愛あるからこそ、ロジカルに。東京だからこその理想のウェディング。

フリーのウェディングプランナーという未知の領域を開拓し、理想のウェディングを追求している遠藤さん。そこへ辿り着くまでには、両親からの愛情、様々な経験からの刺激、また多くの人たちとの出会いがありました。

遠藤 佳奈子

えんどう かなこ|フリーウェディングプランナー
フリーのウェディングプランナー。上質なおもてなしにこだわり、フォーマルの中に個性やリラックスムード、遊び心を投影する、洗練された都会的ウェディングを提案する。

女の子が苦手な女の子


兵庫県の宝塚市で生まれました。ちょっと変わった家族で、母はオペラ歌手、姉はサックス奏者、妹は女優さんをやってるという、私以外みんなアーティストという一家なんです。父は金融系企業で働いていましたが、音楽が好きで、いつも車の中ではオペラを聞いている人です。

両親は子供たちにこれをしなさいと、押し付けることはなかったです。でも何か一つ得意なものや熱心になれるものを持てるよう、導いてくれたと思います。色々なことにチャレンジさせてくれましたが、「何でもどうぞ」ではなく、本気なのかどうか、厳しくチェックされました。

母の子育てはいつも情熱的で、正面から向き合ってくれていましたね。幼稚園の時、欲しかったキティーちゃんグッズを、お店でいくつかくすねてしまったことがあります。それに気づいた母は、私を正座させ叱りました。その時初めて母の悲しそうな顔と涙を見ました。

その後、母は私を連れてそのお店に行くと、従業員の人に何度も頭を下げ、ひとつひとつ商品を返しました。私に「謝りなさい」とは一度も言いませんでした。だけど私の過ちを自らの過ちとして、深々と頭を下げる母の姿を見て、幼心にも「本当にしちゃいけないことをしたんだ」ということを痛感しました。

その後、どうして良いのか分からずに立ち尽くす私に、母は言いました。「どれか一つ買ってあげる」キティちゃんのバンドエイドを買ってもらい、手をつないで帰りました。この一件で母の愛情の深さを知りました。

私は昔から「効率主義」でした。群れることも苦手。多数決に飲み込まれるのが嫌いなタイプなので、女の子同士の仲良しグループでも、クラスでも、そうしたコミュニティに溶け込もうとするのではなくて、違うと思えば異を唱えるタイプでした。

そんな性格だったので、中学の時、仲の良かった子たちがいじめ始めた転校生ををかばったことがきっかけで、翌日から私がはぶられました。それにいち早く気付いてくれたのが、学年で一番のガキ大将で、「気にすんな。今日からお前の親友はオレや」と言ってくれたんです。

その日から中学時代は、親友は男の子でした。最高の親友を得た私は、誰よりも楽しんで中学校を卒業したと思いますが、女子がすごく苦手で育っちゃいましたね。

情熱の母、ロジカルな父


幼少期からバレエが大好きで、妹と一緒に毎日踊っていましたが、妹にかなわず挫折し、中学校からはバスケットボールに転身しました。スポーツはすごく得意でした。市内3位というレベルの中学でしたが、高校にもスポーツ推薦で入学しました。

高校は、25年連続全国大会に出場する超強豪校。レベルが全然違いました。さらに気の強い子ばかりだったので、私は入部数ヶ月でメンタルをやられてしまい「もう死にたい」とう思うほど追い詰められ、休みがちに。

その様子に気づいたのは母でした。手を差し伸べてもらえると思ったのですが、「甘ったれんじゃない!」とほっぺを叩かれ、こう言われました。「あんた、本気で練習した?一ヶ月間休まずに行って本気でやってみなさい。それでもダメだったらやめていいから」と。さらに、学校へ行くと、それまで私のことを全く目もかけていないと思っていた監督に呼ばれ、体育館とは違う優しい表情で、母と全く同じことを言われたんです。「やめたかったらやめてもいい。だけど、その前に1ヶ月本気で頑張ってみないか?」と。

あと1ヶ月行けばやめられると思うと気持ちが楽になった私は、練習に集中し、その1ヶ月でみるみる上達しました。それに何より、周りの対応が変わりました。私のことをチームメイトとして認めてくれたんです。

