スポーツトレーナーの雇用を生み出したい。僕が日本のスポーツのために考えること。

スポーツトレーナーとして活動しながら、同時にトレーナーを団体やチームへ派遣するプロジェクトの活動に尽力されている舟橋さん。日米両方のスポーツ界を見てきた中で、どのような思いから現在の活動を始めたのか、お話を伺いました。

舟橋 立二

ふなばし りゅうじ|スポーツトレーナー
ADP(アスリートディベロップメントプロジェクト)の代表を務め、各団体やチームへトレーナーを派遣する活動を行う。
またプロバスケットボールチーム、東京エクセレンスのメディカル・スーパーバイザー、高山千尋選手(プロテニスプレーヤー)のトレーナーを務める。

NSCA-CSCS、 FIFA認定メディカルラインセンズ・レベル3(TMIL3)、JATI-ATI、日本医学英語検定3級

株式会社GBR アスリートディべロップメントプロジェクト(ADP)
東京エクセレンス

自分にはサッカーの素質がない


幼稚園のころに水泳を始めたのが、私のスポーツとの最初の接点でした。
もともと小児喘息持ちだった私を心配した親に勧められたんですよね。
「習わされていた」という感覚に近かったですが、水泳がきっかけでスポーツに興味を持つようになったんです。

そして小学校3年生からはサッカーを始めました。
水泳とは逆に、好きでどんどん打ち込むようになり、
中学に入ると浦和レッズの前身の下部組織のチーム所属し、サッカーに打ち込みました。
本当に毎日サッカーばかりで、やるからにはプロになろうという気持ちにまでなっていましたね。

しかし、あるとき現在の東京ヴェルディの前身である、
読売サッカークラブという強豪チームと練習試合をする機会があり、
レベルの違いを痛感したんです。

自分には素質がないと悟ったんですよね。

高校に上がってからもサッカー部に入っていたのですが、
プロを目指すという感覚ではなくなっていました。

3浪目に出会ったやりたいこと


そして高校3年生になり、周りと同じように自分も大学受験を意識する時期になりました。

「あまり興味もないけど、大学行かなきゃいけないのかな」

というのが正直な感想でした。

色々学部も見てみるのですが、やはりスポーツに関わることしかやりたいと思えなかったですね。
たまたま早稲田大学の人間科学部で元サッカー日本代表の加藤久さんが教授となったこともあり、
漠然と興味を持つようになったくらいでした。

ところが、そのようなスタンスなので当然受験にも受からず、結局2年浪人したんですよね。
そんな折、3浪目を向かえていたある日、たまたま雑誌を見ていて、
アメリカのアスレチックトレーナーの資格を目指して勉強をしているという人の記事を見つけたんです。

その記事で初めてトレーナーの仕事があるということを知ったのですが、
スポーツに関わり、かつ人の世話をしたり、サポートできるというのが、
まさに自分がやりたいことに近いんじゃないかと思ったんです。

そう感じてからはすぐ行動に移しました。
アメリカの学校に入学するためのTOEFLの勉強をしたり、パスポートの用意をしたり、
約半年ほどの準備期間を経て、渡米したんです。

アメリカのスポーツ環境のリアル


渡米後の3か月はサンフランシスコの語学学校に通い、2年制の大学を経て、
カリフォルニア州立大学ロングビーチ校に編入しました。

ここはスポーツが強くて有名な学校で、卒業生には各界の有名選手が名を連ねるような学校でした。
そんな中レベルの高いスポーツチームに触れながら、より専門性の高いことを学べたのはとても良い経験でした。

元々は、ATCというアメリカのアスレチックトレーナーの資格をとるために勉強していたのですが、
資格試験自体は合格したものの、大学の留学生用の試験になかなか通らず、
最終的には資格を破棄することになってしまいました。

それでも、それまでの勉強で得るものがあったので、それを活かし卒業後もアメリカで活動を続けることに決めたんです。

卒業後、チアリーディング協会のトレーナーを1年間務めた後、
ロングビーチジャムというセミプロバスケットボールチームのトレーナーを務めることになりました。

当時田臥勇太選手が入ってきたことなどもあって、チーム自体はバスケットボール界で注目されていましたが、
ABAというNBAの下部リーグのチームだったので、選手の待遇が決して良くないことも間近で見て感じていました。

NBAに所属していれば専用のジェット機に乗って担当の栄養士がいてというような待遇ですが、
ABAだと移動はもちろんバスで、お金もなくコンビニやファーストフードで食事を済ますという状況なんですよ。
シーズン途中に、トレーナーである自分と、田臥選手など数名を除き、
監督を含めメンバーが総入れ替えになったこともあるくらいでした。

ただ、そういう状況があるからこそハングリー精神が強く、プロ意識の高い選手がたくさん生まれていて、
良い影響があることも感じていましたね。

最終的にここで1シーズントレーナーやりましたが、
ちょうど9.11の後のビザが取りづらい時期だったこともあり、
日本に戻ることになりました。

日本で感じた課題感


日本に帰国すると、名門である日本大学バスケットボールチームのトレーナーをやらないかと、
声をかけてもらいました。
そこで僕はアメリカでやってきた経験を活かし、
同じように選手のメンテナンスや治療などをやろうと思っていたんですよ。

でも実際には、チームの監督に選手のトレーニングをやってくれと頼まれたんです。
日本とアメリカではトレーナーに対する認識が全く違ったんですよね。

アメリカのアスレチックトレーナーはしっかりと分業がされているので、
どんな仕事をする人なのかという範囲が明確に決められているのですが、
日本では、本来アメリカではやらないトレーニングや栄養面の管理など、
全部やる人という風に思われているんです。

この違いには驚きましたね。もうやるしかないので自分でいろいろと勉強しました。
結果的にはそのおかげで自分の幅が広がったのでよかったなと思いますね。

その後も大手企業や様々な大学のチームのトレーナーを経験しました。

そんな中で、一つの学校やチームに、トレーナーとして所属し続けることの難しさに気づいたんですよね。
日本では、トレーナーの雇用は少なく、安定しないんです。

実際に、学生から「トレーナーとして働きたいと思っているのに、働き口がない」
という相談を受けたこともありました。

本来のトレーナーとしてのベストの状況は、一つの大学や企業にいて生計を立てられることだと思うのですが、
現状そんな人はほとんどいません。

こんな状況を間近で見てきて、段々と自分でなんとかしたいと思うようになっていったんです。

トレーナーの地位の確立からスポーツ界の振興につなげる


そんな背景から、アスリートディベロップメントプロジェクトというトレーナーの派遣業を立ち上げました。

なるべく多くのトレーナーの雇用をつくることで、
日本でのトレーナーの地位を上げていきたいと思っているんです。

また、雇用をつくるためにはトレーナーを雇う企業の側も変えていく必要があると感じます。
現在はなかなか雇うことにお金をかけてもらえませんが、
一つの企業などにフルコミットできる環境を増やせば、
トレーナーのレベルも上がりますし、最終的には選手たちにとってもメリットがあるんですよ。

実際には企業の理解を得ていくための方法はまだ模索中ではありますが、
他のトレーナーの方々に声をかけていくなど、一人でできることから今は始めています。

こういった取り組みが、最終的には日本のスポーツ界の振興につながると思うんですよね。
最終的にトレーナーと企業などといった、需要と供給のバランスを整えるのが私の目標です。

2014.05.30

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