社会を創造的に、良いもので満たしていく。クリエイターを幸せにするインフラづくり。
創造的な社会の実現のため、様々な形態でクリエイターをサポートする加藤さん。「創造性」に惹かれるようになったきっかけや、美大での挫折、芸術と自分自身の関わり方を見つけるようになるまでにはどんな軌跡があったのでしょうか。お話を伺いました。
加藤 晃央
かとう あきおう|株式会社モーフィング 代表取締役、世界株式会社 共同代表、BAUS発起人
株式会社モーフィング 代表取締役/世界株式会社 共同代表/BAUS発起人
プライドが無いのがプライド
長野県で、3人きょうだいの長男として生まれ育ちました。両親は小学校の教員で、のびのびと教育してくれました。勉強しなさいと言われることは、ありませんでしたね。
父は、創造性やアウトドアを積極的に教育に取り入れている人で、僕が保育園の頃から、父のクラスの生徒と一緒に色んなことを体験させてくれました。一緒にキャンプに行ったり、工作したり、生徒さんがうちに遊びに来ることもありました。
特に、父が担任していた6年生のクラスが卒業記念に映画を撮っていたのは衝撃的でした。生徒たちが撮影、編集するのを横で見ていて「何かを創るのってかっこいいな」と、初めて感じたんです。
小学1年生のときに、サッカーを始めました。サッカーが盛んな地域で、他にスポーツチームがなかったので、自分の意思というよりも周りからの影響です。中学でも部活に入り、土日まで試合や練習で潰れるような日々を送っていました。
中学時代は、ちょうどビジュアル系やネオ・フォークが流行り始めた頃で、同級生の二枚目系の男子たちは、バンドばかりしていました。僕はそれを横目で見ながら、「ああいうカッコイイ系よりも、人を笑わせる方がイケてる」とツッパっていましたね。三枚目系を標榜する仲間と組んで、全校集会でコントを披露していました。
勉強はある程度できたので、学区の中で一番偏差値の高い進学校に入りました。ところが、入学後のテストで、学年320人中300位になってしまったんです。中学までは勉強で苦労することはなかったのですが、高校には優秀な人が集まっているので、抜きん出ることができなくて。それで、勉強へのモチベーションが保てなくなりました。
性格的に、勉強とかサッカーとか、何かひとつに全力投球するタイプではなかったですね。置かれてる環境の中でメンバーの特性を見た上で、どこだったら尖れるか、ある意味ずるくポジショニングするんです。おしゃれな奴とかちょっとワル風な奴とつるむけど、そこで上手くやりながらサッカー部もちゃんとやっちゃうっていうのが僕のアイデンティティになる、みたいな。中学ではリーダー的ポジションにいたのが、高校では中心人物の参謀みたいな立ち位置になりました。
プライドが無いのがプライドみたいな感覚です。勉強やサッカーでは負けず嫌いじゃないし、飄々としているんですが、自分のアイデンティティとか人間的な価値は絶対に譲りたくないんだと思います。
創造性に裏打ちされたかっこよさ
高校3年生のとき、学園祭実行委員会の写真係を務めることになりました。それまでは部活で忙しかったので学園祭には興味もなかったのですが、どうせなら最後くらい盛り上がっておこうと思ったんです。
僕の高校の学園祭は特徴的で、全校生徒で巨大な龍を作るんです。地元に古くから残る「龍が住んでいた」という伝説にちなんだ伝統行事でした。1ヵ月の準備期間で校庭に15メートルくらいの龍を作って、最後は弓道部の火矢で燃やす様子を生徒が泣きながら見守るという独特の雰囲気のお祭です。
写真を撮っていると、校内の誰にでも話しかけられるようになりました。その中で僕が一番かっこいいと思ったのが、龍の制作を指揮する「龍長」という役職の人でした。
龍の製作は、多くの生徒が関わる一大プロジェクトです。その人数がすごい熱量をかけてひとつの目標に全力で向かっている様子って、近くで見るとやっぱりこっちも燃えちゃうじゃないですか。
