成功のビジョン作りに必要なのは「覚悟」。ケニアの地で、魚食・生食という新しい文化を。

臆病で消極的な性格だったという薬師川さん。友人との出会いや海外での仕事経験を通じて、次第に変化が生まれます。念願だった海外での飲食店経営に至るまで、足りなかった最後のピースとは、いったい何だったのでしょう。お話を伺いました。

薬師川 恭平

やくしがわ きょうへい|ケニアで寿司の販売
ケニアのナイロビにて、持ち帰り専用の寿司を製造・販売するKAI LTDの代表を務める。

人と違っててもいいんだ


生まれも育ちも大阪府大阪市です。きょうだいは兄が1人います。

小さい頃は臆病な子供だったと思います。何をするにも一歩踏みとどまってしまうような、消極的な性格でした。

小学校時代に野球とサッカーをし、中学からテニスを始めました。他にも友達とよくキャンプに出掛けたりとか、体を動かすのは好きでした。学校へ通い、部活に励み、それなりに充実した毎日を過ごしていたのですが、いつもこうした「枠」から飛び出してみたいという気持ちを持っていたと思います。

ですが、そのためにどう行動を起こしてよいか分からず、現状はずっと保守的なまま。将来に関しても、母が教師だったこともあって、何かしら堅い仕事に就くことをイメージしていました。

そんな自分の性格に影響を与えた人物がいます。それは高校2年生の夏にクラスに転入してきた1人の友人です。私の通っていた高校は女子がほとんどで、いつも限定された友人関係の中で過ごしていたのですが、そんな中に彼が転入してきたインパクトはとても大きかったです。

彼はアメリカに留学経験を持っていました。初めは接しにくいな、と思っていたのですが、テニスやカメラなど趣味が合うこともあって、どんどん仲良くなりました。彼に惹かれたことの中で一番大きかったのは、バックパッカーの聖書とも言われる沢木耕太郎の『深夜特急』を互いに読んでいたことですね。

彼と接していて自分の中に起こった一番の変化は、「人と違っててもいいんだ」という認識を持てたことです。彼は転入当初から、茶髪のソフトモヒカンでピアスをあけてて、爆発的に個性的でした。それなのに成績はいいし、英語も喋れて、スポーツもできるし、いろんなことを何でも知ってる。同学年ながら私は、憧れに近い気持ちを持って彼に接近し、彼から受ける刺激をどんどん吸収していきました。

閉鎖的な日本を出たい


高校3年生へ上がる春、2人で「一緒に旅行しよう」ということになったんです。英語も喋れない私は、始め躊躇しましたが、彼の感化をすでに受けていたんでしょうね、自分の中の好奇心が臆病に打ち勝ち、行くことに決めました。

行き先はタイ。『深夜特急』を読んでいたので、かねてから「東南アジアって面白そうだ」
と思っていたんです。テニスの最後の試合があった関係で、私は彼に3日遅れでのタイに出発し、現地で待ち合わせしました。運良く、日程的に、タイのソンクラーンという水かけ祭りにも参加することができました。これは、現地の人も旅行者も混ざって人種の区別もなく、みんなで水や泥をぶっかけ合う祭りなんですが、これに参加できたことは自分にとって衝撃的な体験となりました。

10日間ほどの旅行を終え、日本へ戻ってくると、もう3年生の1学期が始まっていたので、教室の場所すら分からないという、浦島太郎状態。でも、自分としたらちょっとした英雄気取りと言いますか、妙な優越感はありましたね。「ああ、自分は人と違うことしたんだ」という感じ。その時のタイへの旅行は、友人と出会って変化した私の気持ちを、さらにその先へ導くような体験となりました。

同時にこの頃から、「この国を出たいな」という気持ちが強くなっていきました。海外って、匂いというか空気感がまるで違うし、人も違えば、文化も違う。日本へ戻ってきて、こっちの電車に乗ると、みんなつまらなそうに静かに下を向いてるし、自分の国ながら「何だここは」と思ったのを覚えています。生まれ育った日本が、何かすごく閉鎖的な場所に思えてきました。こうした海外への憧れもあって、大学は大阪外国語大学を選びました。

2度のベトナム留学と飲食への興味


大学ではベトナム語を専攻したんです。友人と旅行したタイの雰囲気がすごく好きだったので、東南アジアの言葉がいいなと思っていたんです。本来ならそのままタイ語を希望するべきだったんでしょうけど、タイ語専攻は倍率が高かったので避けたんです。でもそんな理由で選んだベトナム語だったので、授業を受けていても「何でオレこんなこことやってるのかな?」と疑問が拭いきれませんでした。ベトナムのことをその時の私は少しも知りませんでしたから。

