フードライターとしての自責の念。魚が減り続ける日本の海を守りたい。
フランス料理が大好きで、フードライターとなった佐々木さん。取材を通して知った日本の水産資源の現状に、衝撃を受けます。フードライターとしての責任を感じ、水産資源を守るために佐々木さんが起こした行動とは?お話を伺いました。
佐々木 ひろこ
ささき ひろこ|一般社団法人「Chefs for the Blue」代表理事
フードライターの仕事をする中で、魚が減少し続ける日本の現状に衝撃を受ける。現在は、水産資源の保全と回復のために、イベント開催や講演など積極的に活動をしている。団体は、アメリカの海洋保全団体主催の国際コンペティションでは優勝経験もある。
フランス料理を通して海外へ憧れる
大阪府大阪市で生まれ育ちました。小さい頃から、母には美味しい料理を食べに、よく外食に連れていってもらっていました。母が大好きだったフランス料理を初めて食べた時は、とにかく美味しくて、これまで食べてきた料理とは全然違うと驚きました。他の料理は「しょうゆ味」や「塩味」という風に味を表せましたが、フランス料理の味は一言では言い表わせない。不思議で面白くて、私もフランス料理が大好きになりました。
高校生になると、授業が早く終わる土曜日に月2回ほど、学校帰りに母と待ち合わせをして一緒にフランス料理店でランチをするのが楽しみでした。平日は、購入したグルメ本に載っていた学校の近くの飲食店へ友達と学校帰りにそのまま出かけ、いろいろな料理を食べました。「来週はここに食べに行こう」と本のページの端を折り、お小遣いを貯めては食べに行くのが楽しかったです。
フランス料理が好きだったことから、料理の先には常に外国を感じていました。次第に漠然と海外で働きたいと思うようになり、海外の大学に憧れるようになりました。
しかし、父に進路を相談したところ、「海外は危ないからダメだ」の一点張り。大学を選ぶ時には、近隣の地図を広げてコンパスの芯を自宅に置き、グルっと回して、「この中から選べ」と言われたほどです。片道1時間以内でないと進学を許してもらえませんでした。反抗しましたが、許してもらえず仕方なく、自宅から通える大学を選ぶことにしました。
人に話を聞くことの楽しさを知った
海外に興味があったことから大学では国際関係論を専攻し、国際法や戦争の歴史、経済協定などを学びました。1年生の時、ドイツでベルリンの壁が崩壊しました。その様子をテレビニュースで見て、壁が崩れたことを喜び叫ぶドイツ人の姿を見て鳥肌が立ちました。国際関係論を学んでいる身からしたら一大事件。まさに今、歴史が動いていると感じ、実際に現地に行きたいと思いました。
2年生の夏休みを利用して、2カ月弱、友達と東ヨーロッパを旅行しました。その頃になるとさすがに父も海外に行くことに反対はしませんでしたね。西ドイツから東ドイツに入った時、途端に景色が変わって見えました。全くカラーがなくて、スーパーに食べ物もない。さらに衝撃だったことは、西ドイツから東ドイツへ行く時は電車賃が50円くらいだったのに、東ドイツから西ドイツへ行く時は1000円くらいしたんです。
こんなにも経済格差がある地域がひとつの国になるなんて、一体どういうことなんだろうと思いました。強固な体制を保っていた東ドイツが、一日にして変わってしまう。絶対に開かないと思われていた鉄のカーテンが開いてゆく。今ある環境が絶対ではないんだな、と強く感じました。
大学4年生の時、海外に行きたくて入っていた世界最大級の国際的な学生団体の活動で、オランダの経済省に8カ月ほどインターンに行きました。オランダにある、日本との共同事業を行う合弁企業を取材して回り、問題点や改善点をレポートにまとめて提出するのが仕事でした。
初めての取材で、何をすればいいかもわかりませんでしたね。とある企業を取材した時、インタビューした人に逆に日本のことを聞かれたんです。日本人とはどういう考え方をする人たちで、文化や経済はどうなっているのか。そこで、全然答えられなかったんです。そしたらその人が、「オランダのことを学びに来る前に、日本のことを学んだらどうだ!」って怒ったんです。