「しんどいことをやっている」=「一生懸命」じゃないんです。身が入らず、逃げようと思いながらやっていると、本気で取り組んでいる皆にはバレているものです。そりゃ目障りです。母は全国各地に応援に来てくれました。そんな母の支えもあり、卒業まで3年間、バスケットボール部に在籍し、全国大会にも毎年出場しました。監督に出会えたことと、部活で過ごした3年間は人生の財産です。

大学は京都の立命館大学へ進みました。すると同じタイミングで、父が京都赴任になったんです。それまで単身赴任が多く、私の人生の中にほとんど存在していなかった父との二人暮らしが始まりました。暮らしてみると、父とはかなり馬が合いました。今でも家族の中でも親友のような存在です。

そんな父ですが、門限も設けないし、外泊しようが何も言わないので、私にはあまり興味がないのだと思っていました。ただ、父は私が大学を卒業する時に「お前は人の目を気にしすぎだから、気にし過ぎるな」と言いました。父から助言を受けることは、それまで生きてきて初めてでした。言われたその時は「?」だったんですけど、よく私のこと見ていたんですよね。その理由は、後に私が30歳くらいになった時に分かることになります。

企業の中でベストを模索した日々


就職先は、大学時代スポーツクラブの受付をしていたこともあって接客業をしたいなと思っていました。そんな時にウェディングプランナーという仕事を初めて知って「これしかない!」と思い第一志望に、晴れて大手ウェディング会社へ入社しました。

最初の職場は横浜の式場。早く一人前になりたくて、研修に没頭しましたが、アシスタントを務める中で、信じられないミスも沢山しました。だけど感情的に怒るような先輩は、一人もいませんでした。「あの時」の母と同じでしたね。勿論、厳しくご指導をいただくのですが、責任者は自分だからと頭を下げてくださるような、尊敬する先輩方ばかりでした。

数年後、横浜から東京に転勤。びっくりしたことがあります。結婚適齢期が全然違うんです。新婦の年齢が30代、40代、当たり前。先輩たちもそうでしたけど、都会の大人の女性は、バリバリ仕事もされていて、自信も持っていらっしゃって、皆さんすごく綺麗でカッコよくて。心底憧れましたね。

そういった新婦たちには共通点がありました。「私は目立たなくていいから、みんなに喜んで欲しい」と言い、これまでのような結婚式とは目的が違うんです。だから既存のウェディングとはミスマッチで。私は「この人たちの理想を現実にするにはどういうウェディングがいいんだろう」と、考えるようになりました。

同時に、耐え難いことも出てきました。私、この仕事において数字で評価されることがどうしても嫌で。会社は売上を考えて当然なのですが、私はたとえお客様がお金に余裕のある方でも、何でもかんでもむやみに勧め、売り上げを上げることはしたくないんです。

ある時、そんな私の思いを決定的にすることが起きました。そのお客様はお金にかなり余裕のある方でした。新婦がブーケをどれにするか二択で悩んでいたところ、私はドレスに合うものとして、高価なほうより手頃な値段なほうを勧めたんです。お客様も「やっぱりこっちだよね」と満場一致でそちらに決まりましたが、売上を上げるチャンスを自ら棒に振っているわけで。その時会社のことを思うと少しだけ罪悪感を覚えてしまいました。

さらに、婚礼後そのお客様がお食事に誘ってくださり、そこで準備していた金額よりも安かったということをお伺いしました。私には、「思ってたより安くて良かったですね」とは思えませんでした。会社の決まり・提携内で提案できる中で、最良を提案した自負はあったのですが、結婚式の資金としてご用意されているお金を、使っていただくことができなかったのです。

もしもっと幅の広い選択肢の中から、幅広い演出を提案できていたなら、もっとご満足いただけたのかもしれない。既存の中で提案できる幅や表現の限界を感じ、私の心は無力感に包まれました。

独立へ


それからブライダル業界を離れ、仕事を転々としました。やってみたいと思ったことは、全部やりました。弁護士秘書、企業受付、IT企業の営業アシスタント、大手企業の役員秘書など。でも、そうした中で、またブライダル業界に再挑戦したい気持ちが沸き起こってきました。