それで、1年次が終わるとすぐに休学を申し入れ、留学することにしました。通常、2年次、3年次終わりに留学するケースがほとんどなんですが、私の場合そのタイミングで行ってしまわないと、もう気持ちが保てなかったんです。行き先はもちろんベトナムです。ベトナムのことを知るには、行ってその地を見るのが一番、そう思ったんです。

でも、実はこの時、「もう二度と日本へ帰って来ないかも」という気持ちがありました。現地の語学学校へ通うことにすぐ飽きてしまうと、一人で小さな旅行を繰り返しました。でもそれにも飽きてしまうと、元々明確な目的を持たなかったのでやることがなくなってしまい、結局半年後には日本へ戻ることとなりました。休学期間は1年間だったので、残った半年間はアルバイトをして過ごしました。

3年次が終わると、再び私は留学を決意しました。やっぱりもう少しベトナムを見てみたかったし、卒業後、企業に勤めた時、駐在先にベトナムを選ぶことをイメージすると、言葉ももっと上手く喋れるようになっている必要性があると思ったからです。

2度目の滞在となると不安も少なかった分、人との交流も増えました。現地の日本食レストランでアルバイトもさせてもらい、そこのお客さんとの会話がとても刺激的でした。この時から自分の中に、飲食店経営への興味が膨らんでいきました。そんなこともあり、1年間の留学を終えて日本に戻ると、私は調理師免許を取りました。

ニュージーランドへ就職


大学4年生の時、日本のアルバイト先で、ニュージーランドへ中古車の輸出をしているお客さんと知り合いました。この方から誘いを受け、「一度ニュージーランドへ下見に来ないか」ということになったんです。行ってみると自然がきれいで気候もよくて、すっかり気に入ってしまったので、私はこの話に乗ることに決めました。当時、英語力にはほとんど自信がなかったので、これは英語の勉強もできて給料ももらえる、いいチャンスだと思ったからです。

この時から、将来的には飲食店の経営をしてみたいという気持ちが固まりつつありましたが、一方で一度会社で働いてみたいという気持ちもあったんです。大学を卒業して何の経験もないまま独立しても、成功のビジョンが見えなかったんです。話によるとその仕事は給料もよかったので、資金を貯める意味でもいいかな、と思いました。

卒業式の直前にニュージーランドへ渡り、わずか2〜3週間の引き継ぎを経て、そこから「1人駐在」が始まりました。ですが、最初は英語もろくに分かりません。たまたまオフィスと車のオークション会場が近かったので、電話での話がままならない時には、直接会いに行ってやりとりをしていました。

車の知識はほとんどなかったのですが、仕事の段取りを示すオペレーションマニュアルが一応ありましたので、何とか仕事を成立させることができました。もちろん時にはイレギュラーなことが起きますので、それにも全部英語で対応しなくてはいけません。大変なことが多かったですが、毎日が刺激的でしたね。

仕事自体は夕方できっちり終わるので、夜は週3くらいで、現地で知り合った方が経営している日本食レストランでアルバイトもしました。するとますます飲食店経営の夢は膨らんでいきました。もうそのままニュージーランドで自分の店をオープンさせてもいいんじゃないかと思うくらい。

1年半ほど過ぎた頃、仕事のほうは勝手を言って辞めさせてもらうことにしました。やはり中古車販売の仕事のほうに、それ以上興味が続かないと感じたんです。

日本に戻って短期のアルバイトを少しすると、またベトナムへ渡って、学生時代に働かせてもらっていた日本食レストランで働かせてもらいました。学生時代はホールでお客さんの話し相手をしていましたが、今度は厨房の仕事です。

この時、店のオーナーから「飲食やりたいなら、今独立しちゃえば?」と言われたのですが、結局尻込みしてしまいました。当時はまだ覚悟もなく、ビジョンもはっきりしないので、借りたところでちゃんと返せるかという心配があったんです。

ベトナムの日本企業で働く


半年ほど働いてまたいったん日本に戻り、思考を整理し直すと、2010年9月、私はある覚悟を持って、ベトナムへ渡りました。まだベトナム語をしっかりと生かして働いていなかったので、何でもいいからベトナムで仕事をしてみようと思ったんです。

現地で日本企業に対して就活をすると、運良く大手海運会社に受かりました。そこから現地採用の営業職として、ホーチミンを拠点に働き始めました。もちろんそこにずっといるのではなく、働きながら「いつか独立して飲食店をやりたい」という気持ちは、ずっと持っていました。

2013年の夏、現地のテニスサークルで知り合った先輩がMBAを取得のための勉強を始めたのをきっかけに、仲間内で、起業のための勉強会を開くようになりました。そこで出たアイデアを元に、私は物品販売に挑戦してみることにしました。