悔しくて悔しくて、相手の目をじっと見ながらその場で泣いてしまいました。彼に腹が立ったというより、日本のことを全然知らなかった自分自身に腹が立ったんです。でもすぐ後に彼が、「合弁企業は、相手だけを学べばできるほど甘くない。まず自分を知ることが基本だよ。それを伝えたかった」と言ってくれて、その後もいろいろと教えてくれました。実はすごく良い人だったんです。
慣れない取材で大変な思いもしましたが、普通に生きていたら接点を持たないような人とも取材だったら会える。自分の知らないことが知れる。人に話を聞くことの楽しさを感じました。
フードライターとの出会い
就職活動の頃になると、漠然と海外で働きたいという思いはありましたが、なによりバブル崩壊後で就職が厳しい状況でした。何十社か受けて、受かったところに就職しました。鉄道会社の法務部です。
いつかは転職したいなと思っていたところ、入社3年目で阪神淡路大震災が起きました。自社の3路線のうち2路線が壊滅し、代替バスの案内など、毎日がめまぐるしく過ぎていきました。
少し落ち着いた頃には、大震災から1年ほど経っていました。付き合っていた彼が東京にいたので、心機一転、もう東京に行っちゃおうと決め、東京の会社に転職を決めました。海外部門のあるソフトウェア会社の法務部です。英語を使った海外とのやりとりも多く、海外出張にも行くことができました。やっと海外と関わる仕事ができてうれしかったです。
そんな中、彼が2年後にアメリカに留学することが決まり、そのタイミングで結婚しました。2年後にはアメリカに行きが見えた時、手に職が欲しいと思うようになりました。
ある日、友達と約束して待っていた時、何気なく、脇に置いてあったパンフレットを眺めました。すると、大好きなフードライターの名前が書いてありました。フードライターとは、レストランや料理の紹介、生産者、食文化などをフィールドにするライターです。もともと料理雑誌を見るのが好きで、気になるフードライターがいたんです。料理人を生き生きと描写し、「この料理を食べてみたい!」と思わせる魅力的な文章を書く人です。
彼女がフードライター講座をやっているとの情報でした。「この人に会いたい!」と、迷わず申し込みました。初めて会った時はとても緊張しましたね。講座に通う中で、私が書いた文章を気に入ってくれて、「弟子になりなさい」と言ってくれました。
平日は仕事をし、土日で彼女のカバン持ちを始めました。取材音声の文字起こしなど、下積みを1年半くらい続けたところで、「書いてみたら」と言ってもらえ、少しずつ仕事としてライティングするようになりました。いつしか自分もフードライターとして活躍したいと思いました。
それから半年経った頃、夫の留学に付いてアメリカへ。ビザの関係で働けないので、大学に通うことにしました。どうせ学ぶなら、本格的に料理を学び、さらにジャーナリズムを学ぼう。2つを組み合わせたら、その先のフードライターに繋がると考えました。昼間は大学で調理師の勉強をして、夜は社会人コースでジャーナリズムを学びました。
水産資源の現状を知り責任を感じる
2年後に帰国してからは、出産し、子育てをしながらフードライターの仕事を始めました。その後、夫の仕事の都合で今度は香港に行き、現地で2人目の子どもを出産し、約2年半後に帰国しました。帰国してからも仕事を続け、徐々にフードライターとしての仕事も増えていきました。料理専門誌や航空会社の機内誌など、料理人にインタビューをして、お店や料理の紹介をしたりレシピを書いたり、農家さんや食の加工品をつくる方々のお話をまとめたりする仕事です。
ある時、水産関係の仕事をすることになりました。漁師や魚屋など市場関係者、水産研究者の話を聞いていく中で、日本の水産資源の現状を知り、すごくショックを受けたんです。
どこの浜に行っても、漁師さんたちは「魚が獲れない、獲れない」って言うんです。よくよく聞いていくと、あまりに魚が獲れないので、幼魚を獲る段階にまできている。幼魚を獲ってしまうと、次の世代には繋がりません。このまま対策をしなかったら、10年後、20年後に魚がいなくなってしまうのは目に見えていました。
原因は魚の獲り過ぎです。環境問題も影響して、世界的に見たら魚の量は減っています。それに対して、多くの先進国では、国がしっかり規制を設けて、漁獲量を制限しています。ところが、日本は先進国で唯一、国の規制がない。実質、獲り放題状態の海が多い。海の環境は変わり、船の漁獲能力は上がっているのに、漁獲の取り決めについてはいまだに経験則的にやっている部分が多かったんです。
