自分の力が発揮できるフィールドを選ぶ。受け継いだアルミ工場で仲間とともに作る道。

【トマト銀行提供】父の仕事を継いで、岡山県のアルミ製造会社の代表を務める青山さん。「肉体労働でしんどい仕事。だからこそ自分にとって価値があった」。そう語る青山さんが見出した仕事の価値とは?お話を伺いました。

青山 圭一

あおやま けいいち|株式会社山陽アルミ代表取締役社長
1979年創業、岡山県で40年続くアルミ鋳造の会社、株式会社山陽アルミの代表取締役を務める。

一点集中すれば大人にも負けない


岡山県岡山市に生まれました。両親は共働きで忙しく、学童保育に預けられて過ごすことが多かったです。

小学1年生の時、父からクリスマスプレゼントにオセロをもらったのがきっかけで、オセロに夢中になりました。毎晩父に相手をしてもらい、だんだんと上達して強くなっていくのが楽しくてのめりこんでいきました。小学5年生になると、父にも勝てるようになっていました。

学校でもオセロが流行っていて、友達と対戦しても圧倒的に強く、一人勝ちの状態でした。「自分の力がどれくらい通用するのか試したい」と思い、ある時、大人も混じるオセロの岡山県大会に出場したんです。

大会当日、試合前に父親とオセロをしていたら「一戦やらない?」と声をかけてきた人がいました。その時、誰と対戦しても負け無しで調子にのっていた私は、「このおっさん、俺に勝負を挑むなんていい度胸だな」ぐらいの気持ちで申し出を受けました。そうしたらボロ負けして(笑)。レベルが違うなと思いましたね。

その後試合が始まり、岡山県大会では優勝できたんです。そうしたら、さっき戦ってぼろ負けしたおじさんが大会委員長として挨拶に出てきて。その人はオセロの開発者の長谷川五郎さんでした。「私もさっき青山くんと対戦したが、強かったですよ」と皆の前で褒めてくれました。

大人も混じる大会で優勝できたことはもちろん、「オセロの開発者が自分の実力を認めてくれた」と感じ、とても誇らしい気持ちになりました。一つのことにのめり込んで頑張れば、年齢に関係なく成果を出せるんだ、という自信につながりました。

大好きな父の役に立ちたい


小学6年生の時、父が、勤めていたアルミ鋳物の会社から独立して、アルミ金型鋳造の会社を立ち上げました。僕も休みの日に手伝いに行くようになり、部品のヤスリがけなどをしていました。

地道な作業でしたが、親の仕事を手伝うことで、自分も大人の仲間入りができたような気がしてうれしかったですね。中学生になってからも、夏休みには仕事を手伝いに工場に行っていました。

経営が厳しく、父が大変なのは知っていました。父は、僕がオセロに夢中になった時も、毎晩仕事で疲れているのに楽しそうに僕の練習相手になってくれてましたし、中学で野球部に入部してからも、補欠の僕のために熱心にティーバッティングの練習に付き合ってくれていました。

いつも僕のやりたいことを応援して、一緒に取り組んでくれる父が大好きで、尊敬していました。少しでも、そんな父の力になりたかったんです。仕事の手伝いを続ける中で、漠然とですが、いつかは自分が後を継いで、この工場をもっと盛りあげて行きたいと思うようになりました。

高校受験の時期に差し掛かり、友達はどんどん野球推薦で高校を決めて行きました。そんな中、僕は将来父の後を継ぐことをなんとなく考えてはいましたが、そのためにこれを学ぼう、といった具体的なことは、まだ決められませんでした。みんなのように野球推薦もなかったので、必死に勉強して高校は地元の進学校に行きました。

卒業後は、コンピューターグラフィックを学べる大阪の大学へ。自分の手を動かして何かを生み出す作業が好きだったし、時代の先駆になる技術を学び手に職をつけることは、どんな形であれ将来にも必ず役立つだろうと思ったんです。

誰もやらない仕事で価値を出す


大学卒業後は、父のつてで取引先だったガス会社に入社しました。面と向かって話したことはなかったですが、いずれは工場を継ぎたいと思っていることは父にも伝わっていて「社会勉強してこい」という気持ちで送り出してくれたんだと思います。

最初はガスの検針、ガス器具の修理、給湯器やコンロを売る営業と多岐にわたり経験させていただきました。学生時代は、年代が近い仲間とフラットに言いたいことを言い合える自由さがありました。それが社会人になって、いろいろな年代、業種の方と関わる機会が増え、最初は環境の違いに慣れないことも多かったです。

上下関係も厳しい中、いろいろな価値観を持つ方たちと、スムーズにコミュニケーションをとれるように試行錯誤を繰り返す日々でした。次第に経験を積んで勝手を掴んでくると、積極的に仕事に取り組めるようになり、働くことを楽しめるようになっていきました。

3年ほどそこで経験を積んだ後、27歳で実家に戻り、父の工場で社員として働きはじめました。現場に入り、鋳造の仕事を学びました。

しかし、ちょうどその頃、バブルが弾けたんです。昔からの付き合いがあった会社が、経営が厳しくなったことで方針が変わり、それまでうちに振ってくれた仕事を、より安く請ける所に頼むようになりました。その結果、売上は減少しました。その分父がいろいろなメーカーに泥臭く営業に行って、なんとか仕事を取ってくることで、ギリギリで会社を保っているような状態でした。

