人生は短いから、今できることをする。続ける中で見つけた、自分の強み。

日本と中国の貿易を行う商社を経営する吉塚さん。自身の能力に自信を持てない時期がある中で、「とにかく、今できること、目の前のことを地道にやる」という思いで動き続け、身につけた武器とは。お話を伺いました。

吉塚 康一

よしずか こういち|日中貿易商社の経営
日中貿易を行う株式会社キュリエの代表取締役を務める。

英語という武器を磨く


新潟県の西蒲原郡黒埼町(現:新潟市)で育ちました。小さい頃から、ひとりでいるのが好きでした。友達付き合いが嫌いなわけではないんですけど、漫画を読んだり、プラモデルを作ったり、絵を描いたり、ひとりで何かをしているのが好きだったんです。

小学高学年になると、洋楽の影響で、英語にのめり込みました。最初は、親が聞いていたビリー・ジョエルから入り、マイケル・ジャクソンやプリンスなど、アメリカのポップカルチャーにハマったんです。憧れの歌手が何を言ってるのか理解したくて、歌詞の意味を必死に調べましたね。当時やっていた通信教育では、先生への自由質問欄に、英語の歌詞の質問ばかりしていました。

高校3年生の時に、弟と一緒に初めてアメリカに行きました。ライという郊外の町に滞在して、毎日マンハッタンまで電車で移動したんですけど、車内で流れるアナウンスが印象的でした。日本だったら「本日はご利用いただき、ありがとうございます」といった感じで丁寧な言葉遣いと思うんですけど、NYの電車では、ぶっきらぼうに次の駅名を言うだけなんですよね。

当然、シンプルな英語なので理解できて、「なんだ、俺も英語が分かるじゃん」と自信になりました。難しい言葉を使ったり、流暢に話したりしなくても、「伝わればいい」というのは、自分の中で大きな気づきでしたね。

その後、大学に進学してからは、英語研究会(ESS)に入り、英語のスピーチを学びました。スピーチの世界は、ひたすら自分と向き合っていく世界。私の性に合っていたので、英語力を伸ばすことができました。

英語が評価されたことで、大学の交換留学プログラムに通過。1年ほどカナダで過ごし、大学を卒業してからは三井物産で働き始めました。元々、英語を使う仕事がしたいと考えていたところ、尊敬していた先輩が三井物産で働いていて、その姿に憧れたんです。地頭が良いわけでも、コミュニケーション能力が高いわけでもない私が三井物産に入社できたのは、有名な英語の弁論大会で優勝したおかげだと思います。「英語」というひとつの武器を磨き続けたことが良かったんだと感じましたね。

「中国語」という二つ目の武器


ところが、入社してすぐに挫折感を味わいました。自分の英語力なんて大したことがないと分かったんです。同期も先輩も優秀な人ばかりで、上に上がいる。「負けてたまるか」と思う一方で、語学力でも、社交性でも、地頭の良さでも太刀打ちできず、諦めの気持ちもありました。

その分、自分は目の前のことを一生懸命やっていくしかないと思いました。私の父は、私が16歳の時に、47歳で亡くなりました。当時はあまり実感がなかったんですけど、その頃から「人生はそんなに長くない」ということを意識するようになりました。これから先どんなことが起こるか分からない。だったら、とにかく今やるべきことを頑張ろう。そう考えていたんですね。

入社後配属されたのは、紙パルプの輸入をする部署でした。私は地方の中小企業担当になり、社長さんたちから仕事について色々学ぶことができました。人はお金で動かないという事実。組織で人事権を持つことの重要性。リーダーは人事に一番の時間を割くべきだということなど、社長業とは何たるものか学ばせていただきました。大手担当になっていたら、経営者の話を聞く機会はほとんどなかったので、ラッキーだったと思います。

また、入社した頃から、中国語の勉強を始めました。「英語ができて中国語もできる」ということが、これからの時代を生きる上で武器になると思ったんです。中国に対しては、社会人になって旅行に行った時から、良い印象もありました。インフラが整っていなかったり、空気が悪かったりと、ネガティブな一面もありましたが、寺院など、日本で慣れ親しんだ文化がありましたし、文字は漢字なので、書いてあることがある程度理解できるのも良かったですね。大学の卒業旅行で行った場所が中東だったので、中東と比べたら異質さは感じず、親近感があったんですね。

