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綺麗に撮ろうとする考えが、足かせとなる。
被写体の「波動」を捉え続ける写真家として。

福田 秀世さん/フォトグラファー

はてぶ

写真に向けられるアイデアの数が、写真の完成度に反映される。かつてはそう信じていたといいますが、いつしか、撮影の際に「考えなくなった」と語る福田さん。アートとは無縁の家系から現れ出た写真家は、いかにして作品を生み出し続けるのでしょうか。

父の死により、歯止めが効かなくなった思春期

1958年、福岡県の飯塚市に生まれました。実家は産婦人科の開業医で、親戚にも医者が多い、そんな環境の中で育ちました。

毎日毎日、休みなく働く父の背中と椅子の背のわずかな隙間に入って父が患者さんを診察している様子を見ていた幼稚園時代でした。一般的には男の子なら子供の頃、父親とキャッチボールを楽しんだ思い出があるものですが、私は一度もしたことがありませんでした。ただ、巨人の野球帽を買ってもらって喜んだことは覚えています。そんな働く父の背中を見ているうちに、おのずと、将来は自分も医者になるのだろうな、と何となくそう思っていました。

小学2年生のとき福岡市内に引っ越しをしました。この頃は絵を描くのが好きで、学校で行われた絵画やデザインのコンテストで入選することも多く、賞状も20枚近くもらっていた記憶があります。短い間でしたが絵画教室にも通い、自分なりに描くことに対しての自信は持っていたと思います。

目指していた私立高校の受験を控えていた時、父が58歳の若さで亡くなりました。父はぎりぎりまで仕事をしていましたが、腹部の痛みが激しくなり病院に担ぎ込まれ、入院してからわずか1週間で亡くなってしまったのです。あまりにも突然の出来事でした。

父は子煩悩でしたが、とても厳格で口数は少なく怖かったです。そんな厳しい父でもありましたが、私のことを愛してくれていたことは分かっていました。母はその父の後を何も言わずに笑ってついて行く人でした。父の背中を見て毎日を送っていた母は突然の父の死に戸惑っていました

私自身はそこから勉強が手につかなくなり、高校には合格したものの、 成績はみるみるうちに下がっていきました。同じ高校の同級生とは距離を置き、他校の仲間と遊ぶようになりました。今思えば、父がいないことで歯止めが利かなくなったのかもしれません。どんなに遅く帰っても起きて待ってくれていた母には、相当な迷惑をかけていたと思います。

そんな日々が1年程続きましたが、他校の友達とは明らかに住む世界が違うと感じ始め、結局彼らとも疎遠になりました。周りでは大学進学の話が出始め、将来を見据えて軌道修正を始めるようになりましたが、もう医者にはなれないと思っていました。成績が悪かったことも理由ですが、なんとなく小さい頃から人の生死が関わる職業に就く覚悟が持てていなかったからです。

何をすべきかは分かりませんでしたが、それを探すために大学には進学するつもりで、予備校に通うようになりました。東京の大学を中心に経済学部や法学部、いろいろと受験しました。合格した大学もありましたが、正直あまり魅力を感じられなかったです。

私自身は、組織の一部に組み込まれることが得意ではなく、組織に従う働き方ではきっと生きていけないだろう、との意識があったんです。「自分で何かをやりたい」という意欲が芽生えていました。

人生を賭けるに値する、運命のアート