だけど、不思議と不安はありませんでした。若い人材が入らず高齢化が進む、重労働の割に儲けが少ない、しんどい仕事なのは確かです。でも時代で人気の仕事は、それだけ優秀な人も集まってきますよね。自分は器用じゃないから、そのフィールドでは勝てないと思いました。

だからこそ、あえて誰もやりたがらないような仕事をやって、そこで価値を生み出したい。自分の中でその思いが定まっていたので、危機的な状況の中でも「じゃあ、この状況の中でどうやって価値を生み出していくか?」にしっかりと向き合うことができました。

チームで成果を生み出すのが楽しい


父が営業先を拡大したことで、食品関係のメーカーさんでいくつか受注がとれて、安定的な収入が増えていきました。他の同業者が収益が出ず、採用活動ができない中、うちは安定した収入があったので採用活動を継続しました。

すると、就職氷河期で各地で工場が閉鎖したり、物価が安い海外に移転する工場が増えたことも重なり、工業高校を出て、製造業を志望する若い年代の子がうちに入ってきてくれるようになったんです。それによって現場に活気がうまれ、会社の雰囲気も変わりました。

若い社員と一緒に遊んだり活動することも増えて、地元の3on3のバスケットボールの大会に出場し、優勝することもできました。一緒にいろいろな活動ができる仲間が集まったのが、純粋にうれしかったですね。

そんな中、ある自動車メーカーさんの部品製造の案件を受注することになりました。元々別の会社が受注していましたが、納期や品質に問題があって、うちに仕事がまわってきたんです。自動車メーカーさんとの仕事が初めてだったこともあり、立ち上げ当初は本当に大変でした。単純に製造数も多かったですし、滋賀で組み立てを行なっていたため、不良が出たらその都度滋賀まで飛んでいって確認していました。

そこで、改めて社員一人ひとりと密にコミュニケーションをとることを大切にしたんです。今の会社の状態やこれからの動き、展望などをしっかり共有していくことを心がけました。月に何万個と部品を作る中で、確実にチェックする、不良品を出さないように鋳造するなど、仕事を高いレベルでやり遂げる技術を上げるため、メーカーさんを招いて勉強会を開いてもらったりもしましたね。すると、だんだん社員の意識も変わっていき、一人ひとりが、「自分の持ち場に責任を持つんだ」という意識が強くなって、不良品がほとんど出なくなりました。

加えて、若手はベテランの職人技に、ベテランは若手の柔軟性や発想力に、お互いに学びながら、相乗効果で技術力は高まっていきました。苦手なことは得意な人に任すなど、いい意味で人に頼ることができるようになりましたね。もちろんベテランの対応が必要な仕事もあるんですが、若い子がやったほうが圧倒的に早い部分もあって。

そうやって協力してお互いの得意を生かし、苦手を補完するいいチームワークが固まったことで、安定した高い成果を生み出せるようになり、受注も増えていきました。

自分の選択を信じ、仲間と助け合っていく


現在は、株式会社山陽アルミの社長を務めています。主に、バイクや自動車など様々なアルミの部品を月に万単位で製造していますね。その他に農機具や、食品包装のメーカーともお付き合いがあり、多品種少量の方針で生産しています。順調に注文も増えて業績も伸びてきていますね。

現在はアルミ部品の金型設計・製造、鋳造、熱処理、機械加工までを行っていますが、今後は、その後に行う組立作業やメッキ加工までできるように自社の設備をもっと充実させていきたいと考えています。今はわざわざメッキ加工をするために、福山や神戸まで出しているんです。そこを自社でできるようになることで、運送費も削減できますし、製造できる製品の幅も広がり、取引先の拡大にもつながると考えています。

鋳造について、技術の伝承ももちろん大事ではありますが、型はどんどん新しくなるのでどうやったらうまくいくのか常に自分で考えることが重要になってきます。湯の温度、型の温度など様々な条件をデータ化して、蓄積することでスキルのレベルを揃えていきたいと思っています。

体力も根性も必要な仕事だからこそ、チームワーク、コミュニケーションは何よりも大切にしています。社長という立場ではありますが、一人で会社を回している感覚は全くなくて、現場をよりよくするためにも若い子からの意見も柔軟に取り入れています。今でも現場で作業していることが多いですね。

若い子が入ってくれたことで、自分が主導しなくても周囲が回る、ボトムアップの組織ができつつあります。新しい工場のレイアウトなども積極的に考え、活躍してくれていますね。薄暗い中で年配の社員数人で作業していた頃には想像もできなかったような、大きなレベルの仕事ができていて、素直にうれしいです。

自分には何ができるのか、どこでなら自分の力が発揮できるのかを考え、恐れずに行動に移してきたことで、今があると思っています。これからも社員がそれぞれの力を十二分に発揮できる環境を整え、助け合いながら自分の道を歩んでいきたいです。

※この記事は、トマト銀行の提供でお送りしました。

2020.01.31

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 山田 えり佳
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