それは日本から取り寄せたコーヒーフィルターをオリジナルのパッケージに入れて、観光客向けに売ること。これは運良く日本人がやっていたホーチミンのお土産に置かせてもらえたこともあって、非常によく売れました。

でも私は売れ具合より何より、「ビジネスって、いざ始めてみると計画以上にわからないことが起き、だからこそそれを解決しようと必死になる楽しさがあるんだ」といいうことに驚きました。また、その販売を通して人を雇うことまで経験でき、私の中には少しずつ自信が積み上がっていきました。

念願の自分の店をケニアでオープン


海運会社に勤め始めて4年が経とうとする頃、高校時代の友人が、ケニアのモンバサへ駐在になったことを知りました。すると、私にとってケニアが身近に思えてきました。それに加え、「東南アジアの次は、アフリカが勢いづいてくるはずだ」と、かねてからアフリカの地に商機を感じていたんです。それに私が過ごしてきた4年間で、ベトナムにはもう日本食レストランも急増していましたので、飲食店を開いてもすでに成功の見込みは薄くなっていました。

2週間ほどの仕事の休みをもらってケニアへ行き、ナイロビを視察して回りました。ナイロビはまさに理想の地に見えました。私の心は一気に走り出し、念願だった飲食店経営を、ここケニアでやる、そう決めました。ケニアは海に面している国なので魚も獲れますし、物流インフラも比較的整っています。それにナイロビには6〜700人、ケニア全土で7〜800人ほどの日本人がいますので、最低限の需要は見込めます。さらには日本人が経営する日本食店もありません。これだけの好条件を目の前にして、今乗り出さなかったら、自分にはもう一生チャンスは訪れないと思ったんです。

ベトナムに戻ってすぐに会社へ「今月いっぱいで辞めさせてもらいたいです」と伝えました。上司は薄々勘付いていたと思います。でもさすがに私が一ヶ月後に辞めると言い出すとは思っていなかったらしく、少したしなめられましたが、何とか理解を得ることができました。

それから1度日本に戻り、食品を輸出してくれる商社を探しながら1ヶ月ほど過ごすと、2014年9月にケニアに渡り、翌年2月、日本食レストランのオープンに漕ぎ着けました。今までずっとやりたかったことが実現し、私自身すごく高揚しましたし、店には日本食を珍しがったお客さんがたくさん押し寄せてくれました。

当初は起業したこと自体に高揚し満足していました。ただ、半年が経つ頃には、長期的に向き合えるテーマや軸が自分にあるのか、焦燥感にかられるようになりました。そんな時、現在提携しているスーパーから「寿司を店舗で売らないか」と声をかけてもらったんです。「これだ!」と体に電気が走りました。まだ誰も挑戦していない事業に取り組める、そう思いましたね。レストランはビジネスパートナーに譲り、これからの人生をかける価値のあるテーマに、再度一から挑戦するという強い想いで、新しくKAI LTD.を立ち上げました。

現在はナイロビのスーパー内でお持ち帰り用の寿司を提供し、運営店舗は4店舗を数えます。今後も、できればこの地で20年、30年とビジネスを続けていきたいです。結婚もしましたので、ここで子育てもしていきたいですね。そのためにも生き残っていかなきゃいけません。

今のビジネスに関して言うと、まだまだケニアでは上流階級の人以外、生食を知りませんから、ケニアの興隆とともに、寿司を通した生食文化がどれだけ定着していくか、これが鍵を握っていますね。私としてはもちろん将来的には、またレストラン運営に乗り出そうと思っています。

今ようやく、海外において飲食で独立するという1つの夢が叶ったので、これからはもっと
大きなテーマを掲げてビジネスを推進していきます。それは、ここケニアで「新しい食文化を創造していくこと」と、「良質な食を通した社会貢献をしていくこと」。そのためには漁業を開拓して魚の質を良くしていくなど、課題は山積みです。

思い返せば私の20代は本当に悶々とし続けていました。悩みすぎて「憤死」してしまうんじゃないかっていうくらい。(笑)でも、いざ「始めよう」と決めると、今まで悩んで行動できなかったのが何だったんだと思うほどトントン拍子に進んできた感じがします。

今こうしてやれているのは、私がただ「決断」をしたというだけ。やって失敗するイメージを持たずに、成功のビジョンを描けば、一歩踏み出す勇気が必ず出てきます。そのビジョンを描くのに必要なのは、知識より経験より、何よりも「覚悟」。ケニアにおける新しい食文化の創造と、食を通した社会貢献へ向けた私の挑戦は、まだまだ始まったばかりです。

2016.11.15

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