自分だからできる表現で、感動を生み出したい。 音楽が教えてくれた「自由である素晴らしさ」。

ピアニストとして音楽活動を主軸に、執筆や講演活動も行う園田さん。自分だからできる表現を追い求め、創作に苦しみながらも、人生をかけて音楽に教えられた「自由の素晴らしさ」とは。お話を伺います。

園田 涼

そのだ りょう|ピアニスト、作曲家
ピアニスト・キーボーディスト・作曲家・編曲家。ピアニストとしての音楽活動を主軸に、執筆や講演活動も行っている。

音楽室のヒーローになった日


兵庫県西宮市で生まれ、3歳のときに三木市に移り住みました。子どもの頃は、とても引っ込み思案な性格でしたね。他の子と遊びたくても自分からは声をかけられず、母に「あの子を誘って」とお願いするくらいでした。教育熱心な両親のもと、休日も勉強していたので、学校の成績は良かったですね。物心つく頃には、父から「灘中・灘高に入って東京大学を目指すんだよ」と言われていたんです。

音楽好きの両親の影響で、僕も小さい頃から音楽が大好きでした。父はクラシックやタンゴ、ジャズなどのワールドミュージックや古い歌謡曲、母はビートルズやディープ・パープルなんかのロックを教えてくれて、新しい音楽に出会うたびに世界が広がるようでワクワクしました。好きな音楽をカセットテープ、後々はMDに入れて、いつも持ち歩いて聞いていました。

3歳から、母に連れられてエレクトーンの教室に通いました。ただ、自分の興味のない曲を練習しても全く面白くなくて。真面目に取り組まないから、先生には「嫌なら辞めなさい」とまで言われる始末。一体何のために、こんな練習をしてるんだろうと思いましたね。学校では、エレクトーンを習っていることを友達に言わず、合唱などのピアノ伴奏にも立候補しませんでした。

そんな状況がある時を境に一変したんです。小学5年の時、世間では「KinKi Kids」の『硝子の少年』が大ヒットしました。ある日、音楽室のピアノで、その曲のイントロ部分を弾いてみたんです。すると、他の生徒が周りにワッと集まってきて、大盛り上がり。みんなの驚く顔や「すごい!」って反応が、とても嬉しくて。「音楽にはこんなに人を巻き込む力があるのか」と気づいた瞬間でした。それからは、自分が弾けるようになりたいと思う曲をひたすら練習するようになりました。僕のあまりの変わりように、母も先生もとても驚いていましたね。

それまでの自分のアイデンティティは、「太ってること」「勉強できること」だけ。クラスで、足の速い子が人気者になれるのが、ちょっと羨ましかったんです。ピアノが弾けるようになったことで、みんなに一目置かれるようになって。「僕には音楽がある」と、自信を持って音楽に打ち込むようになりました。

東大にさえ行けば、後は自由にできる


中学は、神戸市にある灘中学校に入学しました。毎年多くの東大合格者を出す中高一貫の進学校です。

小学校ではトップの成績でしたが、全国から優秀な生徒が集まる中での最初の中間テストは平均点もとれなかった。教科書を一回読むだけで全て暗記してしまうような生徒なんかもいて、自分じゃ敵わないと思いましたね。

ただ、灘校では友達がそれぞれの個性や強みを褒め合うようなところがあって、例えば合唱祭での伴奏や、文化祭でのバンドライブや器楽部のコンサートを観てくれるたびに「園田には音楽があるからいいよな」って励まされて。そうか、やっぱり自分のアイデンティティは音楽なんだな、という認識をさらに強くしました。

中3の時に、母にピアニストの小曽根真さんのCDを聞かされて、初めてジャズピアノに出会いました。こんなにかっこいい音楽があるのかと衝撃を受けましたね。彼の音楽を聴いていると「音楽は、型にはまらず自由にやっていんだよ」と言われているみたいで。自由に溢れたジャズという音楽を学びたいと思いました。

