死ななかった意味を見出すために。パラスポーツの経験を活かし人の役に立ちたい。

30歳で事故に遭い、足が不自由になった古賀さん。前向きにリハビリを続け、車いすテニスで世界を目指しました。パラスポーツと車いす生活を通じて古賀さんが考えた、自分の生きる意味とは。

古賀 貴裕

こが たかひろ|ヤフー株式会社 ブランドマネジメント室
佐賀県生まれ。新卒で専門商社に入社。30歳のとき、事故で頸髄を損傷、下半身麻痺となり車いすでの生活へ。退院し、通院リハビリのタイミングで車いすテニスに出会う。その後、ヤフー株式会社に転職。約200の国際大会出場し、パラリンピックを目指す。2017年に日本代表から退き、現在は趣味としてプレーしつつ、仕事である企業のブランディング企画などに従事する。

好奇心旺盛な九州男児


佐賀県鳥栖市に生まれ、福岡県で育ちました。両親は九州の人に多く見られる逞しい性格で、私を甘やかすことはありませんでした。年長の友達とケンカして泣きながら家に帰ると、母に「なんで泣いて帰ってきよるとね?勝つまでは家に入れんけんね」と言われます。泣きながらもう一度ケンカしに戻りましたね。父には、「男は弱いものを助けるために強くなるべき」といつも言われていました。そのせいか、学校ではいじめっ子といじめられっ子の間に立つことが多かったです。

好奇心旺盛で、いろいろなことに目移りしやすい面もありました。中学校のときは、校庭の真上が福岡空港の離発着ルートだったので飛行機に興味を持ち、自分もパイロットになって空を飛びたいと思っていました。高校に入っても漠然とパイロットに興味はありましたが、映画監督になりたいと思った時期もあり、1年間で110本映画を観た年もありました。映画の中の知らないものを知ることにも興味が湧き、ジャーナリストにも憧れました。いろいろなことに興味があって進路選択には明確な軸を持てず、変わった人が多そうだなと思った大学に進むことにしました。

死にかけても、希望を捨てない


大学ではラグビー同好会とアルバイトに打ち込んで、お金が貯まったらバックパックを背負って海外を旅していました。訪れる国での体験は全て新鮮で楽しくて、就職せずにこのまま海外を放浪する生活を続けたいと思っていました。ただ、友達の就職先が決まっていくのを見て焦り、土壇場で就活を始めました。面倒を見てくれていた先輩にいろいろアドバイスをもらったおかげで、なんとか専門商社に就職できました。

会社は若手にチャレンジさせる風土で、入社2週間後には海外出張に行っていました。その後も、日本食やフルーツの輸出入、マーケティングに関わりました。知らない土地、産地を回ったり、新しい食品に出会ったりすると、好奇心が刺激され楽しかったです。また、一人一人の裁量も大きかったので、とてもやりがいがありました。

その後、仕事は順調にキャリアアップし、結婚もしました。30歳のとき、ある週末に妻と海に遊びに出かけました。海が好きで毎週のように海岸には行っていて、その日もいつものように波に合わせて海に飛び込んだんです。

すると、飛び込み方が悪かったのか、タイミングが悪かったのか、波に飲み込まれて海底で頭を強く打ちました。浅い場所だったので、すぐに立ち上がろうとしました。しかし、全く足が動きません。手もダメでした。その瞬間、ラグビーをやっていた先輩が、首を骨折したことで体が動かなくなったことを思い出しました。ああ、自分も首の骨を折ってしまったのか。多分このまま溺れて死ぬだろうな。冷静なまま、死を覚悟しました。

うつぶせの態勢のまま波に身を任せていると、強い波で仰向けになり空が見え、ようやく呼吸ができました。そのままぷかぷか浮いて膝上くらいの浅瀬まで流れ着きました。異変に気づいた妻が駆けつけてくれたので、「首の骨折ったみたい、体が動かんから引っ張りあげて」と伝えました。体が動かなくなっても、意外にも意識は冷静でしたね。

その後、救命救急センターに運ばれました。診断は、頸髄損傷。骨折した患部が腫れていて、すぐには手術できず、手術できたのは2週間くらい経った後でした。手術の前に風呂に入れてくれようとしましたが、拒みました。風呂に入ると首がグラグラして神経を傷つけてしまうかもしれないと思ったからです。首の神経が切れているから体が動かないことはわかっていたので、神経をこれ以上傷つけないように行動しようと考えていたんです。また体を動かせるようになるために、今できるベストを尽くしたい。不安な気持ちに落ち込むより、今できる最善策を考えていました。

そんな私を見て、看護師さんたちから「古賀さんのメンタルの経過が、教科書で習う一般的な臨床心理とは違う。学会発表のため研究対象にさせてほしい」と言われました。通常このような境遇になると、落ち込んでしまったり、現状を受け入れることができなかったり、周囲の人たちに厳しく当たったりという過程があるそうです。しかし、私は病院に運ばれてきたときから前向きな発言をしたり、冷静に状況を受け止めたり、今できることに集中していた様子がナースステーションで話題になっていたようです。