龍長はその大所帯のトップなので、それだけでもうかっこいいんですけど、何よりも、人としての在り方に惹かれたんですよね。彼は「一番かっこいい龍を今年作る」っていうブレない目標にただひたすら向かっていました。そのひたむきさに周りの人間が付いていったんです。人心掌握やリーダーシップではなく、創造性に裏付けされたかっこよさで組織を引っ張るのって、やべーなって。心が震えました。
こういうかっこいい人はどんな大学に行くんだろうと、興味がわきました。すると、東京藝大に行きたいと言うのです。そのときに初めて美大という選択肢を知り、これだ!と思いました。調べてみると、映像学科なら映画や写真を学べるので、もともと興味があった分野に近づけると思いました。
美大なら学歴社会から抜け出せるし、最高だと思ったんです。当時付き合っていた恋人の大学から近かったので、武蔵野美術大学を志望校に決めました。志望校を決めたのが3年の夏だったので、1年浪人して美大のための受験対策に備え、2年目で合格することができました。
クリエイターに求められたい
入学した芸術文化学科は、評論やアートに関する企画立案、マネジメントなどを学べる学科でした。最初は映像学科に惹かれていたものの、受験勉強をする中で芸術文化学科の存在を知り、そういうのが美大にもあるんだ、と驚きました。自分に一番合っているのは、全てのアートに横軸で関わっていける分野だと思い、芸術文化学科を志望するようになったんです。油絵学科からも、映像学科からもデザイン学科からも、全ての芸術から必要とされるもの。アートマネジメントという言葉に、漠然と自分らしさを感じていました。
芸術の実践を学ぶ学科ではないものの、1年の必修授業では、彫刻から油絵までひと通りの実技を学ぶことになっていました。そこで一年間学ぶうちに、創る楽しさを知っちゃったんですよね。同時に、俺本当に才能ねえなって痛感もしました。
美大には入れたものの、美的センスやら造作能力って全く持ってないんです。前からわかっていたけど、入学して改めて突き付けられました。高校で成績優秀な人たちが集まって、300位になっちゃったときと同じでした。勉強では悔しいと思わなかったけど、大学ではちょっと挫けちゃいましたね。楽しいと感じてしまったからこそ、自分にはできないという悔しさを無視できませんでした。
2年の授業は座学が中心になり、特にアートプランニングやマネジメントの授業は面白くて、熱心に聞いていました。逆に、評論や美術史の授業には興味がなかったので、サボって何か他にできることはないか探すようになりました。
そんなとき、予備校時代の友人に誘われ、学内で有名な劇団の練習に体験参加することになりました。中学時代からコントを作っていたこともあり、劇団やお笑いには興味があったんです。
いざ体験してみると、作品や演技のクオリティは高かったのですが、上下関係が厳しすぎました。3年生になるまで舞台に立てないのが当たり前という暗黙の了解があるくらいで。
今ある団体で舞台に立てないなら、自分たちで作ろうということで、友人たちと5人で「にがウーロン」という演劇お笑い集団を立ち上げました。コンセプトは、アートと演劇とお笑いの融合。出演から構成、映像、広報まで全て自分たちの手で作りあげ、劇場を貸し切って自主公演をするまでの規模になりました。
最初は僕も演者として舞台に立っていたのですが、表に立つのはあまり向いていないと痛感するようになりました。他のメンバーは映像学科だから、やっぱりクリエイティブが得意なんですよね。僕がやっても思うようにウケないし、メンバーから気を遣われるのも嫌で、裏方に徹することに決めました。広報や宣伝から集客まで、一手に引き受けました。
2年半、授業以外の時間は全てこの活動に捧げるくらい全力で取り組んでいたのですが、自分たちが求めるラインには届きませんでした。劇団って、お客さんを1000人集めてやっと黒字になる世界なんです。必死にバイトして一人10万ずつ出し合って、足りない部分をどうにか埋めていました。