ジャズは基本的に即興演奏の音楽なので、クラシックのようにきっちりとした楽譜があまりありません。高1の夏からジャズピアノのレッスンを受け始め、先生からは「小曽根さんみたいになりたいなら、まずはCDを聴いて、全ての音を楽譜に起こしてきなさい」と言われました。

最初は全く聴き取れず、楽曲の3秒間を譜面にするのに3時間かかるなんてこともザラにありましたが、聴き取れなかった音が聴き取れるようになった瞬間、音楽の秘密が紐解けていくような感覚を覚えるんです。「いつか小曽根さんのようになりたい!」という一心で、耳コピと練習に没頭していましたね。

卒業後の進路を考える中で、小曽根さんと同じように、僕もアメリカの音楽院に留学したいと考えたのですが、その気持ちを両親に話すと「音楽をやらせるために灘校に入れたんじゃない」って一喝されてしまって。ただ、「東大にさえ行ったら、あとは好きに生きなさい」と言われたので、音楽を自由にやるために東大を目指すことにしました。ことばや文章が好きだったのと、ほかの学部に比べて合格最低点が低かったのが理由で、文科三類を受験し、無事に合格することができました。

自分にしかできない音楽を


大学に入ると、さらに音楽に没頭しました。中高時代、小曽根さんと同じく僕のアイドルだった葉加瀬太郎さんに憧れて、大学の仲間でヴァイオリン、チェロ、ギター、ピアノ、ベース、ドラムという6人編成のインストバンド「ソノダバンド」を結成してライブハウスに毎月出演し、家では色々なジャンルの曲をひたすら練習する日々。難しいとされる曲がだんだん弾けるようになり、自信もつきました。

そこで思い上がった部分もあり、「そろそろ、お金を貰って演奏できるレベルに来始めたんじゃないか」と、ジャズクラブの飛び入りができるジャムセッションに通い始めました。有名なミュージシャンの先輩方とその場でジャムって、自分をアピールしましたね。

そんな大学生活を送る中で、ある日、ジャズクラブで出会った先輩ミュージシャンに、「ゴスペラーズ」の武道館ライブでサポート演奏をしてみないかと誘われました。人気アーティストの大舞台で演奏できるまたとない機会だと思い、喜んで引き受けたんです。ライブ1日目は大盛況のうちに終わり、僕も大舞台をやり遂げた充実感で満たされていました。

ところが帰り道の途中、ふと「俺が今日死んだとしても、明日代わりのピアニストが入って、イベントは続くんだろうな」って思ったんです。お客さんはメインのアーティストを観に来ているのであって、サポートをする僕の代わりはいくらでもいると。サポートミュージシャンの重要性を分からず、尖った捉え方をしていたんです。

なんだか悔しくて、「かけがえのある」存在じゃダメだと思いましたね。誰かのコピーではなく、オリジナルの音楽で、自分だからできる表現をしたい。そのためには、自分のバンドでデビューして、成功させないといけない、という思いが強くなりました。

3年生を終えてから、2年間大学を休学することに決めました。その期間、音楽活動に注力して、デビューの誘いがなければ就職して音楽を離れようと思ったんです。誰かの二番煎じで終わってしまわないよう、必死で自分の音楽を模索しましたね。これまで尊敬し真似てきたアーティストたちの表現をあえて避けて、どう新しい音楽を作れるか。そういう考え方にシフトしました。

周囲からは「東大出てアーティストを目指すなんて、よくそんなリスキーな選択できるね」と言われ、音楽関係者からは「ボーカルのいないインストバンドなんて絶対に売れない」と言われました。それでも、僕には希望しかなかったですね。「自分の音楽は、たくさんの人に愛してもらえるはずだ」と、本気で信じていたんです。

そんなある日、大手の楽器会社が主催するコンテストで、僕たちのバンドが全国1位になりました。副賞はアメリカのテキサス州オースティンで行なわれる、大規模な音楽祭へのエントリー。結果的に見事に通過して、オースティンで一番歴史の古いジャズクラブでのライブが決定しました。そしてライブ本番、会場が驚くほど盛り上がったんです。フェスなのでアンコールは禁止なのですが、スタンディングオベーションが鳴りやまず、スタッフに「観客の熱気が収まらないから、アンコールをやって落ち着かせてくれ」と言われるほどでした。日本にもその話が伝わって、帰国後にレコード会社からデビューの誘いを頂きました。信じて進んだ道がやっと認められたようで、すごく嬉しかったですね。

