経営者として、大好きなテレビに関わり続ける。経済番組から学んだたくさんのこと。

テレビ番組制作会社を経営する田辺さん。会社の強みである「経済番組」の制作に携わる中で、ご自身の中に生まれた経営者としての想いとは、どのようなものなのでしょうか。お話を伺いました。

田辺 裕

たなべ ゆたか|テレビ番組制作会社の経営
株式会社P. D. Network代表取締役を務める。

テレビに興味を持つ


東京都港区で生まれ育ちました。小さい頃からテレビが好きでした。最初に夢中になったのは、アニメですね。『鉄腕アトム』とか『エイトマン』。毎週ワクワクしながら観てました。他にも『じゃじゃ馬億万長者』といった海外のテレビドラマも見ていました。そこからアメリカへの憧れみたいなものが生まれてきたような気がします。あとは『8時だョ!全員集合』を見て、お笑いが好きになったりもしました。

小学校を卒業してから中学に入るまでの春休みは、時間がたっぷりとあったので、毎日、NHK放送センターへひとりで見学に行ってました。あそこに行くとスタジオがのぞき見できるんですよ。時にはドラマの撮影とかもしてて。運良く見られた時には「あの俳優、テレビで見たことある」とか感動して。そういうの好きだったんです、テレビの世界を間近で感じられるのが。他にも、テレビやラジオの公開番組にはよく応募して足を運んでいました。

高校からサッカーを始め、大学でもサッカーサークルに熱中しました。将来のことはあまり考えていなかったですね。弁護士の父からは、司法試験を受けるように勧められていましたが、私にはその気がありませんでした。六法全書をチラッと見ただけで難しさに舌を巻き、諦めてしまったんです。昔から 自分の力の限界を見極めるのが得意だったんですよね(笑)。一応、大学は法学部に進学しましたが、司法試験の勉強は一切しませんでした。

就職活動ではいくつかの会社を受けましたが、志望していたのはやはりテレビ業界でした。当時、テレビ局の選考は意図的に二つ同時には受けられないようなスケジュールが組まれていたので、日本テレビ一本に絞りました。高校サッカーの中継や、チャリティーの大切さを訴える『24時間テレビ』などの番組が好きだったんですよね。

運良く志望が通り、日本テレビで働き始めました。最初に配属されたのは、編成局という部署でした。簡単に言うと、いつどういう番組を放送するか決めるところです。つまり、各番組の制作スタッフ、そしてスポンサーを獲得する営業の人たちと折衝する仕事ですね。「こういう番組をやりたい」「これじゃ売れるわけがない」「この番組は視聴率が落ちてるのでテコ入れが必要だ」といったことを話していくんですが、交渉相手は、社内でも力を持った年配プロデューサーやディレクター。こっちがいくら力説しても、最後は「お前、番組作ったことないだろ!」で終わり。これを言われると返す言葉もありません。

この一言は、確かに的を射ているんです。編成局の仕事を続けていると、番組や放送全体を俯瞰して見れるようになりますが、下手すると評論家のままで終わってしまいます。本来、作った人の苦労が分からなければ、改善のポイントも分かるはずないですよね。

それでも編成局の人間として、番組編成は自分たちの手で決めていかなくてはいけないので、大変な仕事でしたね。この先社内でどう生きていくのかといった不安もありましたが、辞めようとまでは思っていなかったので、とにかくやるしかありませんでした。

ディレクターよりもプロデューサー


それから程なくして、スポーツ局に異動となりました。1991年の東京世界陸上を間近に控え、人員が必要だということで、声をかけてもらったんです。でもこの時すでに私は30前。当然、先に数年の番組制作を経験している同年代には敵わないんですよね。スポーツ中継などは覚えることも多くて、とにかく苦労しました。

わりと早い時期に、自分はディレクターとしては二流だと見極めていたので、プロデューサーとして生きるしかないと思っていましたね。スポーツ中継のディレクターは、生放送でカメラマンに指示を出しつつ、カメラの切り替えを担当するんですけど、これが私にはどうもうまくできなかったんです。今この瞬間が全国で流れていると思うと、ガチガチに緊張してしまうんです。慣れた人にはゲームを楽しむような作業でもあるのですが、少なくとも私には向いていないと思いました。