500人まではどうにか集められたんですが、この倍ってかなり厳しくて。結局は大学の友達と、その友達くらいまでにしか呼べなかった。続けていればいつか、どこかのプロデューサーが来て突然デビュー、なんて淡い期待もあったんですけど、そんなことは現実には起こりませんでした。
やっぱり自分を責めちゃいますよね。やってることは絶対に面白いって自信はあるから。ヒットしなかったのは、僕の戦略や宣伝の甘さが原因なのかもしれない。僕がもっとマネジメントできていたら、にがウーロンで生計を立てられるようになったのかもしれない。そんな悔しさが募りました。
それぞれが卒業制作の時期に入ったので、にがウーロンとしての活動は一度休止することに決めました。僕は他のメンバーと違う学科なので、卒業制作の代わりに卒業論文を書くことになっていましたが、テーマが思いつきませんでした。成功に導けなかった自責の念が忘れられず、プロデュースやマネジメントを本格的に学べる場を探すようになりました。
一切美大生がいないような場所で、数字や戦略、資金繰りを学べる場所を探し、たどり着いたのがベンチャー起業を支援する投資会社でした。ちょうど起業ブームの頃だったので、ここでなら何か学べるかもという気持ちで、3年の後期からインターンを始めました。
クリエイターと企業を繋ぐ
僕が担当したのは、創業間もないベンチャー企業が集まるインキュベーションオフィスの受付業務でした。100社ほどのベンチャー企業の電話の取次や、郵便物の整理、お茶の用意をしていました。
会社に美大生がひとりもいなかったので、「なんでここに来たの?」「美大生なんて初めて見た」と、興味を持ってもらうところからコミュニケーションが始まり、オフィスのポスターやロゴを頼まれるようになりました。せっかくなので一生懸命かっこいいものを作っていたら、社内で評判が大きくなり、一人ではこなせない量の依頼を頂くようになりました。それで、同じ大学の友達に仕事を依頼するようになったんです。
ベンチャー企業の成長に伴って、頼まれる案件もどんどん増えていきました。メーリングリストを作って案件を管理し、プロジェクトマネージャーとして企業と美大を行き来するようになると、同級生からも一目置かれるようになりました。「加藤のところに行くと仕事があるぞ」と、リスペクトされるようになったんです。
他の学科の優秀なクリエイターや、憧れていた同級生たちと、フラットな関係を築いて何かを生み出せるのが本当に嬉しくて、それが一番感動したというか。「これなら、俺いけるかも」って思えたんですよね。芸術の中で自分の居場所を見つけた気がしたんです。
もしかしたら美大という学歴とは無縁な世界で生きていくことになるかもしれないって覚悟もしていました。でもここで、アートと企業をつなぐことでお金を生み出すってことを実践したことで、これで稼いだ金をにがウーロンに突っ込めるんじゃないかって思えたんです。
事業は好調だったものの、個人事業主という肩書きだと、契約を踏み倒されたりクリエイターを守れないというトラブルが多々起こりました。また、インキュベーションオフィスで多くの起業家と出会ったことで、起業に対する心理的なハードルが低くなっていたことも重なり、大学4年のときに自己資金で株式会社モーフィングを立ち上げました。3人の友人と共同で経営し、営業、システム管理、バックオフィス業務を分担しました。
法人化しても事業内容は変わらず、「美大生と社会を繋ぐ」というビジョンを掲げ、美大生へのアウトソーシングを行いました。そこから派生して、美大生向けのフリーマガジンの発行や総合展覧会、美大生向けの就職メディアなども手がけましたが、想像よりも売り上げは伸びませんでした。社員の給与を出すのもギリギリのレベル。
しかも、創業から1年経った頃に僕以外の社員がみんな抜けていったんです。学年が下だったので、普通に就活をして他の企業へ出て行きました。事業が本格化していた時期だったので相当へこみましたね。