水産資源の現状にショックを覚えたのと同時に、フードライターとしての責任を強く感じました。これまで活動してきたのに、全く知らなかった。知らなかったから書かなかった。書かないことで、読者に知らせるという私の責任を果たしてこなかったと強く自責の念を抱きました。
仕事でよく会うシェフたちにそのことを話すと、彼らも現状を知らなかったんです。10年後、自分たちの料理する食材がないかもしれないのに。シェフたちも、もっと勉強した方が良いと思いました。飲食業界から、水産資源の保護や回復に向けて、自分ができることをしていこうと決めました。
まず、知り合いのシェフたちと一緒に勉強会を開きました。みなさん水産資源の現状を知って、本当に驚いていました。開催するうちに、自分たちが知っても、世論を動かさないと変わらない。もっと一般の人たちに向けた活動が必要だと思い、2017年、東京のトップシェフ30人とジャーナリストたちを集めた団体「Chefs for the Blue」を設立しました。
飲食関係者を対象としたイベントや、企業内講演、水産に関する認証機関とのコラボディナーなど、月1回ペースで開催し、気付いた時には2年半で20以上もイベントを開催していました。
2019年11月には、過去最大の200人規模のセミナーを開催しました。フランスの有名なシェフなど10人以上の登壇者を招き、4時間のセミナーを行ったんです。料理人、メディア関係者、ソムリエ、レストランオーナー、ケータリング業者、料理研究家など、あらゆる食の関係者を対象としました。
ほとんど宣伝をしなかったのですが、すぐに満席になり、最後はお断りしなければならないほどでした。水産資源の現状に対して、やっと世の中の関心が集まってきたと実感することができました。こうして関心を集めることが、自分たちがやるべきことだったんだなと手応えを感じ、続けることの大切さも学びました。
日本の海と食材を守りたい
現在は、「一般社団法人Chefs for the Blue」の代表理事として、日本の水産資源の保護や回復を訴えるためのさまざまな活動をしています。そのほか、個人としてフードライターや翻訳の仕事もしています。
直近の目標としては、2020年の東京オリンピックを控え、政府や市場の意識がサステナビリティに向いている波に乗って、活動を広げて問題を周知していきたいです。今は、オリンピックに向けてアクセルをギリギリまで踏んでいる状況ですね。
ゴールは、日本でも漁獲規制がきっちり施行されることです。規制さえできれば、魚の減少は止められます。それから、一匹一匹の魚を大切に扱う、主に小規模の沿岸漁業者さん達を盛り立てたい。あと数年はかかると思いますが、その先に水産資源の現状が改善されれば、そこで一区切りかなと思っています。
初めて日本の水産資源の現状を知った時、自責の念を抱いたことが今の自分を動かしていると思います。伝えてこなかったことを断罪したい思いがやっぱりあるんです。
もうひとつ、シェフたちが水産資源の改善に向けた活動をすることで、日本社会の中でのシェフたちのステータスを上げたいと思っています。
海外に行く中で痛感するのが、海外ではシェフの社会的なステータスが高い国が多いことです。社会からリスペクトされている。消費者は、良い料理と料理人の志に対しては喜んでお金を払います。パフォーマンスの高い料理には、高いコストを支払うことが普通と考える人が多いのです。
一方の日本は、シェフに対して水商売という見方をする人が今でもいます。パフォーマンスの高い料理をいかに安く食べるか、つまりコストパーフォーマンスが高いものを選ぶという考え方も当たり前となっていて、とにかく安いレストランが多すぎます。日本のシェフは、料理の技術は高いし、ものすごく努力もする働き者。世界一だと思っています。
シェフたちが、危機的な水産資源に対して社会貢献をすることで、社会的なステータスを少しでも上げることに繋がればいいなと思っています。日本のシェフは忙しいですが、30人集まったらできることがある。日本の海と食材を守るためにも、食文化を守るためにも、成果が出るまで活動を続けていきます。
2020.01.20