やっぱり私はウェディングプランナーの仕事が好きだし、自分にはこれしかないと再認識したんです。そこでまた新たに何社かウェディング企業の面接を受けに行きました。しかし私には、前回果たせなかった理想を実現すべく、設けた条件がありました。

一つは、月に担当は3件まで、ということ。以前のように月に10件も抱えていると、してあげたいと思うことができないんです。それは例えて言うなら、カフェラテのラテアートのようなもの。描かなくても売れるけれど、描いてある価値ってプライスレス。あれがあるだけで、会話が生まれ、写真を撮ったりと、何分も楽しめますよね。時間がないと、そういったことができないんです。

そうした部分をはしょっても、普通のカフェラテでお客さんは満足してくれて、クレームがくることもないんですけど、通常業務のプラスアルファであるラテアートの部分にこそ、そのプランナーが担当者である価値があると思うんです。

また自分のために一ヶ月のうち一週間は、ウェディングがない週末も欲しいです。気力も体力も使うウェディングプランナー、お客様のためにも自分のためにも自分がたくさんの経験をし、健康で、ハッピーでいることが大事だと思っています。そのためには、月3組が理想であると思いました。

もう一つは、業者さんの縛りをなくして欲しいということ。前に会社にいた時は「こういうことしたいんです」と言っても「うちの提携業社であれば」と言われ「じゃあ持ち込みにしてもいいですか?」と訊くと「持ち込みは禁止です」と返される。それで結局、表現の幅が限られる。それを広げたかったんです。

面接でこのように「月3件」と「業者の縛りなし」にして欲しいと言ったら、全部の会社に断られてしまいました。「あかんわー、どうしよう」と思い、実現する方法を考えたら、独立し自分でやるしかありませんでした。独立志向なんてものはなかったんですが、私のやりたいことは企業からお給料を頂いてやることじゃないのかって気付いたんです。

もっと自由に生きていいんだ!


2010年の1月に独立しました。お金が無かったのでまずはホームページを自分で作りました。今もそのままですよ。ただ、ブログを一生懸命更新しても、問い合わせの連絡はゼロ。どこへ話を持ちかけても、門前払い。「そんなの日本のウェディング業界では不可能だ」「変わってますね」ということを言われ続ける日々。

この先どうなってしまうのか、自分の未来が怖くて、布団にくるまり枕を濡らす夜を何度もありました。それでも私は信じていました。「私がもし花嫁だったら、絶対に私みたいなプランナーが必要だ!」って。

そんな時、両親が、家族旅行でニューヨークに連れて行ってくれました。実はあまり気乗りせず、無理やり連れて行かれたんですが、私はこの旅行を通して、私は私自身が思うよりもずっと、人目を気にして生きてきたことに気づいたんです。日本にいて、自分の意志や行動を否定されることが多くありましたが、そんなことは気にせず、もっと自分の想いを表現しよう、と。もしかしたらこれは、父と母から私へのメッセージだったのかも知れません。この海外との縁が、だんだんと私を取り囲む現実にも作用し、事態を変化させました。

独立して3年目になる頃、友人に連れて行ったもらったレストランに一目惚れし、ここでウェディングをやりたいと思いました。オーナーは外国人でした。企業に門前払いされることが常だったので、ダメ元で「ここでウェディングを私に任せてもらえませんか?」と、自分の思いや案をプレゼンしました。

私の話を聞いたオーナーは、しばらく考え、こう言いました。「この通り人気店だから、貸切にするウェディングはあまりしたくないんだけど・・・君とだったら考えてもいい」と。そうして、3年目にしてようやくウェディングを手がけられる会場が見つかったのです。

しかし次に私に降りかかってきたのは英語問題です。連絡のメールも全部英語。一通のメールを返すのに、2時間かかってしまうという有様でした。だけどようやく得たチャンス。この苦労を買ってでも、逃したくなかったので、必死で英語に取り組みました。

