日常にワクワクを仕掛け続ける男。 エンタメを極め、世界を繋ぐ。

「イベントプロジェティスタ」として、数万人規模のイベントを手がける吉田さん。阪神淡路大震災の被災経験から「国際協力」「エンタメ」に興味を持った吉田さんが、両方の夢を追って歩いてきた軌跡とは。お話を伺いました。

吉田 猛

よしだ たけし|イベントプロジェティスタ
兵庫県神戸市出身。新卒で芸能事務所ホリプロに入社し、マネージャー経験を積む。藤原竜也、内田朝陽、高畑充希、香椎由宇、中尾明慶、鶴見辰吾などを担当した。その後、イギリスの大学院、JICA、外務省を経て、現在は米国サンフランシスコにあるエンタメ企業、NEW PEOPLE, Inc.にて様々なイベントをプロデュースしている。

いじめられっ子からの脱却


岡山県岡山市で生まれ、兵庫県神戸市で育ちました。幼少期は元気なガキ大将でした。小学校に上がると、リーダー格の人が集まるグループの一員に。気の強い人が多かったので、嫌われたくなくてご機嫌を伺うようになりました。何を言われても「うん」と答えているうちに、だんだんパシリのような扱いになっていったんです。それがきっかけで、中学に上がる頃は、いじめられていました。

そんな中、中学の学年集会で生徒会員を決めるとき、周りが誰も手を上げない中、「吉田が立候補したら…」的な雰囲気になって、しぶしぶ手を上げると、生徒会に入ることが決まってしまったんです。それが僕を変えました。

生徒会は学年に男女1人ずつ。集団には、先頭に立ってその集団を引っ張るリーダーと、集団とリーダーを繋ぎ様々な不満・問題を解決して全体がうまく進むように動くミドルマンが存在します。そうでないと集団は絶対うまく回りません。たまたま、生徒会の相方がリーダータイプだったので、僕の役割はミドルマン。それがバシっとハマりました。いじめられっ子だった経験も手伝って、無意識のうちに人や集団を一瞬で観察して気くばりができる人間になっていました。昔はそんな自分が嫌でしたが、他の人に無い自分の誇れる能力の1つだと思えました。

リーダーを立てながら、裏で集団を円滑に回していくのがすごく楽しかったです。徐々に周りの目も変わっていき、いじめられなくなりました。上手く集団をまとめられたことで自信がつき、メガネをコンタクトに変えて中学デビュー!(笑)その後、文化祭や体育祭の実行委員など、ありとあらゆるイベントの縁の下のまとめ役を全部引き受けました。

震災時に勇気をもらった、非日常体験


中学3年のとき、阪神淡路大震災に遭いました。日曜日で、次の日に大好きなサッカーの授業があったので、早く明日になってほしいと思っていたときでした。しかし、そんな日常は消え去り、体育館での避難所生活が始まりました。たくさんの人々が目の前で亡くなっていきました。今日のご飯を食べられる分からない不安が続き、水が流れないから必死でトイレの場所を探す毎日。今日を生き延びるためだけに生きていました。

そんな中、世界中から多くのアーティストが被災地支援ライブに来てくれました。ラジオから流れてくる沢山の番組や音楽もたくさん聴きました。生きるためだけに気を張り続けていた中、そんなエンターテイメントに触れると、力が湧いてくるんです。明日も頑張って生きよう。暗い日常から色鮮やかな非日常に連れて行ってくれるライブや音楽は、生きる希望でした。

見ず知らずの国の人の危機を世界が一つになって助けようとしてくれていることがすごく嬉しくて、自分もいつか恩返ししたいと思うようになりました。自分がエンターテイメントからもらったような、人を勇気づけられる非日常を作り出せるようになりたい、と。震災を機に、国際協力とエンターテインメントに興味を持つようになりましたね。

エンタメの世界にのめり込む


高校でも文化祭実行委員などを務めるお祭り男でした。卒業後の進路を考えるとき、国際協力とエンタメに興味はあったものの、仕事に結びつくイメージが持てなかったので、子どもの頃からなんとなく興味があった医者を目指しました。しかし、勉強があまり得意ではなく、浪人することになりました。