体には麻痺が残り、病院の先生から「一生ベッドの上かも」とも伝えられていました。しかし、リハビリしながら「自分は絶対に歩く」と希望は捨てませんでした。がんがそうだったように、将来医学が進歩すれば治療の道は開かれるかもしれないからです。

改めて考えた生きる意味


リハビリする中で、先生に車いすテニスを勧められました。自分の体がどこまで動くか試したいと思い、やってみることにしました。先輩のプレイヤーが1対1でつきっきりで教えてくれました。ラケットの握り方から車いすの動かし方まで熱心に指導してくれたので、すぐにのめりこみました。その先輩に成長した姿を見せるのが楽しくて、練習を続けましたね。

一方で、仕事にも復帰して商社の業務を続けていました。仕事は楽しかったですが、車いす生活の自分が役に立てる場所は本当にここなのか自問していました。自分があんな事故にあっても、生き残った意味ってなんだろう。これからの人生を全うし、死を免れ車いす生活になった意味を見出したいと思ったんです。今自分が楽しく生活できているのは、テニスを熱心に指導してくれる先輩を始め、いろいろな人に支えてもらえているから。だから、自分も誰かの役に立って恩返ししたい。そう思いました。

体が不自由でもできることの1つとして、インターネットを使った仕事が向いていると思いました。インターネットで募金を集めるサービスを作りたいと思っていたところ、ちょうど大手情報通信会社で企画職の募集を見つけ応募しました。募集要項では、障害者採用については何も触れられていなかったので、門前払いされることも覚悟して「車いすで生活してますが、問題ありませんか」と聞いてみました。

しかし、断られるかと思っていたら逆に、「車いすの人を採用したことがなく、よくわからないので、何が必要かいろいろ教えてください」と言われたんです。車での通勤と、休憩できるベッドをリクエストしたところ、「それだけで良いんですか。でも、仕事内容は他の人と何も変わりませんよ」と言われました。優遇せず、普通の人と同じ扱いをしてくれたのがとてもありがたかったですね。「ああ、この会社で働きたいな」と強く感じました。

自分と同じような状況にある人や、そういう人を支える人の役に立ちたいと思い、インターネットでの募金サービスを立ち上げました。スタート直後は小さなサービスでしたが、その後東日本大震災で13億円が集まったときは、人の役に立った実感があってうれしかったです。

車いすテニスで、パラリンピック目指す


車いすテニスの練習拠点として千葉県柏市のテニスクラブに受け入れてもらったのをきっかけに、世界がぐっと身近に感じられました。世界ランキング上位でパラリンピックに出場している選手も在籍する名門です。自分のランキングが上がることで、トレーニングの機会をもらいました。海外の大会に出るようになると、練習にもより一層身が入ります。昨日の自分を超えたいと思って練習に打ち込んでいると、実力がついてきているのか、ついてきてないのかがはっきりわかるので、気づけば毎日練習に没頭するようになっていました。

本気で世界を目指そう。そう決めて、会社にやめることを伝えると、「半分テニス、半分仕事というやり方もあるんじゃないか」と、働きながらテニスに打ち込める環境を整えてくれました。会社の温かい対応に感謝し、挑戦させてもらえる分、悔いのないように打ち込もうと思いました。

テニスコーチ、フィジカルコーチとともに、練習漬けの日々が始まりました。目標は2012年のロンドンパラリンピック。テニスコーチには技術を指導してもらい、何万球と打ち続けました。フィジカルコーチは、体の使い方をスポーツ科学の知見を用いてアドバイスしてくれました。たとえば重心の取り方にしても、頸髄損傷で胸から下は麻痺しているから、なかなか思うように体をコントロールできないんですよ。自分の体でありながら、自分ではない。その感覚を理論と実際のトレーニングで補いながら、この体での戦い方を掴んでいきました。

徐々に実力がついてきたとき、国際大会で世界ランキング1ケタ台の選手と当たりました。その試合はゾーンと言われるとても集中した状態に入っていて、勝つことができました。翌日、国際テニス連盟(ITF)のホームページには「great upset(大番狂わせ)」という見出し。勝つつもりでやっていたので当たり前なのに、と思いつつも、格上に勝てたのは大きな自信になりました。

国際大会を数多く転戦するようになると、海外の選手と話す機会が増えました。海外の選手たちはオープンマインドで、一緒に練習したり、仲間内のご飯に誘ってくれたり、試合後にアドバイスくれたりと気さくに接してくれました。自分の練習や試合の姿を評価し、1人のテニスプレイヤーとして認めてくれていることが伝わってきて、すごくうれしかったですね。日本にいるときは、そうした海外のライバルたちを思い浮かべながら、自分を鼓舞して練習に励みました。

まさかの落選、残る後悔


迎えたロンドンパラリンピック出場者選考。私たちのクラスの出場枠は世界全体で16人、出場条件などを考慮し、世界ランキング順でいくと自分は15番目でした。ギリギリ出れるボーダーライン上。ユニフォームや表彰式用のジャージ、開会式用のブレザーなどもひと通り送られてきて、準備万端。あとは、国際パラリンピック委員会(IPC)、ITFの発表を待つだけでした。

