僕たちは、「みんな違ってみんないい」。自分の才能を輝かせて生きる。

自分には才能があるはずだ。そう信じて、社会の中に何かを生み出したいと願っていた寺口さん。しかし社会に出ると、思い描いたものとは違った現実が待っていました。思うように理解されず、選択肢を持てない自分に怒りを抱いていた寺口さんが見つけた、自分が輝ける場所とは。お話を伺いました。

寺口 浩大

てらぐち こうだい|株式会社ワンキャリア経営企画室・PRディレクター
株式会社ワンキャリア経営企画室 / PR Director。三井住友銀行で企業再生、M&A関連業務などを経験したのち、株式会社サイバーエージェント、デロイトトーマツグループを経て現職。

自分で決められないことへの疑問


兵庫県伊丹市に生まれました。父と母、弟2人の5人家族です。5歳から幼稚園に通い始めると、毎日先生から「なんのお仕事をする?」と聞かれました。「お仕事」とは遊びのこと。外で遊ぶのか、中で遊ぶのか。なんで外で遊びたいのか?常に自分で考え、決めることを求められる環境でした。卒業する頃には、自分で物事を考えて決める習慣が身についていましたね。

しかし、小学校に入学すると一転、何も自分で決められない環境でした。ずっと椅子に座っていなくちゃいけないし、教科書のページを読むにしても、みんなより先に次のページをめくったら怒られるんです。おかんに「休み時間と授業の時間が逆だと思うんだけど。授業中ってずっと椅子に座ってなきゃいけないんだよ、知ってる?」と訴えていましたね。なんで自分で考えて行動しちゃいけないのかわからなかったし、ショックでした。

ムードメーカーになる


小学校に入ってすぐの夏休みに引っ越すことになり、緊張しながら転校初日を迎えました。しかし登校してみると、教室に自分の席がなかったんです。ウェルカムじゃないんだ、と感じて初日から泣いてしまいました。小学校も、入学から3カ月もたてばコミュニティができています。ただでさえ入って行くのが難しいのに泣いてしまったものだから、デビューは完全に失敗。どうすればいいかわかりませんでした。体が強くなかったこともあり、自分は弱い存在だと感じて周囲を観察するようになりましたね。

見ていると、教室にはルールメーカーとムードメーカーがいると気がつきました。ルールメーカーは先生。しかし、先生が作った面白くないこの空間に、ムードを作っているのはクラスの中心にいる同級生の男の子でした。その子に憧れましたね。小学生にとって、教室は社会。その中で自分の役割は何か?というのをすごく考えて、彼みたいになりたいと思うようになりました。

そこで、2年生くらいから彼の真似して、見よう見まねでムードを作ってみるようにしました。僕は幼少期からビビリだったので、生きていくために人の考えていることを必死に読み取ろうとしてきました。だから、人の考えていることを想像するのが得意だったんです。ムードメイクはうまくいき、自然と彼のように中心人物になれました。

選択肢を広げるために


じっと椅子に座っていなければいけない授業は嫌いでしたが学ぶことは好きだったので、4年生から電車に乗って近隣の塾に通い始めました。兵庫県にとても自由な校風の学校があり、そこに行きたくて自然と中学受験を考えるようになりました。だけど宿題が苦手で、だんだん成績は落ちていきました。テストの点数が下がってくると「めっちゃ頑張って成功しなかったらどうしよう」と怖くなり、うまく行かなかった時の言い訳が欲しくなりました。塾にいったふりをしてサボるようになりましたね。逃げたんです。結局サボっているのが見つかって、6年生から塾に戻りめちゃくちゃ頑張って勉強しましたが、志望した中学には受かりませんでした。

あの時サボったから受からなかった。望んでいた通りの言い訳ができたのに、モヤモヤしました。中途半端にしたことの不完全燃焼感が、ずっと胸にくすぶっていました。

とはいえ、第二志望の中高一貫校には受かっていたので、隣県まで片道2時間かけて、電車通学することになりました。ちょうど通勤ラッシュの時間帯で、乗っている大人の表情がみんな一緒だということに衝撃を受けました。

学校でも塾でも、先生は「今頑張れば将来は楽できる」なんて言っていたけれど、僕は将来どうやらこれになるらしい。いい学校に行っていい会社に入った結果がこれなのは、嫌だと思いました。

僕にとっては、先生の言葉よりも電車の中で見ている景色の方がリアル。「これはヤバイ、笑っている大人を探そう」と危機感を覚え、おとんの持っているパソコンでインターネットを使い、海外のサイトを漁りました。するとたまたま、ロックフェスの動画が見れたんです。フェスでは、大の大人が熱狂していました。そんな熱狂を作り出す人がいることに、ものすごく惹かれたんです。この人もムードメーカーだと思いました。その人がたまたま楽器を持っていて。これになりたいと思い、まず弦が少なくて弾きやすそうだったベースを買ってもらいました。そこからロックバンドにハマり、ベースばかり弾いて全く勉強しませんでしたね。音楽で食っていけたらどんなにいいだろうと思っていました。