そうした突然のお誘いだったので、それまで併行して就職活動をやっていて、すでに某企業から内定が出ていたのですが、「音楽に人生を捧げたい」という想いはやはり止められず、バンドでデビューする道を選びました。

表現を生み出す苦しみと焦燥感


メンバー全員が現役の東大生だったということもあり、デビューのニュースが色々なメディアに取り上げられると、世間からの注目はさらに集まり、デビューアルバムもインストバンドとしては異例の好セールスを記録しました。

とはいえ、その熱をずっと維持していくことが大事です。たくさんの実力や才能あるバンドがどんどん出てくる中で、この先自分たちが成功するためには、オリジナルで新しいことにチャレンジしないといけない。そんな想いで必死に音楽を作り続けました。お客さんもどんどん増えていって、オーチャードホールや東京国際フォーラムなど、かつて僕が客席から憧れのアーティストを観ていたような、大舞台でのコンサートも行えるようになりました。

ところが、次第に状況は苦しくなっていきます。毎回新しいことをしようと、曲のバラエティを豊富にしても、一貫してバンドが何をしたいのか、自分たちの音楽とは何か、だんだんわからなくなっていくんです。オリジナルの音楽をつくり、舞台に立ち続けることが辛いと初めて思い始めました。

作れば作るほど、自分の中にある音楽を生み出すための余白がなくなっていく。悩みながら、2枚目、3枚目とアルバムをつくるうちに、どんどん疲弊していきました。同時に、メンバーは東大出身だからこそ、キャリアに関して周囲からの強いプレッシャーを感じていたんじゃないかと思います。皆が音楽で食べていけるように、一刻も早く成功させなければと焦っていました。

人に助けを求めたり、弱った気持ちを吐露したり、ということができなかったんです。バンドの全ての曲を基本的に自分が作っていたということもあり、いつもどこか孤独感に苛まれていました。自分が考えていることや正直な気持ちを、もう少しオープンに話せばいいのかもしれない。でも、色々な状況や人間関係もあって、それがどうしてもできませんでした。

デビューして4年目に入る頃、ついに一人のメンバーから「バンドをやめたい」という声が上がりました。それから半年かけて、一人一人音楽への想いやこれからをどう生きたいのか、語り合ったんです。自分の中では「すごい音楽を生み出して、バンドを成功させたい」、「これ以上はもう限界だ」という2つの気持ちがせめぎ合っていました。

メンバーとの長い話し合いの末、バンドを解散することが決まりました。悔しい想いと同時に、心のどこかで「もう追い立てられて苦しまなくていいんだ」とほっとした部分もありました。

ただ、バンドが解散してぼーっとした日々をしばらく過ごす中でも、やはり頭に浮かぶのは音楽のことばかり。そんな中で家でひとりピアノに向かっていると、これまでに書いたことのないような音楽がたくさん生まれてくるんです。バンドの解散によって、今までの幸せだったことや辛かったことが、一旦リセットされたような感覚でした。

ほとんどの関係者やファンの方々に「ソノダバンドが解散するなんてもったいない」と言われる中、ごくわずかではありましたが一部の方に「それでもお前が音楽をやめるのは絶対に許さない」なんて言っていただいたり、これまでの活動の中でお世話になった方々から、「また一緒に仕事をしよう」とお声がけいただいたりして、そうした方々にやはり音楽で恩返ししたい、とも思ったんです。まずは一人のピアニストとして、改めて独り立ちしないといけないと考えました。

音楽のように、自由に生きる


バンド解散後は、ピアニストして新たなキャリアをスタートさせました。技術や表現力を磨くため、もっとピアノという楽器を上手く鳴らせるようになるため、クラシックの音楽家たちに会いに行き、彼らが演奏時に考えていることや気を付けていることをインタビューして回り、そして人生で初めてクラシックピアノのレッスンを受け始めました。