2浪目が決まった後、国連で活躍する、一人の女性を知りました。難民を救うために世界中を飛び回り、各地の紛争解決に尽力してきた方でした。自ら末端の現場まで足を運び、自分の目で確かめた真実に基づいて、本当に必要な支援を届けようとしたんです。その姿に感動し、彼女を目標に据え、医学部から国際関係学部志望に転向。東京の私立大学の国際政治・経済コースに入学しました。

大学では国際協力の勉強をしながら、エンタメにも関わりたいと考えていたところ、知り合いがクラブのイベントのプロデューサーを紹介してくれました。クラブのことを何も知らなかったので、しばらくはそのプロデューサーのカバン持ちをしていました。受付やステージ設営、音響準備など、なんでも屋のように仕事をこなしていると、芸能事務所の方に「一緒に働かないか」と誘われました。エンタメに関われる仕事です。願ったり叶ったりだったので、二つ返事で就職を決めました。クラブでの仕事の裁量も増えていき、大学卒業間近のときには、芸能業界に内定が決まった人を一堂に会してイベントを主催しました。イベントは大盛り上がりで横のつながりもでき、自信満々で社会人生活のスタートラインに立ちました。

厳しい業界で砕かれた自信


しかし入ってみると、先輩がテキパキこなしている仕事に全然ついていけません。学生時代の自信は、良い意味で完全に打ち砕かれました。それでも、自分を何とか奮い立たせて、デスクや会議室の雑巾がけ、灰皿処理から1つ1つ仕事を覚えていき、事務所所属の芸能人のマネージャーの仕事を任せてもらえるようになりました。マネージャーの仕事は、担当した タレントの売り出し方を考え、その方針に沿って、仕事を取ってくる仕事です。担当タレントとタッグを組んで、タレントは演じる、僕はプロデュースして仕事を取ってくるという役割分担。芝居の仕事を増やすか、バラエティーに出るか、歌を歌うか。プロデュース戦略を考えて実現していくのは、初めて自分の力で仕事をできている実感があり、すごく楽しかったです。

担当するタレントのプロフィールは常に持ち歩き、人と会うときは必ず営業をかけていました。仲の良い芸能界同期は僕の営業方針内容の理解が速く、僕がいない場所でも僕の担当俳優を売り出してくれていました。大学時代に芸能界同期のイベントで作ったつながりが活きて、嬉しかったですね。

約3年間働いて、エンタメの面白さは体感でき、ただ、国際協力の世界にも未練があったので、後悔しないようにチャレンジしようと思いました。憧れを追って国連に入ろうと思い、入るための最短ルートを考えました。直接入るよりも、外務省から出向するルートに可能性を感じました。外務省に入るためには、修士号が必要だったので、まずイギリスの大学院に進学。海外勤務経験も必要だったので、JICA(国際協力機構)の職員になり、アフリカはガーナで働いたのち、外務省に入りました。

国際関係・協力業界から、再びエンタメ業界へ


外務省では、アメリカのシカゴエリアの担当になりました。日本政府はソフトパワーの輸出に力を入れており、日本の文化やコンテンツのPRが主な仕事の1つでした。在シカゴ日本総領事館で働いているとき、エンタメ企業のアメリカ進出支援に携わる中で、感じていた課題があったんです。いろいろな相談に乗る中で、「ブロードウェイに出たい」「シカゴでイベントをやりたい」というふうに、やりたいことが決まっているのに、どうやればいいのかがわからないという声が多くありました。アメリカ進出を目指す日本人や日本のコンテンツを受け止める体制が充分整っていなかったんです。ならば、自分がアメリカ側のキャッチャー役として日本人を、日本のコンテンツを受け入れよう。日本のエンタメ業界のアメリカ進出をお助けしようという想いが強くなり、日本のコンテンツをアメリカで発信する会社に転職を決めました。

WhoかWhyか


転職先の会社は、本社がサンフランシスコにあるので、スタートアップ企業が集まるシリコンバレーにもよく営業に行きました。営業先で名刺を交換し、当たり前のように肩書きを説明し始めようとしたら、「あなたの創りたい世界は何ですか?」と聞かれたんです。自分の 創りたい世界なんて考えたことがなかったので、言葉に詰まってしまいました。そこで、会話終了です。日本の営業は、肩書き・身分を明かすこと、つまり「Who」のコミュニケーションから始めますが、シリコンバレーでは、もっと言うと、アメリカでは、なぜそのビジネスをするのかという「Why」が最重要だったのです。

