綺麗に撮ろうとする考えが、足かせとなる。被写体の「波動」を捉え続ける写真家として。

写真に向けられるアイデアの数が、写真の完成度に反映される。かつてはそう信じていたといいますが、いつしか、撮影の際に「考えなくなった」と語る福田さん。アートとは無縁の家系から現れ出た写真家は、いかにして作品を生み出し続けるのでしょうか。

福田 秀世

ふくだ ひでよ|フォトグラファー
フォトグラファー 福岡県生まれ。日本大学芸術学部・写真学科卒業。1990年「有限会社サウザ」設立。同年、イワモトケンチ監督作品映画「菊池」で撮影を行い、1991年度ベルリン映画祭フォーラム部門「ウォルフガンク・シュタウテ賞」を受賞。2009年ハウススタジオ「Studio BRICK」をオープン。広告、雑誌、CDジャケットなど幅広い分野で活動。現在(株)リンクスに所属。

2017年2月8日(水)「福田秀世 写真展・トークイベント“Vivi e lascia vivere.” -思うままに生きよ。自分は自分、人は人-」開催!

父の死により、歯止めが効かなくなった思春期


1958年、福岡県の飯塚市に生まれました。実家は産婦人科の開業医で、親戚にも医者が多い、そんな環境の中で育ちました。

毎日毎日、休みなく働く父の背中と椅子の背のわずかな隙間に入って父が患者さんを診察している様子を見ていた幼稚園時代でした。一般的には男の子なら子供の頃、父親とキャッチボールを楽しんだ思い出があるものですが、私は一度もしたことがありませんでした。ただ、巨人の野球帽を買ってもらって喜んだことは覚えています。そんな働く父の背中を見ているうちに、おのずと、将来は自分も医者になるのだろうな、と何となくそう思っていました。

小学2年生のとき福岡市内に引っ越しをしました。この頃は絵を描くのが好きで、学校で行われた絵画やデザインのコンテストで入選することも多く、賞状も20枚近くもらっていた記憶があります。短い間でしたが絵画教室にも通い、自分なりに描くことに対しての自信は持っていたと思います。

目指していた私立高校の受験を控えていた時、父が58歳の若さで亡くなりました。父はぎりぎりまで仕事をしていましたが、腹部の痛みが激しくなり病院に担ぎ込まれ、入院してからわずか1週間で亡くなってしまったのです。あまりにも突然の出来事でした。

父は子煩悩でしたが、とても厳格で口数は少なく怖かったです。そんな厳しい父でもありましたが、私のことを愛してくれていたことは分かっていました。母はその父の後を何も言わずに笑ってついて行く人でした。父の背中を見て毎日を送っていた母は突然の父の死に戸惑っていました

私自身はそこから勉強が手につかなくなり、高校には合格したものの、 成績はみるみるうちに下がっていきました。同じ高校の同級生とは距離を置き、他校の仲間と遊ぶようになりました。今思えば、父がいないことで歯止めが利かなくなったのかもしれません。どんなに遅く帰っても起きて待ってくれていた母には、相当な迷惑をかけていたと思います。

そんな日々が1年程続きましたが、他校の友達とは明らかに住む世界が違うと感じ始め、結局彼らとも疎遠になりました。周りでは大学進学の話が出始め、将来を見据えて軌道修正を始めるようになりましたが、もう医者にはなれないと思っていました。成績が悪かったことも理由ですが、なんとなく小さい頃から人の生死が関わる職業に就く覚悟が持てていなかったからです。

何をすべきかは分かりませんでしたが、それを探すために大学には進学するつもりで、予備校に通うようになりました。東京の大学を中心に経済学部や法学部、いろいろと受験しました。合格した大学もありましたが、正直あまり魅力を感じられなかったです。

私自身は、組織の一部に組み込まれることが得意ではなく、組織に従う働き方ではきっと生きていけないだろう、との意識があったんです。「自分で何かをやりたい」という意欲が芽生えていました。

人生を賭けるに値する、運命のアート


結局、大学浪人をしました。自分で何かをやりたいという思いはあるけれども、どの方向へ進めばいいのかわからない。なのに、友人たちは進学したり就職したり、次々に自分の居場所を見つけていきました。自分だけが宙ぶらりのように感じて、焦りだけが募っていきました。