でも、自分も辞めてしまおうとは思えませんでした。クリエイターとして登録してくれている何百人もの人たちを背負ってる感覚があったんです。期待を裏切ったらどの面下げればいいかわからないし。やっぱり根底に「にがウーロンを食わせたかった」という悔しさがあるので、引き下がれなかったですね。
自分の給与を削って会社を回す状態が続き、3年目からは少しずつ単価の大きいプロジェクトの依頼が増え、軌道に乗るようになりました。
起業から6年目で、世界株式会社というクリエイターの本格的なバックアップを担う法人も立ち上げました。時代の流れが変わる中で、フリーランスのクリエイターが増えたのがきっかけでした。僕自身、モーフィングの登録者が増えれば増えるほど、繋ぐ先の顔が見えづらくなり、協力関係が薄れていく虚しさを感じていました。だからこそ、少数のクリエイターと繋がる会社を別に作ったことで、バランスを保てるようになりました。
ただ、最初の起業から10年目という節目で振り返ったとき、当初に考えていた10年後の目標を全く達成できていないことに愕然としました。クリエイターにとって不可欠な存在に、全然なっていなかったんです。流石に33歳になったら、規模とか社会的な影響とか、クリエイターとの関係とか、この程度にはなっているだろうってイメージに対して、2割くらいしか実現できていませんでした。
このまま同じように10年過ぎたら、大して変わらないだろうなって、すごい危機感を覚えました。10年後、43歳でこのままだったらやばいなって。色々なことに手を出してるせいで肝心なところが伸びてないんじゃないかって自己嫌悪もあったので、やり方を変えるなら今だと思いました。
それで、自分の関わっている事業を一度きちんと整理して、全体のコミットを深めるために、会社を統合してグループ化することに決めました。
創造的な社会で、愛されるインフラへ
現在は、世界株式会社で少数クリエイターのマネジメント、そして、新たに立ち上げたBAUSというプラットフォームで、クリエイターと企業を繋ぐ事業と美大生向けのメディア運営を行っています。
BAUSは、「MAKE TEAM」という機能がコアになったサービスです。クリエイターは、「何を」「誰と」「どうやって」作るかがプロジェクトによって変わるので、その度に良いチームを作るための仕組みを提供する機能です。クリエイターとのマクロな関係を広げるのがBAUSで、ミクロな関係を世界株式会社が担っているイメージです。あとは、未来のクリエイターである美大生と繋がっていくために、メディアやイベントも運営しています。
グループ化する前は、クリエイターと美大生やマネージャーなど、異なる分野のプレイヤーを合わせることによって起こる衝突を危惧して、フィールドを敢えて分けていました。でも実際に統合してみると、ものづくりという共通する軸がひとつあれば一体化できるということがよく分かりました。すごく良い雰囲気が生まれています。
今はもう、創造的な社会を作るためにクリエイターが活動しやすい仕組みを作りたいとか、そういう理念を恥ずかしげもなく言えるようになりました。前はちょっと青臭くてこんなこと言えなかったけど、この年になると情熱も飲み込めるようになったんです。
純粋に、社会が豊かになるために創造性って欠かせないと思うし、そのためにクリエイターの置かれてる環境を良くしたい。クリエイター達を幸せにしたい。美大生から始まったサービスがプロのクリエイターにまで広がってきて、使命感もどんどん大きくなっていきました。
そのために、今やっている事業をクリエイティブのインフラにしていきたいと思っています。無いと困るくらい当たり前にあるサービスに昇華するために、ただのちょっと便利なサービスにはない価値を発揮していきたくて。その価値が何かって言うと、やっぱり愛情、愛着だと思うんです。「知るひとぞ知るサービス」ではなくて、世の中にいる全てのクリエイター全てに愛されるように、より多くの人へ届けていきたいです。
2018.01.08