救えなかった命が教えてくれたこと。第一線にいた脳外科医がメスを置いた理由。

わずか3歳にして、医師になることを決めていたという荘司英彦さん。好奇心旺盛で、負けず嫌い。そんな性格もあってか、紆余曲折しながら念願の医師としての道を歩みはじます。救急医療を行いながら脳神経外科の最前線で働いていた荘司さんが、誰もやったことのない新しい医療を提案しはじめました。その理由を聞いてきました。

荘司 英彦

しょうじ ひでひこ|医師
四谷メディカルクリニックにて診療部長として勤務。 脳神経外科に加え、予想医学と東洋医学を研究、実践中。伊豆高原の医療コンシェルジュ付きオーベルジュ「LE PATIO」オーナー。予想医学エデュケーター講師。脳神経外科専門医。

3歳にして医師を目指した理由


秋田県で、教員の両親のもとに次男として生まれました。代々、学校の先生という家系で育ったのですが、両親は放任主義。親父が世界的に有名な山登りをする人で、自由に生きていたせいか、うるさいことはあまりいわれなかったので、ノビノビと育ちました。

医師を目指したのは3歳の頃。いまでもはっきり覚えているのですが、母方の祖父が在宅でなくなった時のことです。親戚一同が集まっていて、いよいよという時、祖父の呼吸と心臓が止まって、死亡の確認をした医師が「ご臨終です」といった瞬間、みんな泣き出したんですよ。

明らかに医師が死亡宣告をする前に祖父は亡くなっていたんだけど、「ご臨終です」といった瞬間に、みんなが泣き出すんです。そのギャップがとても面白くて、僕ひとりその場で笑い転げたんです。それを見たお医者さんが、「君は豪傑な人間だから医者になりなさい」といって、医師になることを約束したんです。

ただ、そのために勉強に打ち込んでいたわけでもなく、高校1年の時、担任に「この高校から医学部にいったやつはいないから無理だよ」と言われたんです。そのことがとても悔しくて、その担任と喧嘩しました。「学校から出たことのない、医者になったこともないやつにいわれたくない!見返してやろう」と、僕自身ものすごい負けず嫌いなので、その日から猛勉強をはじめた訳です。

とはいえ、高校では山岳部に入っていたので、毎週山登りしたり、30キロのザックを背負って10キロ走るなど、部活が忙しくて、勉強する時間が限られていました。でも、部活のハードなトレーニングのおかげで、根性はかなり鍛えられましたね。

現役では医学部合格は無理だったので、浪人時代にめちゃくちゃ勉強しました。高3の時の担任は、医学部合格は「無理」だとはいいませんでした。その先生は浪人生の僕にとても親身になってくれて、自分の担当する補習授業を受けさせてくれました。現役の高校生に混ざって勉強したのですが、先生の期待にも応えるべく頑張ることができました。

その年に試験ですが、前期は何となくできたという自信がありました。でも、もっとみんなできているだろうと思い、合格発表も聞かずに次の試験に向けて勉強を続けていました。

すると、近所に住む祖父が家を訪ねてきて、「合格おめでとう」と言われたんです。それで、医学部に合格したと初めて知ったんです。あまりの嬉しさに、祖父と二人で抱き合って、泣いて喜びました。いまだかつてハグなんてしたことなかったのに(笑)。

医師への道を諦めかけた大学時代


大学に入ってからは、あまり勉強をしませんでした。1年目にして留年が決まってしまったので、担当の先生に謝りにいったんです。そしたら言い訳をせずに素直に謝ったことに「気に入った」といって、レポートを提出することで、合格にしてくれたんです。同じ過ちを繰り返さないよう、それからは気持ちを入れ替えて、勉強するようになりました。

大学3年の時に、親友に誘われて南米を2カ月旅行したんです。ナスカの地上絵を見たり、イグアスの滝を見て大自然を感じたり、マチュピチュは誰が作ったのかとか、世の中って不思議なことがたくさんあるんだなと、色んなことを見聞きし体験できてとにかく楽しかったですね。

旅行前までは、呼吸内科に進もうと思っていたのですが、インカの墓で頭蓋骨に手術跡があるのを見て、こんな大昔から手術していたなんて、とても興味が湧いたんです。脳って、まだ解明されていないことがたくさんあるんです。それを機に、脳神経外科にすすむことを候補のひとつに加えました。

