若手の台頭もあり、出場機会が減りました。チャンスをもらえればまだ頑張れる気概はありました。しかし俯瞰して自分を見てみると、若手にチャンスを与えたほうがいい、鵜久森選手は必要ないと思ってしまうんです。そのとき、野球人生で初めて限界を感じましたね。今が引き際だと思い、引退を決意しました。

その後、セカンドキャリアを探していろいろな会社を回りました。その中でプロに同期で入団したのち、引退して生命保険会社で働く友人に会いました。会社員になって2年目でしたが、プロ野球選手時代とは別人に見えたんです。立派なビジネスマンとして輝いていました。セカンドキャリアで素敵な仕事に就いていてすごいと思いました。

すぐにその会社の支社に話を聞きに行くと、支社長に「どういう人生を歩んで行きたいの?」と聞かれました。今までは「うちの会社に来ませんか?」というスタンスの会社が多かったので、予想外の問いかけに驚きましたね。自分が何をやりたいのか、改めて考えました。人生を振り返ると、プロ野球選手生活の中で、打撃指導を請け負ってくれたコーチ、戦力外の自分を拾ってくれた球団など、自分を応援してくれた人たちの顔が思い浮かびました。今までたくさん人に支えられてきたから、今度は自分が人を支える番。だから、人のためになる仕事、鵜久森がいて良かったと思われる仕事がしたいと思ったんです。いろいろな話を聞く中で、人の人生に寄り添える保険の仕事に惹かれ、その会社に入社を決めました。

人生に寄り添い、助ける仕事を


今は、ソニー生命保険株式会社で、生命保険の営業を担当しています。営業といっても、単に保険商品を売るのではなく、お客さまのライフプランを一緒に考える仕事です。ライフプランを決める上では、ビジョンが大事だと思います。お客さまの相談に乗り、自分の人生観や野球で得た経験を活かし、「どういう人生を歩むか」の判断をサポートしていきたいです。

また、ビジネスマンとして力をつけて、アスリートのセカンドキャリアの支援に取り組み、野球界を外から盛り上げていきたいですね。

球場は多くの観客に感動を与えられる場所でしたが、保険は一人一人のお客さまの人生に長く深く寄り添える仕事。自分の活躍が全てだった世界から、人を応援し続けられる仕事に転身できて幸せです。人のために生きたいという自分の軸に近づけたからです。多くの人々に励まされ、助けられてきたからこそ、今度は自分がいろいろな人を助けていきたいです。

2020.02.17

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊藤 祐己
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