それにディレクターの仕事って、本当に時間がかかるんです。番組の編集をしてて、気づいたら朝になっているとか、二日寝てないとか、ザラにあるんですよ。そんな生活をしていると、時間の使い方として納得できないように思えてきました。一つの番組に多くの時間を費やすよりも、プロデューサーとして数多くの番組に関わりたいし、プライベートも含めていろんなことに時間を使ってみたいと思ったんです。

結婚して子どもが生まれると、もっと時間が自分の思い通りにならないことが増えてきます。しかし家庭を持つことはそれまで経験したことがないことに直面することで、成長していく自分を実感できました。経験者の話だけを聞いて、あれはこうだ、これはこうだと決めつけるのではなく、何事も経験しながらよく考えて自分で決めていくということを学びました。

めんどくさい奴にならないために


プロデューサーになると、ディレクター時代と比べて圧倒的に充実していましたね。ただ他の同年代の人と比べて制作歴は短いので、常に「人とは違う新しいことをしなきゃ」という焦りはありました。しかし色々と試す中で、どうすれば面白い番組を作れるか、勘所がわかってくるんです。少ない予算の中で、再放送もので費用を抑えつつ、ここぞというところにお金を投入して思い切ったことをするのが楽しかったですね。

特に、スポーツ情報番組は自分の色を出しやすく、レギュラー番組の中でスポーツバラエティの走りみたいな企画を始めました。たとえばスポーツを頑張っている子どもたちのところに、超一流選手を連れていき、一日コーチをしてもらうといった内容です。今ではよくある企画ですが、20年以上前の番組としては斬新だったと思います。これはレギュラー番組にはできなかったんですけど、見てくれた人たちからの評判が良く、一つの自信になりました。

また、優秀な演出家と一緒に組んでやった番組が大きく評価されたことで、徐々に重要な仕事を任されるようになりました。幸か不幸か日本テレビの看板番組であった野球中継のプロデューサーになったんですよ。当時、野球、とりわけジャイアンツ戦は大人気で、ほっといても視聴率が20%くらいあるような状況でした。でもその分、野球選手を他の番組でもキャスティングしたいという話がたくさん来るなど、調整がめちゃくちゃ大変でしたね。

スポーツ番組の後には、日曜の朝と夜に生情報番組をやったり、バラエティやドキュメンタリーをやったりと、色々な番組を掛け持ちでやってたんですけど、不思議とだんだん上のポジションになると仕事をやらなくてよくなるんですよね。どういうことかと言うと、制作会社のプロデューサーがほとんどやってくれたり、もう一人若手の局員プロデューサーがつけられたりするんです。だから私は大まかな指示だけして「あとはよろしく」みたいな。

そのまま行くと、よく言われる「ハンコだけ押すのが仕事」みたいな状況になることが想像できてしまい、仕事に対するモチベーションが上がらない時期が続きました。そうした「このままじゃだめだ」という違和感は30代後半からすでにありました。会社を辞めることも少しずつ考え始めていたのですが、まずは40歳まではやり、どういう形で辞めて、その後何をしようかと本格的に考えるのは、それからにしようと決めました。

最終的には、44歳の時に会社をやめました。それ以上後になると、周りの人と仕事をしづらくなると感じたんです。番組作りの中心にいるのは30代なので、50歳を過ぎた人が現場に口を出したりなんかすると、そっぽを向かれてしまうこともあるんです。よっぽど必要とされない限り、彼らは「年上の人と仕事をするなんてめんどくさい」と思ってますから。

それで、会社を辞めて、学生時代の後輩を誘って二人で独立することにしました。番組作りに関わり続けるなら、社内に残るよりも、外から関わったほうがいいだろうと思ったんです。

経済番組という強み


独立当初は、番組の企画を考えるだけの会社にしようと思っていました。でも、それだとお金になりづらいんですよね。自分が食べられるだけの仕事があればいいとは思っていたんですが、企画料だけではなかなか大きなお金が入ってこない。結局、企画だけでなく番組制作まで一括で受けるようになりました。制作会社の大変さは局プロデューサーの時によーく知っていたので、まさか自分が制作会社をやるなんて思いませんでしたね。