高校2年生になった時、学校の創始者が来校して、教室を一つ一つ回って自分の人生のストーリーを語ってくれる機会がありました。その人が「やりたいことが決まっている人はそれを頑張れ、でも決まっていない人は勉強を頑張れ。社会ってそうだから」と言ったんです。話を聞いて、「この人はリアルを教えてくれる人かも」と直感しました。だから、授業が終わった後、質問にいったんです。その人は「選択肢を持っておけ」と教えてくれました。「そうすれば、もし本気でやりたいことが見つかった時に早くそこに行けるから」と。

初めてスーツを着ている大人をかっこいいと感じて、選択肢が欲しいと心から思いました。全然勉強をしていなかったので偏差値は20くらいでしたが、その人の言葉を信じてそこから猛勉強しました。やればやるほど、これだけやって受からなかったらどうしようという恐怖でいっぱいになりました。でも、今度は逃げませんでした。中途半端にやるモヤモヤを知っていたからです。2年間頑張った結果、現役で関西の名門大学に合格できました。その大学の名前を語れるようになることよりも、逃げずに努力を続けられたというプロセスが、大きな自信になりました。

社会で何かを生産したい


大学生活は楽しく、自分と全くタイプの違う親友に出会えました。ムードを作ることが好きなのは変わらず、オリジナルのコントを作って発表したりしていましたね。就活が始まると、「社会のムードメーカーになりたい」と思い、大手広告代理店を目指しました。祖父が以前大手広告代理店で働いていて、やっていることを聞いたら「社会の空気を動かす仕事」と。やりたいこととドンピシャだったんです。正直それ以外は眼中にありませんでした。

しかし、結果は不合格。絶望しました。昔から、友達に「言葉選びがうまいね」と言われてきて、バンドでもコントなどでも演出には相当こだわっていた。天職だと信じていたんです。絶対に才能があると信じていたのに、必要ないと言われるのは、正直辛かったです。

やりたいことができないなら、一番苦手なことをやろうと決めていました。度胸がなく、細かい作業が苦手だったので。都市銀行に、修行のつもりで就職することにしました。名刺の力で、社会人レベル100だと感じていた経営者に会えることが、唯一楽しみでした。

最初から、リーマンショック後の不良債権回収という重い仕事を任されました。その後、業界の産業アナリストと信用調査をしたり、10年後の業界の動向を考えたりする、いわゆる花形の部署に行かせてもらいました。運が良いと思いましたね。

しかし、実際に行ってみるとどうしたらいいかわからなくなりました。その部署のムードが読めなかった。真剣に話を聞いていたら「睨むな」と言われ、いつ帰っていいのかもわからない。あまりにも僕が知っている常識と違っていて、ムードを捉えるのが得意なはずの自分が全く馴染めなかったんです。とにかく心を無にし「がんばること」をがんばっていました。毎日すごく辛かったです。心身を壊し、電車に乗っているときに倒れてしまいました。

その後しばらく療養することになりましたが、心身をすり減らして働いている時よりも、休んでいる時のほうがきつかったです。今の自分は、100%消費者。広告代理店で何かを作り出したいと思っていたはずなのに、消費することしかできない。生産者として生きたくて、生きたくて、仕方ありませんでした。買い物の時間が恐怖になるくらい、消費するだけの時間がトラウマになりました。結局その会社はやめ、広告業界へ転職しました。

選択肢を持てない自分と社会への悔しさ


念願の広告業界にはいったものの、自分の中では就活のリベンジ、入ることが目的になってしまっていました。本当に悪いことをしたなと。理想と現実のギャップを日々感じて、結局長続きしませんでした。その後更に迷走し、コンサルティングの会社に転職したものの、やはり楽しく働くことはできませんでした。

働いている人は、知的好奇心や生産欲求を無くしているように見えました。学ぶことは楽しいのに、仕事になるとなぜ楽しくないんだろう。生み出すことは楽しいのに、労働になるとなぜ楽しくないんだろう。仕事って、本当に楽しいんだろうか。そんなことばかり考えていました。

これでは自分も、いつか見た満員電車の大人たちと変わらない。仕事をやめたくて仕方ありませんでしたが、今の自分には次の選択肢を選ぶ自由がないこともわかっていました。27歳で3社在籍、特筆する実績もなく、実力を証明できていないからです。市場で需要のある人になるためには、少なくともあと1年働いて、履歴書に書けることを増やさなければと思いました。

自分の存在には自信がありませんでしたが、なぜかずっと、自分には才能があるはずだ、という自信はありました。でも、その才能が何かわからないままなんです。まだ証明されていない才能をこのまま発揮できず、職場で死んでいかなければならないのか。何も選べない自分が本当に悔しかったです。

得意なことに集中し、才能が開花


そんな中、登録していた転職サイトから、あるHRベンチャーのスカウトが届きました。僕がサイトに登録した時期と、その会社が採用を開始した時期がちょうど同じだったようです。まず面談してみると、メンバーの聡明さとオーラに驚かされました。今まで関わってきた人たちとは何か確実に違う。異彩を放っていました。