こうして、音楽の根元に向き合うことを通じて、また改めて「音楽っていいな」と心から感じるようになったんです。「これからは自分一人の足で立たないといけない」という決意と、お世話になっている方々や、応援してくださるファンの皆さんへの感謝を込めて、どの本番やレコーディングにも全身全霊で臨みました。

現在はピアニストとして、作曲や編曲、演奏などの音楽活動を主軸に、新聞の随筆などの執筆活動、講演活動も行っています。音楽に限らず、人生をかけて色々なことを勉強し続けて、自分の表現を形にしたいと考えています。

今年の3月には、新しい試みとしてクラシックピアニストの須藤千晴さんと、人生初のクラシック曲を演奏するコンサートを開きました。演奏したのは2台ピアノ曲の王道中の王道、モーツァルトの「2台ピアノのためのソナタ」。今からクラシックピアニストを目指すわけではありません。でも、ポップスをやる人間だからこそ、クラシックピアノのエッセンスを少しでも学びたかった。ピアノの表現の幅をもっと広げたかった。基本的に、僕が30年くらい学んできたテクニックの真逆をずっとやり続ける感じで、それはそれは大変でした。何か月もかけて練習をしましたし、レッスンにも何度も通いました。でも、モーツァルトと向き合う日々が、楽しくて仕方なかったんです。これまで知らなかった身体の使い方や演奏法を体得できたし、何より僕が10代の頃にジャズに真正面から向き合ったときと同じような、音楽の美しさと喜びに触れることができました。

年々やりたいことは変化していきますし、それが自然なことだとも思っています。今、一番興味があるのはポップスオーケストラ。数年前にパリで見学したポール・モーリア・オーケストラのレコーディングに触発されて、どうしても自分で現代のポップスオーケストラを立ち上げてみたいと思ったんです。音楽界期待の若手プレイヤーたちに声をかけ、フルート・オーボエ・サックス・トランペット・ホルン・ストリングカルテット・ギター・ピアノ・ベース・ドラムからなる「ソノダオーケストラ」を2017年に結成し、その秋に初公演を東京と関西で行いました。

すべての活動のベースには、「自分の表現でひとの心を動かしたい、そしてひとと繋がりたい」という想いがあります。子どもの頃、音楽を聴いて感動したり、自然に体が動いたりする感覚。小学校でピアノを弾いたときに見た、友達の感動する表情やキラキラした目。あの時感じた喜びがずっと忘れられないんです。

今では、コンサートホールやアリーナ、ドームなどでを数千人、数万人を前に演奏することもありますが、会場の規模に関わらず、いいコンサートが出来ているその瞬間には、お客さんと一対一で繋がって共振している感覚を覚えます。息を飲んだり、拍手が起こったりするときの空気の振動を感じると、自分がステージに立っている事を忘れ、会場と一体となって幸せを感じるんです。こうして感動の瞬間を分かち合えるよう、これからも努力を続けて、舞台に立ち続けられる人間でありたいですね。

30代に入りましたが、学生時代と同じように音楽に心を揺さぶられ続けている自分は本当に幸せ者だと思っています。これからも自分の知らないことを勉強し続けていきたいと思っていますし、こういう経験や努力が、きっとまた自分の音楽を一段上に導いてくれるはずだと信じています。

僕は音楽に出会って「自由である素晴らしさ」を学びました。これまで、「東大出たのになんでエリートの道に進まないの?」と、自分の選択を批判されたこともあります。でも、僕から言わせると、なぜバックグラウンドでキャリアが決まってしまうのか疑問なんです。いろんな引き出しを持って、出会った人に「この人何してる人なんだろう、何者なんだろう」くらいに思われるほうが面白いじゃないですか。僕は、一度きりの人生を、生きたいように生きたい。これからの未来を自分らしく生きる中で、自由である価値を体現できればいいなと思います。

2018.03.22

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