転機となったのは、友人が美術大学に進学した事実を知ったことでした。今では著名な現代アートの作家として活躍している柳幸典氏です。

その頃、彼と住む場所が近くよく会っていました。彼と話すうちに、美大という選択肢がある、そう気づきました。その時、小学校の頃絵を描くことが好きだった自分を思い出しました。デッサンの経験はありませんでしたが、デッサンが必要ない美術ジャンルがあることも知りました。

写真です。

最初は消極的な理由でしたが、色々な写真集を見たり関係する本を読んでいくうちに、作品の世界に引き込まれ、写真というアートの持つ力に心が強く揺さぶられていきました。

東京の4年制大学で写真を学べるのは、日本大学芸術学部だけでした。これまで何となく勉強していた自分とは決別、人は目標をはっきり定めると強くなれる様で、日芸の写真学科を志望してからは一発で合格できました。

大学入学後は自分と周囲との温度差に戸惑った時期もありました。写真家の息子など、写真の世界を愛してやまない学生が沢山いるのです。とはいえ、個性を伸ばすことを重視する自由な雰囲気と、写真に対して真面目に取り組む環境は自分にとってとても、居心地のよいものでした。

周囲と比べ写真には決して詳しくなかったけれど、だからといって出遅れている感覚はありませんでした。とにかく必死に基本を学び続けました。家族にさんざん迷惑を掛けてきたので、この写真という道を究めて社会の中で結果を出さなければならない、という強い思いがありました。

大学を通じて様々な写真関係のアルバイト先があり、私は先輩の誘いで出版社で雑誌制作の手伝いをするようになりました。カメラマンのアシストとして、セットの組み方やライティングのチェックなど、基本的なエディトリアル写真のノウハウを学ぶことができました。

大学のカリキュラムを越えて、現場の中で少しずつスキルが身につき役に立てるようになった経験は貴重でした。

写真を撮る上で、一番大切なこと


大学を卒業後、同級生たちは制作会社やプロダクション、プロカメラマンのアシスタントなどに就職していきました。しかし、私は卒業前からすぐにフリーランスのカメラマンになろうと決めていました。

アルバイトをしていた雑誌社でアシスタントを続けながら、少しずつ仕事をいただくようになりました。「自分でもできるんじゃないかな」という、根拠のない自信があったと思います。アルバイトの手伝いをしていた頃も、作品に自分の名前がクレジットに載ったことがあり、それが嬉しかったんです。並行してフリーのカメラマンのアシスタントの仕事をこなし、雑誌以外の世界もみようと心がけました。

最初は物撮りなどの小さな仕事が多かったのですが、徐々に人物撮影の機会が増えてきました。カメラマンは若い頃でも、知名度のある各界のベテランの方々と仕事をご一緒することがあります。カメラマンと積極的に接点を求めてこようとする人もいれば、なかなか心理的に近づけない人もいます。挨拶をして、「さぁ、撮ろう」という瞬間の空気感によって写真の出来映えが違ってきます。その点で、カメラマンの仕事にはコミュニケーションの難しさが伴います。「気持ちで負けないこと」「強い気持ちを持ち続けること」が大切だと自分に言い続けました。

とにかく必死でした。ひとつの仕事の成功が、そのまま次の仕事のプレゼンテーションとなりますし、次の次の仕事にまで繋がることがあります。逆に、ひとつの仕事で失敗すると次がありません。それでも、大変な仕事を乗り越えるたびに「あの仕事をやれたのだから、他のたいていの仕事は大丈夫、問題なくできる」と思えるようになり、少しずつ自信を付けていきました。

写真と向き合い続けた36年。自分自身の内面的な事や培ってきた背景が全部出てしまうことが、写真の全てだと思います。綺麗に撮ろうとする考えが、ときに足かせになってしまう場合があります。たとえ構図が崩れていても、自然体で土臭さやリアリティが感じられ、人に何かしらの波動を与える、そんな写真として成立していればどんなものでもいいと思います。

依頼される仕事のほか、独自の道を模索


40歳を過ぎた頃、仕事への取り組み方に変化がありました。クライアントから依頼された仕事に満足するだけのカメラマンで良いのか?自分の写真が「消費」されることへの空しさを感じていたのかもしれません。次々に撮影をこなし、気がつくと過去に撮った写真が存在していたのかさえも思い出せない。