順調に医師への道を歩んでいるように見えましたが、大学5年生の時に、退学になりかけました。公務員試験を覚えてくるというバイトがあったのですが、そのバイトをした全員が謹慎処分を受けたんです。夏休みに事情聴取されることになったのですが、どうせ退学になるやつは退学になると考え、もともと予定していたネパール旅行に行ってしまいました。

でも、旅先でこれからのことを考えていたら、悲観して一人で涙を流していました。連絡のつきづらい、もっと遠くに行きたくなってチベットにも行ったりして、気持ちを紛らわしました。

このまま退学になって医者になれなかったら、もう自分には何もない。医者の道は諦めて、別の道へ進めば良い。そう腹をくくって戻ってきました。

すると、すでにコトが収まっていたんです。ちょっと拍子抜けしてしまったのですが、旅行前に提出していた、タイで医学研修をするという旅程を出していたのも功を奏したようでした。

命拾いをし、せっかく助かったのだから、もっと真摯に生きようと思いましたね。こうなったら一生懸命やろうと気持ちをリセットでき、ゼロになった時から医者になれたような気がします。

3度も死にかけた経験がくれたもの


大学を卒業するまでの人生で、僕は3度ほど死にかけているんです。1度目は5歳のとき。熊牧場にある飼育スペースに落ちたんです。その場は、危機一髪で助かったのですが、万が一、熊のお腹が空いていたらどうなっていたか分かりません。

2度目と3度目は大学生の時、いずれもバイク事故でした。友達が乗っていたのと、スピードを出すのが好きで、バイクに乗りはじめました。

最初の事故は、一人で峠を走っていた時のこと。気持ちよくドライブしていたのに、突然コーナーが曲がりきれなくなり、縁石にぶつかって転倒。ゴロゴロと転がったて、もうダメだと思った所で、バタッと体がとまったんです。しかも、無傷。

転がっているときは走馬灯を見ながら、自分は死ぬんだと諦めていました。横たわる僕をカモシカが悲しい目で見ていたことが、とても印象に残っています。

事故以来、ものすごい恐怖感がありましたが、超えなくてはいけない、トラウマを作りたくないと、またバイクに乗りはじめました。

2度目の事故もスピードの出し過ぎで、今度は崖から落ちました。幸い落ちた所が、枯れ草の所で、クッション代わりなってくれたので、大けがをすることなく、切り傷だけで済みました。

自分が死にかけた経験に加えて、医師になり救急で働いていると、様々な出来事をみることになります。だからなのか、生きているだけでラッキーだなと思えるようになったんです。救急で運ばれてくる人は、助かる人と助からない人がいます。全員は助かりません。だからどんなに辛いことがあっても、死生観みたいなものですが、自分は生かされているんじゃないかと思うようになりました。

「自分の家族だと思って患者と接しろ」。尊敬する先輩からいわれた言葉を胸に、脳外科医として、救急医療に携ってきました。最初の5年は秋田の病院の医局で働き、その後東京に出てきました。

メスを置く決意


医師となってから、レベルを上げて多くの人を救いたいと思い、たくさんの手術に携わることができました。ただ、しばらくすると同じことを繰り返しているだけのような錯覚に陥り、モチベーションが下がってくることがあったのです。また、同時に、救急外来をやっていると、運ばれてきた段階ですでに手遅れの患者さんを数多く見るんです。何とかこの人たちを救えなかったのか。家族のように接するからこそ、その思いは強くなります。

病気になるのには原因があります。病気になってから病院へ来るのではなく、その前に治すことはできないだろうかと考えはじめていた時に、3つ上の先輩の影響もあり、病気にならない医療、病気を初期に治す医療という予想医学に興味を持ちました。

これは、自分の健康状態を知り、先行きを予知し、予防策を検討し、健康リスクを回避するというもので、自分の考えを実践できる専門のひとつだと確信しました。思い立ったらすぐに行動に移すタイプなので、専門を脳神経外科から予測医学へシフトすることを考えはじめ、無料で市民公開講座を開いて講義をしたり、ビラを作って啓蒙活動もしました。