IPC、ITFの決定が、日本の車いすテニス協会経由で届きました。結果は、落選。16枠のうち4枠はワイルドカードとして、ダブルスを考慮したりしながら、ランキング問わず国際テニス連盟により選ばれるんです。私は、自分よりランキング下位の選手に追い出される形で落選しました。その可能性は理解していましたが、一縷の望みに懸けていたのですごく悔しかったです。本当に心底落ち込みました。

会社にはロンドンまでのチャレンジ、という話をしていたので、また社内の方々が動いてくれて、正社員に戻してくれたんです。

テニスから離れて2カ月間、冷静に自分を振り返りました。すると過去の試合における自分の詰めの甘さが思い出され、もっと自分を追い込んでいればと悔いました。その部分をもっと追い込んでいれば、まだやれる。自分はまだやり切ったとは言えないと思い、4年後のリオデジャネイロパラリンピックを目指すことを決意しました。

引退、支えてくれた会社への恩返し


4年間はひたすら自分との戦いでした。海外のライバルたちは関係なく、自分に嘘をつかないため、自分自身に打ち勝つために練習を続けました。しかし、世界ランキングは思うように上がらず、リオデジャネイロパラリンピックのときは、20番台で落選しました。

悔しい思いもありましたが、「まあ、そうだよな」と冷静に自己分析する自分もいました。4年後の東京パラリンピックを目指すか考えると、自分の将来の成長曲線と周りの競技レベルの向上を俯瞰して見て、厳しいと感じました。その冷静な自分を打ち壊したい熱い心も持っていましたが、あれこれ悩んでいる時点でダメなんだろうと思い、競技の第一線からの引退を決断しました。

引退後は、それまで競技人生をサポートしてくれたことへの感謝の想いを込めて、会社に100%の力を注ごうと思いました。会社では、自分の過去の経験を活かして、取り組みたいことが3つありました。

1つ目は、パラスポーツの啓発。車いすテニスの国際大会で世界を周る中で、日本と海外の間でパラスポーツの扱いに差を感じていたんです。国の予算、地域の手厚い支援、企業のスポンサーシップ、メディア露出など、あらゆる面で海外に比べて日本は明らかに遅れている。その状況を少しでも改善するために動こうと思いました。まずは認知の拡大を目指し、パラスポーツの特集サイトを作りました。

2つ目は、再生医療の支援。怪我をして以来、医学の進歩に貢献したいという想いはずっとありました。再生医療のような新しい治療法が確立されると、患者にとっては選択肢が広がります。そうなった時に、患者が治療法を自分できちんと決められるように、研究者と患者の橋渡しをしたいと思いました。そう思っていたところたまたまご縁があり、以前立ち上げたインターネット募金システムで、iPS細胞研究所を対象とした募金を始めることができました。まだまだやれることはあるので今後頑張っていきたい分野です。

3つ目は、移動弱者の支援。これも海外を周る中で、日本は不足していると感じていました。例えば、レンタカーを借りるとき、チャイルドシートやルーフキャリアの追加オプションがあるじゃないですか。海外ではそれらのオプションに加えて、当たり前のようにハンドコントロールも選べるんです。ハンドコントロールとは、足の悪い人が手のみで運転するための装置です。日本は大手のレンタカー会社でも、ハンドコントロールの対応がありません。他にも、そういった情報を含め、地図だったり乗り換えだったり、店舗・ビルなどバリアフリーな移動に関する情報が不足しています。正確に言うと、情報はあるんだろうけど必要な場面で入手できる仕組みがない。交通機関や行政なども従来にも増して努力していますが、まだまだ利用者目線で使えるものは少ないです。その不便さを痛感したので、体の不自由な人の移動の制約を取り除いていきたいと思ったんです。

感謝の想いを持って、生きていく


今は、ブランドマネジメントの部署で、全社のプロモーション企画やディレクションを行っています。ウェブだけでなくコピーライティングや絵コンテの作成など、横断的にいろいろな仕事に携わっています。脳の使い方がそれぞれ違うので、刺激が多くて楽しいですね。

私は、怪我をして障害者になるという体験をし、車いすテニスのキャリアを全うし、今も楽しく仕事に取り組めています。しかし、車いす生活になったほうが良かったとは思いません。今でも歩けるなら歩きたいと思っています。

ただ、歩いていたころと比べて、人への感謝の想いを持ち続けられるようになったことは良かったと思っています。車いすテニスを教えてくれた先輩、一緒に苦楽を分かち合ったコーチたち、仕事を辞めずにテニスを続けられるよう動いてくれた会社の人たちなど、いろいろな人に支えられながら生きていることを強く実感します。だからこそ、人の役に立ちたい。経験や立場を活かして人の支援に取り組み、感謝の想いを届けていきたいです。

2020.01.23

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 伊藤 祐己
ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?