私が中国へ関心があることを知ってもらえたのか、入社2年目には「派遣修業生」として、中国に語学研修に行くことになりました。同期の中では一番早い海外研修だったと思います。「商社で働いているなら海外に行かなければしょうがない」という空気があったので、海外に行けるのは嬉しかったですね。

中国でビジネスをするということ


中国語を学習するのは得意で、1年間の語学研修を終えた後は、そのまま中国の南京事務所に配属となりました。日本人は上司と私のふたりしかいない小さな事務所で、商材に縛られず、中国との取引に関しては何でもやりました。欧米と比べて中国への優先度がそこまで高くなかったので、小さい事務所で全部やっていたんです。

駐在中に、中国でのビジネスのやり方を肌で学びましたね。例えば、中国人と対等に向き合うこと。あたり前のことかもしれませんが、中国に対して「遅れている国」とか、そういうバカにした気持ちを持っていたら、ビジネスは成り立ちません。

一方で、中国人っぽくなり過ぎてもうまくいかなかったりします。信用を失うというか。あくまで日本人である、という立場は崩さずに、相手を理解する姿勢は崩さないことが大事なんです。

あとは、言葉ですね。例えば、ちょっと難しい熟語とか、『春秋』などの詩の一節を会話の中で自然に出すことができると、一気に信用してもらえるんですよね。教養を重んじる国だからだと思います。詩の一節を覚えるなんて、努力次第で誰でもできる小さなことですが、その小さなことが信頼を作る上で本当に大事なんですよね。

2年間の中国でのビジネス経験は、予想通り自分の強みとなりました。帰国後、社内の花形部署に異動となったんです。日本の液晶パネルを海外のメーカーに輸出する部署なんですけど、当時は欧米メーカーが中国にどんどん工場を作っていました。つまり、欧米企業と契約しても、実際に商品を送る先は中国の工場。なので、英語と中国語どちらもできる私が重宝されたんです。

さらに、30歳の時に上海で関連会社を立ち上げることになり、副社長に就任しました。上司とふたりしかいないので、つける肩書が副社長しかなかったんですが、自分で会社を立ち上げるという経験は、自信になりましたね。

「外に出る」という選択


その後、2年ほどして東京に戻り、本社勤務となりました。ところが、東京での仕事には窮屈さを覚えてしまいました。南京でも上海でも、少人数で比較的自由に仕事をしていた反動だと思いますが、幼い頃から持っていた「集団行動への苦手意識」が出てきてしまったんです。もちろん、やらなければならない仕事は淡々とやるんですけど、日々の仕事に違和感がありました。

また、そのまま三井物産で働き続けても、自分が活躍するイメージが持てなかったんです。根底には、地方大学出身では、都会の有名大学出身者には敵わないと思っていましたから。MBAを取りに行くことも考えたんですが、MBAという武器を持ったとしても、大きな舞台で経営をするチャンスが回ってくるとは、現実的には思えませんでした。もうひとつの武器を持って会社で働き続けることに、違和感があったんです。

それよりは、独立した方が面白そうだと考えていました。中国では、どんなに小さくても自分のビジネスを持ちたいという人が多かったので、その影響を受けたんだと思います。

とにかく、そのまま働き続けるよりも、自分の中にあるエネルギーを開放することの方が大事だと思い、9年働いた会社を辞めて起業することにしました。どんな事業を起こすかは、全く考えていませんでしたが、不安はありませんでした。中国進出ブームは続いていたので、それまでの経験を活かした仕事をすれば、食いっぱぐれはしないと思っていましたので。

独立して、まずは液晶パネルを中国に販売する代理事業を行いつつ、自社のビジネスを考えました。また、中国に関わる相談は色々来ていて、その中のひとつに、学習塾を運営する会社から、中国進出のための市場調査がありました。中国に駐在している日本人の子どもが対象です。駐在期間が終わった後は日本に戻る人がほとんどなので、日本の勉強を教える学習塾はニーズがあったんですよね。

調べていくうちに、市場の可能性を感じましたし、面白くなってきちゃって。結局、中国で学習塾を運営するために、その会社と一緒に合弁会社を作り、私も上海に渡りました。授業も自分で考えていたので、実際に教壇に立ったりもしました。