「Why」から話すやり方は、例えば、アップルのスティーブ・ジョブズが取っていました。コンピューターを売り出すとき、いかに機能が優れているかではなく、「我々は世界を変えるという信念を持っています。その方法が、美しくデザインされ簡単に使える、このコンピューターなんです」とまず自分が創りたい世界を先に語るんです。つまり、なぜこれを作ったか、「Why」から始める。そこで語る大きな夢への共感こそが、人を動かすからです。

その衝撃を受けてから自分の「Why」を考えるようになりましたが、簡単には見つかりません。とりあえず、当初の目的だった「日本のコンテンツのアメリカ進出時のキャッチャー」として何かできないか考えました。日本文化・コンテンツの受け入れ体制を作りたいという気持ちがあったので、その受け皿となる「J-POP SUMMIT」というイベントをプロデュースしたんです。

日本のアート芸術、食、イノベーションをテーマに据え、様々な才能が化学反応を起こす「オープンな遊び場」づくりを目指すことにしました。企画アイデアが浮かんでから1年間、スポンサー・出展社集めから、アーティストとの出演交渉、様々な企画などの準備に、数えきれないほどの多くの人々の協力を得て、奔走しました。

そして迎えた本番当日。イベントは大成功でしたが、停電、音飛び、映像のトラブル対応など裏方を見て回るのが忙しく、ステージの様子を気に掛ける暇はあまりありませんでした。フェス終了後、会場出口で待機して、ぞろぞろ出てくるお客様を見送りました。

そこで見た、晴れやかな顔、満足げな顔。お客さまの背後にはスタッフたちの姿が見え、ハイタッチしたり、抱き合ったり。イベントを作り上げた1人1人の様子を見ていると、感極まりました。イベントに来た人の心が少しでもプラスに動いていたことがわかり、すごく嬉しかったんです。この光景が、自分にとっての「Why」だと確信しましたね。

日常にワクワクを仕掛ける


今は、「イベントプロジェティスタ」として活動しています。イベントのプロジェクトマネジメントのプロフェッショナルという意味です。今は日本だけに止まらず、アメリカでイベントをやりたい様々な国の企業と一緒にイベントを作り上げています。

例えば2019年は、日本アニメのモバイルゲームの世界一を決める大会をラスベガスでプロデュースしました。文字通り、世界各国にいる日本のアニメゲームファンの中から、ゲームプレイヤーの世界一を決めるんです。日本のコンテンツによって、国境を超えたつながりを作ることができて感無量でした。

中高の文化祭、大学時代のクラブイベント、そして社会人になってから関わっている「J-POP SUMMIT」を含む多くのイベントと、規模もジャンルも違うイベントに関わってきました。しかし、やっていることは常に中高時代の文化祭がベースにあります。親友の誕生日会を5人でやるのも、著名アーティストのライブコンサートを数万人でやるのも、根本的に、文化祭をやることと、何ら変わりません。運営側も観客も一緒になって、ハッピーな空間をつくるだけ。だから、僕のニックネームは「永遠の文化祭実行委員」だと思っています。

イベントづくりで大事にしているのは、「Same Page People」という考え方。自分がいない状態でも、「自分の創りたい世界とその理由、やっていること・やりたいこと」を完全に説明できる自分の仲間、という意味です。芸能事務所で働いていた時の仲間と同じように、ここシリコンバレーにもSame Page Peopleな仲間がたくさんいて、支えられています。

オフラインで人が集まると、Face to faceでイベントを実施すると、予想外の出会いが必ずあります。そこで化学反応が起こるんです。かつて阪神大震災時に避難所でライブを見た時の僕のように、参加することで心がプラスに動く発見がある。だからこそ、人々はイベントに魅了されるんです。イベントを化学反応が起こりやすい空間にするために、最近はプロデューサーだけでなく、ディレクターとして演出の細部の作りこみにも関わり始めました。見えてきた僕の「Why」は、「イベントを通じて、ワクワクする非日常が日常になる世界を創り出したい」。自分の創りたい世界の実現のため、より多くの人をワクワクさせられるイベントづくりを目指していきます!

2020.02.06

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊藤 祐己
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