もちろんクライアントの想定を超える程の完成度の作品を撮れれば、興奮しますし大きな達成感を得られます。しかしその達成感はいずれ消えてなくなり、何年か経てば、誰ひとりとして記憶していない写真と化します。

与えられた一つひとつの仕事に全力で取り組むことは大切ですが、その仕事によって時代の空気や文化が育つことはありません。もちろんシンボリックな広告写真は残ります。それもふまえてその実態を俯瞰して眺めている自分もいましたが、「このままでいいのだろうか?」と、じっくり考える間もなく次の依頼を受けてしまう日々でした。睡眠時間も大幅に削られ、精神的にも磨り減っていました。

その頃、親しいフリーカメラマンがそれまで請け負っていた仕事を全部断り、自分で企画して自分でディレクションしながら撮るスタイルに変えていました。覚悟のいる決断です。

「独自のスタイルに変えるのが早ければ早いほど、写真家としての世界を広げられる」という確信がありつつも、自分の中でも試行錯誤しながらいけるところまでいってみよう、と仕事の幅を広げるようにしました。

最初に踏み出したのはある女性誌でした。創刊誌の立ち上げから関わり、コンセプト、企画、デザインに至るまで、写真を通して見せ方にこだわる仕事をしました。また、写真に限定せず、自分の世界観を表現する場として映像の仕事も手がけるようになりました。そこから徐々に依頼の輪が広がっていきました。

2009年、50歳の時にはハウススタジオ「Studio BRICK」をオープンしました。自分が好きな空間で好きな時に撮れる場所が欲しい、とスタジオを作ることにしたんです。これをきっかけに、自分自身の作品作りにも力を注ぐことになります。

一方で、自分の中で強く印象に残っているのが、2011年のイタリア旅行です。好きな映画のひとつに『グランブルー』があり、そこから行き先を決めました。家族、特に子どもにも色々なものを見せておきたいという思いがありました。

イタリアへはカメラも持参しましたが、プライベートの家族旅行ですから、作品としての写真を撮るつもりはありませんでした。ところがカターニアの市場を歩く中で、道端で煙草をふかすある男性に出会った瞬間、衝動的に「写真を撮らなければ」と感じたんです。その圧倒的な佇まいに惹かれたんですね。

あっと言う間にイタリアの男たちに魅せられていきました。彼らの顔に刻まれたシワがかっこよくて、夢中で撮りました。また、魚市場の活気、エネルギーのぶつかり合いを目のあたりにして、生きている実感のようなものを覚えました。

何と出会えるかわからない喜び。街を歩くだけで、こんなにもアドレナリンが溢れ出てくるんだ。いいものが撮れたときのシンプルな嬉しさを感じていました。

その感覚は、自分がスタジオでモデルやアーティスト、役者さんをアドレナリンが出まくって撮っていた時期とは似ているようで違った感覚でした。以前の自分は、このときこそまさに「福田秀世のオンステージ」で、繰り返し「サイコー!」と思いながら撮っていました。けれどイタリアの街歩きではもっとシンプルに、カメラを持って喜んでいる少年のようなドキドキした気持ちでした。最終的に5年間に渡りイタリアの写真を撮り続け、2016年6月に代官山のギャラリーで個展を開催、写真集として出版するにまで至りました。

思考や枠組みに囚われない写真家へ


昔は考えれば考える程、準備を重ねれば重ねる程、写真のクオリティは向上するものと信じていました。

しかし、今ではかえって考えなくなりました。考えすぎると嘘になる。写真が作られたものになる。目の前にあるものを、あるがままに撮ることの難しさと戦っています。

その時々の「旬」な人物を撮るのも、それはそれで写真として成立するのですが、枠にとらわれないようにしたい。どう映るのか楽しみにしてくれる人もいるし、どう撮られても気にしない人もいます。

相手の全てを写真で網羅しようと欲張らず、その「瞬間」もしくはその一瞬の「思い」を切り取りたい。見た人が何かを感じ、その人にとって何かのきっかけとなるような写真、日々寄り添って励ましてくれるような写真を撮りたい。その実現のために、これからも写真家として楽しんで苦しみ続けたいと思います。

2017.02.06

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