そんな感じで自分たちのために作った会社でしたが、社員が増えていくと責任も生じますし、やっぱり一緒に働いてる人が頑張ってるだけに、もっといい環境を作ってあげなきゃって、すごく思うんですよ。若い社員のことを自分の子どもみたいに思えてくるというか。これ、よくよく考えると、父の弁護士事務所のイメージが頭にあったんだと思います。父は自分の事務所に、他の弁護士数人と事務の人たちを抱えていて、常にその人たちのことを大事にしていました。知らずと私もこうした姿を理想として追いかけていたんです。

会社が軌道に乗り始めるきっかけとなったのは、経済番組のレギュラーを持てたことです。前職の先輩が働いていたBS局で、新しいビジネス・経済番組を作ろうということになり、その話を私たちに任せてくれることになったんです。

経済番組を作るのは初めてで、分からないことの連続でした。まず誰に司会者になってもらえばいいのかすら分からない。放送作家の人も、そこまで経済に詳しいわけではないし、私は番組を始めてから日経新聞を取るようになったくらい。経済にはとんと疎くて。番組スタート当初は、司会者の方に怒られてばかりでしたね。

それでも、この番組がレギュラーとなったことで、会社はある程度安定しました。その後、優秀な人材が数名入ったことを機に、どんどんと即戦力の人が入ってくれて、会社のステージが変わった気がします。

多くの経営者に刺激され、新事業にチャレンジ


2002年に創業した「P. D. Network」は、創業して14年経ちました。現在、社員は35名。経済番組をはじめとして、情報番組、ドキュメンタリーなど、テレビ番組制作を幅広く手掛けています。

経済番組を作るのって、本当に難しいんです。生半可な状態で取材に行くと「そんなことも知らないのか?」と怒られたり、ピントのずれた質問をして「本当に大丈夫なんですか?」と企業の広報に心配されることもありました。どこの制作会社でもやらなきゃいけない状況になったらできるのかも知れませんが、普通は敢えて自分から経済番組をやろうとは思わないんですよね。私たちはたまたま経済番組をやることになったのでその道を開拓し、それが今、会社の強みとして生きています。

それだけでなく、たくさんの経営者の話を聞けたことは私自身にとっても大きな財産となっています。自分の中に経営に関する話の蓄積ができたので、変な言い方になりますが、同ジャンルの経営者には、そうそう負けないだろうという自負を持っています。一方で、番組で出会った経営者の方たちがすごく羨ましくもあります。みんな本当に素晴らしい会社を作っていますから。仕事を通して得た知識を活かし、これからもどんどん新しい事業にチャレンジしていきたいと思っています。

ですので、テレビはもちろん好きなんですが、今後はもっと事業拡大に力を入れていきたいと思っています。テレビ番組の制作は、レギュラー番組を持つと大きい収入になるんですが、その分、レギュラーを失った時のリスクが大きいんですよね。番組を作るために社員を増やしていっても、レギュラーがいっぺんになくなったら最後はリストラするより他ありません。事業の成長と雇用を、本当にバランスよく保たないと、会社が持ちこたえられません。ですから、今後は番組制作以外の事業を立ち上げて、より安定した経営基盤を作りたいと考えています。

ここ数年は、会社として、また一つのターニングポイントに差し掛かっている気がします。どんどん若手社員を増やしているんですよね。その際、面接はすごく大事にしていて一次面接から私がやるんです。会社の良さを自らしっかりアピールしたいからです。中途採用のほうはやはり難しく、現在30代40代の社員が少ないので、3年後、5年後を見据えると、20代の若手社員を早いスピードで育てていくことが何より重要です。若手を育てる上で上層部にいつも言っているのは「自分の息子や娘にもそういう教え方をするのか?」といったことですね。

今、仕事がとても楽しいので、できるだけ長く働き続けたいと思っています。多分、4・5年後には会社の規模が2倍ぐらいになっていると思うので、人材の確保とともに育成の強化が絶対に必要です。経営者への取材インタビューでも伺った「企業は人なり」という言葉は、本当にその通りだと感じています。

2016.07.20

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