一方で、外科医として手術をして、命が危ない人を助けたらやりがいはあるので、葛藤もありました。もちろん、助かると思っていた人が助けられない時もあります。そんな時は自然と涙が流れてしまいますし、目の前で消えゆく命を救えないことに、何度も辞めようと思ったこともありました。

でも、そんな時こそ負けず嫌いに火がつくんです。ここで辞めたら申し訳ない。医療技術は、人の屍で進化してきているのだからと。

そんな葛藤の中で、自分が今何が一番やりたいのか、真剣に考えました。決断を下すのに、半年くらい時間がかかりましたが、今の自分にとっては、やっぱり病気を予防することでした。救えなかった命から、健康リスクを予防することを教わり、2015年4月に、15年間の脳外科のキャリアに一旦ピリオドを打ち、メスを置くことに決めました。また手術がしたくなったら戻ろうと思っていますが、今は手術ではない道に進もうと思ったんです。

それから、新たなクリニックで予想医学の講師として働きはじめるとともに、自分の理想の医療を実現するための「医療コンシェルジュ付オーベルジュ」をオープンするために動き始めました。予防医学が大事だと言っても、普通の人は病気じゃなければなかなか病院には来てくれません。だったら、普段来れるような場所で、しっかりと医療相談をできるようにしたらいいと思ったんです。

少し前に伊豆高原でクリニックとしても使えそうな物件を探していたのですが、メスを置くのと時を同じくして、近くの病院で非常勤のバイトが入ってきたんですよね。それなら、通いながら準備ができる。そう思ったのが、本格的にオーベルジュを準備するきっかけでした。

すると、知り合いや協力してくれる人がどんどん増えてきて、必然的に「できるんじゃないか」という気持ちの盛り上がりも感じたんです。

誰もやったことのない、初めての挑戦


最後の1カ月間不眠不休で準備し、多くの友人に助けられながら2016年6月に医療コンシェルジュ付オーベルジュ「ル・パティオ」をオープンすることができました。ギリギリ間に合った感がありますが、どうにか夢の一歩へたどり着くことができました。

木金土のみの営業。残りの日は、東京のクリニックで予想医学を提供しています。

オーベルジュでは、掃除からお料理のサーヴ、医療相談まで、料理以外のことを全てやります。病気の人でも、病気じゃない人でも、話を引き出しながら、その人が病気にならないように予防策を提供します。ここでは治療ではなく、治癒を目指していているので、代替医療の情報も提供しています。

病院にいたときは、救急車が病人を運んできたり、黙っていても病人がやってきます。ですが、病院は待っているだけで、たくさんの人がやって来ますが、来た時には手遅れ人も多いのです。

もっと自分から出て行けば、助けられる人が見つかるはずです。それに病院だと、1日に50人以上の患者さんの対応をしなくてはいけないために、一人の患者さんとお話できるのは、せいぜい数分。オーベルジュなら、30分以上、じっくりとお話しできます。

オープン時に来てくれたお客様の一人は、僕が以前手術した患者さん。旅行先の都内で急に倒れられて、緊急手術しました。さっそくお話させていただいたのですが、ご自身の手術前に旦那様が病気になってストレスが溜まっていたこと、手術後に両親がなくなったことなど、手術前後の話を聞くことができ、たくさんのドラマがあったことを知りました。病院では聞けないような前後の文脈を知ることは、病気の原因を知ることにもつながるので、大事なんですよね。

オーベルジュもオープンしたばかりですが、将来のことはあまり考えていません。その時に思ったことをやるのがモットーなので、なるようにしかなりませんから。無駄な努力をしたくない、というのもありますが、時代のニーズがないこともしたくはありません。今、一番実用性の高いことをやるだけです。それが面白いことであれば、さらに楽しいんですよ。

病気になるには原因があるので、その原因を事前に知ることがとても大切なんです。病院以外で行われている素晴らしい治療が世界にはまだまだあったということを知り、学び、そして最終的に、医師という枠組みを外して、本当に世の中に必要な医療は何かということ。

自分の力はちっぽけなものですが、周りの人に助けられると力が湧いてきて、疲れていてもできちゃうんです。色んな人を巻き込んで、どんどん繋がっていく。一人でも多くの命を、事前に救いたい。僕の新しい挑戦は、始まったばかりです。

2016.07.12

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