一方で、他にも何かビジネスの種があればチャレンジしようと思っていて、ある時、中国人の友人から、プリンターの「リサイクルインクカートリッジ」を日本に輸入しないかという話がきました。リサイクルされたインクカートリッジは日本では注目されていませんでしたが、中国では大量に作られていました。その友人とは馬があったこともあり、とにかく始めてみることにしたんです。

最初は細々とした取引でしたが、次第にリサイクルインクカートリッジの品質が上がり、取引量は増えました。輸入を始めて1年した頃には「これはいけるぞ」という確信も持てたので、会社として力を入れることにしました。

その後、中国での供給体制は整い、日本で営業体制を整えることへの比重が大きくなってきたタイミングで、日本に拠点を移しました。

今できることを地道に続ける


現在は、キュリエという日中貿易商社を経営しています。事業の軸は、リサイクルインクカートリッジの貿易事業です。

正直、当初は単に儲かりそうだからという理由で、なんとなく始めた事業ですが、やっていくうちに、これこそが自分たちのやるべきことだと、確信するようになりました。目指すべきミッションが見えてきた、という感じです。印刷コストを安くし、安価な印刷を提供する。それが、私たちが目指すべきことだと考えています。

「印刷はなくなるのではないか?」という声もありますが、私は印刷は生活にとって欠かせないものであり、なくなることはないと考えています。生活必需品は安定した需要がありますし、コストを下げることが、さらなる需要を生みます。実際、世界を見渡すと、学校で出された宿題を家で印刷するような流れもあり、印刷需要自体は増えている領域もあります。

印刷ビジネスのモデルも、変わっていくと思っています。私は、「バージョン1.0」「バージョン2.0」みたいな呼び方をしているのですが、プリンター本体を安く販売してインクを買い続けてもらうモデルから、プリンター本体を無料で貸し出すモデルに変わり、さらには使った分だけ費用がかかる従量課金制に変わっていくのではと考えています。その先にあるのは、プリンターのシェアリングエコノミー。世の中には、稼働率が低くなってしまっている、高性能な業務用プリンタもたくさんあります。インターネットと組み合わせることで、眠っているプリンタと、印刷したい人をマッチングすることができると考えています。

そこまで来ると、今とは印刷のあり方ががらりと変わるのではないか。そんなことを考えながら、経営をしています。大学卒業後初めての仕事が紙パルプだったので、紙の価格についてもよくわかりますし、この事業をするのは自分の運命なんだと思っています。

また、会社経営をしつつ、ここ数年は大学院に通い、日本と中国の関係性について学んでいます。日本と中国の関係って独特で面白いんです。私は中国が好きですが、一般的な日本での感覚で言えば、中国に憧れるってあまりないじゃないですか。欧米には憧れるけど、中国はちょっと違うというか。でも、日本の文化には、昔の中国文化への憧れのようなものも組み込まれている気がして。中国にも日本の影響はあって、お互い微妙な距離感を保ちつつ、関係を与えあっているというか、作用しあっている。その感じが面白いんですよね。

特に「高木陸郎」という人物について専門的に研究しています。大正から昭和前期にかけて、日本を代表する中国通経済人と言われた人です。実はこの方、三井物産出身で、第一期の中国修業生なんですよね。その後、太平洋戦争終戦までは中日実業の副総裁を務め、終戦後は日本国土開発を創業。規模感はぜんぜん違うんですけど、どこか私と通じるところがあるなと。

調べていくと、彼の発信していたことは、今の経営にも生きることがたくさんあります。例えば、中国を見下すのではなく対等に見ようという話であったり、一方的に人を送るのではなく合弁会社を作って一緒に盛り上げよう、といったことです。元々黙々と何かをするのが好きなので、研究の世界は性に合っていると思います。

自分が好きなことをできるのは、支えてくれる社員や家族のおかげです。私も、もうすぐ父が亡くなった47歳になります。これからどれだけ生きるかわからないし、人生ってそんなに長くない。だから、無駄なことや苦手なことに時間を使っていても、仕方がないと思うんです。特別な才能がなくても、得意なことをひとつでも見つけられたら、それでいいかなと。

将来のことを考えたりもしますけど、まずは目の前のこと、今やれることに集中して毎日を過ごしていきたいですね。

2016.12.05

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