そして半年後、たまたま大手外資系ホテルの社長さんとお会いするチャンスがありました。その方は、一切日本語を話さない外国人で。ここで、これまで半年間英語を頑張ってきた意味を噛み締めました。まだまだつたない英語でしたが、またとないチャンスに一生懸命話しました。すると、何と数日後「ここでのウェディングを君にまかせたい」ということになったのです。

それからまたすぐ、今度はまた別の大手ホテルから連絡が入りました。「遠藤さんの作るウェディングや想いに共感しています。私たちと一緒にウェディングをつくりませんか?」と。ここもアメリカに本拠を置くホテルグループでした。

とかく外国人は「日本人は失敗を恐れすぎて何もチャレンジしない」と言いますが、彼らは、私という新しいウェディングにチャレンジし、活躍の場を与えてくれたのです。時には文化の違いから、彼らとのやり取りの中でイライラすることもありますが、それ以上に彼らから学び、得ていることが多く、感謝してもしきれません。彼らがいなかったら、今の私はありません。今の日本のウェディングも違ったと思います。

都会の女性たちに理想のウェディングを


ここ数年、ようやく安定して仕事ができるようになりました。もっとお金に執着しなさいと人から言われることもあります。でも私はお金のためにこの仕事をやっているわけじゃないので。お金のためなら他の仕事を選びます。一番の達成感は、新郎新婦の大切なゲストが、お二人の結婚式を心から喜んでくださるのを感じられた時。たとえお金を儲けたとしても、それがないなら満足できません。

私は、招待状、お花、カメラなどの打ち合わせにできるだけ全て同席します。外へのドレス選びにも希望があればついてきます。企業でやっていた時の2,3倍くらい、新郎新婦と一緒に過ごす時間が増えているので、当日は感慨もひとしおです。

たとえばカメラマンさんに「この靴はこんなこだわりを持って選んだものだから、靴も撮ってあげてください」などもフォローします。業者さんと新郎新婦のいい潤滑油になり、全てが新郎新婦の好み通りになるよう、時にそれぞれの代弁者になり、業者さんがベストパフォーマンスを出せる環境を整えるのもウェディングプランナーの仕事であると思っています。

私らしくロジカルに言わせていただくと、子供の時からバレエとか舞台芸術に慣れ親しんできたましたが、ウェディングもそうした舞台と似ていると思います。言い方は悪いかもしれませんが、ゲストは3万円というお金を出し、時間を割いていらっしゃるんです。だからこそ、人に見られることだけを前提にして、ステータスの象徴としてやってしまうと、まるで自己満足のようで、酷評をもらってしまうのもウェディング。

「彼らの結婚式は本当に良かった!」と自分のいないところでも語り継いでくれるようなウェディングが、理想的だと思っています。そうすると自然とゲストとのその後のお付き合いも、順調になると思うので。

また、舞台のように、お花・衣装・音響・司会・カメラ・・・と、支えてくれる裏方・スタッフが多いのもウェディング。だからこそ、そんなスタッフたちが「この二人のためならさらに頑張っちゃおう!」と思うことが、最高のウェディングへの近道でもあります。

私が自分の仕事のミッションを「愛される新郎新婦を育てる」としているのはそれが理由です。今後夫婦を支えてくださる家族やゲストはもちろん、スタッフからも愛される新郎新婦になっていただきたいなと思っています。

つまりは結婚式って、こういう風にもっとロジカルに考えるべきなんです。分かりやすく言うと、「それって実はゲストに喜ばれませんよ」ということも多くあります。ロジカルって冷たい印象を持たれますけどそうじゃない。愛があるからこそ、格好や感情にとらわれるのではなく、本当に何が良いのかを分析し、考える必要があるんです。

子供の頃からロジカルで、女の子が苦手だったからこそ、都会のかっこいい女性たちに強い尊敬や憧れを抱いているのかもしれません。そんな素敵な女性たちが、さらに輝けるウェディング作りをお手伝いをさせていただきたい。

お二人のキャラクターや年齢、ゲスト層や人数はもちろん、時代でも変化するのがウェディング。「ウェディングはこういうもの」と思うのではなく、それぞれ、その時々のベストを追求し続けていきたいと思っています。私の屋号である「ウェディングラボ=ウェディング研究所」には、そんな想いを込めているんです。

2016.07.01

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