半年間かけて、色々な話をしましたね。僕が抱えている選べないという悔しさや、人生の話を丸ごと伝えました。それに向き合ってくれたことが嬉しかったですし、話す中で「この人たちは才能を潰さない人たちだ」と感じました。それで転職を決めたんです。

最初のポジションは営業でしたが、まだ小さい会社なので業務は多岐に渡りました。僕はどうしても、事務などが苦手でした。すると代表が、「得意なことだけに集中しましょう」と言ってくれたんです。事務仕事からも遠ざかり、営業で数字を追うのではなく、関係性の構築に専念させてもらえることになりました。

薄々気づいていたんですが、「人材会社の営業」という肩書で事業会社の人事に話しかけても、「営業される」と警戒されるんですよね。だから、違った関係性を築きたいと思っていたんです。今まで机の向こうに座っていた相手と、隣に座って話したい。一緒の方向を見てみたい。そう考えて対話していくと、商品を介さないからこそ、悩みも話してくれて特別な関係性が生まれていきました。その信頼を、徐々に自分一人のものではなく、会社の信頼に変えていったのです。それが結果的に会社の価値になっていきました。僕が自然とやっていたことが、つまるところステークホルダーとの関係構築、パブリックリレーションズだったんです。

思えば、小学生の頃から僕がやっていたことは、パブリックリレーションズでした。教室の中の友達や先生というステークホルダーと関わり合いながら、どう合意形成していくか。ムードメーカーとして自然にやり続けていたことが、仕事に活きたんです。

正直、強みをいかせと言われた時は半信半疑でした。本当に自分は事務仕事が苦手なのか、本当に人との関係性をつくることが強みなのか?恐怖から苦手を諦めたくない気持ちもありましたし、得意なことでも自分より上の人なんていっぱいいるじゃんと思っていました。でも、やってみて実績がついてきたことで、強みに自信がついていったんです。

他人が努力してもなかなかできないことが楽にできるなら、それが強みなのだとわかりました。同時に、できないことを健全に諦めることができるようになったんです。自分の得意なこと、持っている才能がわかれば、得意なことで貢献すればいいし、自分ができないからこそ自分が苦手なことができる人をリスペクトできるようになる。そうすれば他人と比べたり相手を攻撃したりせずに、「みんな違ってみんないい」と思えるようになるのだと感じました。

自分の才能を信じていいんだ


今は、採用サービスを展開するワンキャリアでPRディレクターをしています。ブランドがステークホルダーとどう手を繋ぐか、コーポレートコミュニケーションを設計してブランド価値を高めていく仕事です。

企業と個人の関係は変化しています。これまでは企業が「雇ってやるから文句言わずに頑張れよ」と個人に対して力を持っていましたが、今は雇い続ける体力がなくなって、企業と個人が「お互いに投資し合いましょう」という形になってきている。その中で生きていく個人は、企業や社会のものではない、自分のモノサシでどう生きるかを自分で決めていく必要があると思っています。

これまでは、企業や社会のモノサシを使って物事を判断することが結局正解で、マジョリティであることは生存戦略として有効な手段でした。足並みを揃える力、浮かない力。生産性の話だってそうです。例えば日の丸弁当を作る時、梅干し入れる人が本気を出して、梅干しを急にいくつも入れはじめたら、弁当屋さんは困るじゃないですか。日の丸弁当じゃ無くなってしまいますよね。梅干しを入れる人に求められていることは、独自性を発揮して頑張ることではなく、決められた大きさの一粒の梅干しを、確実に淡々と入れていくことでした。梅干しを入れる人だけでなく、モデルが古くシステムや業務フローが最適化されている場合、決まった生産工程の中で安定して稼働する一つの部品が欲しいのは当たり前です。

しかし、技術の進展や情報の流通によって、もはや決められた生産工程で作ったものだけでは生き残っていけない時代に突入していると感じます。よく言われていることかもしれませんが、本当にそう感じる。今は、場のモノサシを把握するマジョリティ選択が得意な人だけではなく、自分のモノサシで物事を判断し、意思決定する人にも居場所ができ始めました。

他人が決めたモノサシに添いたくない僕は、マジョリティであることが求められる社会の中でずっと生きづらさを感じてきました。だからこそ、「普通」とか「変わっている」という言葉が死語になるような、マジョリティでないことが当たり前の、違いに優しい社会になったらいいなと思っています。

唯一伝えたいのは、「きっと自分には何か才能があるはずだ」と信じてほしいということです。今の環境に合いにくい特性を持っていると、評価されなかったり、辛い思いをしたりすることもありますが、それは今の環境のモノサシに合わないだけで、本当は才能なのかもしれません。みんなができることができなくて苦しんでいる人も、できないんじゃなくてたまたまそれに向いていないだけ。向いていることを見つけたら、きっと自分にもできると思えるはずです。

僕が目指しているのはシンプルで。自分の才能を輝かせること。それは100%自分のためだけれど、僕のこの生き方が、ラッキーパンチでも、自分には才能があるはずなのに生まれる時代や国や星を間違えたと感じている人たちにとって、そんなことなかったんだ、と思える一つのサンプルになったらいいなと思っています。

2019.12.30

インタビュー・編集 | 粟村 千愛
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