人と違う選択を、恐れない。自分の感覚に正直な生き方をする。

【KURAND協力:日本文化チャンネル】新潟の日本酒メーカーの営業担当として働く若松さん。大学時代に親友と交わした「一緒に酒を造ろう」という約束を実現するまでには、どのような紆余曲折があったのでしょうか。

若松 秀徳

わかまつ ひでのり|日本酒酒造での営業
新潟県にある宝山酒造株式会社の営業担当として東京で活動する

新しい場所に飛び込んでいくことが好き


埼玉県本庄市で生まれました。小中学生の頃は、割とおとなしかったように思います。学校ではクラスの中心でもなく、写真撮影の際も、背が高いので後ろに並んでいたからというのもありますが、前に出てきてピースをしたりとか、そんなタイプではなかったです。

中学生の時は、背の高さを買われてバスケットボール部の人と時々一緒に練習することもありましたが、本来の部活は卓球部でした。親戚のペンションに卓球台が置いてあり、長い休みの際に遊びに行った時にやってみたら楽しかったのが、卓球を始めたきっかけです。

高校は、隣県群馬にある東京農業大学第二高等学校に進学しました。両親がとにかく大学進学を望んだので、大学付属の学校にしました。僕自身、埼玉県から出たいとも思っていました。県をまたぐのが嬉しくて。新しい場所に自分を置くのが好きなんですよね。僕の中学からその高校に進学するのは学年で5人くらいで、ちょっとめずらしい選択というのも決め手でした。農家の親戚の家に手伝いに行ったこともあったので、農業自体に抵抗感はありませんでした。

入学すると、背の高い僕は、強豪ラグビー部に入らないかと誘いを受けました。ただ、親戚から危ないと言われたので、ラグビー部には行かず、卓球を続けました。なぜ卓球がそれほど好きだったかというと、駆け引き的な面というか、心理戦が面白いと思っていたんです。

高校3年になった時、本格的に進路を考えました。この時、農大に進学するのではなく、理学療法士になるため医療系の学校に行くことも少し考えていました。子ども時代に負傷してリハビリを受けた経験があり、その時から理学療法士に憧れていた面があったんです。

それでも、最終的には農大に進みました。農大の附属校なので、学祭に遊びに行ったりとか、やっぱり農大の情報はたくさんはいってくるんですよね。それで、農大はとても魅力的に感じたんです。

農大の中で、選んだのは醸造学科でした。日本に一つしかない学科ということで、とても輝かしい印象を受けたからです。何かを選ぶ際に、「人と違うこと」が好きなんですよね。

偶然の出会いで始まった日本酒の道


入学式の日、学部のガイダンスがあったんですが、その時偶然僕の隣りに座っていたのが、新潟にある酒造の次期社長でした。醸造科には酒造の子どもが多いと聞いていたので、新潟出身と聞いてピンときたんです。「もしかして酒蔵関係者?」と聞くと、彼は「そうだ」と答えました。それ以降、彼とは仲良くして一緒にいることが多かったですね。

その影響か、日本酒を飲む機会も多くありました。友人の実家から送られてきたお酒を飲んだり、同級生の酒蔵のお酒を買ったり、結構いいお酒を飲んでいましたね。飲み会では、将来のことを語り合うことも多かったですね。とはいえ、僕は将来どんな仕事をするかあまり考えていませんでした。醸造科なので、お酒や食品に関わる仕事をするかな、といった程度でした。

そんなある時、新潟の酒造の彼と飲みに行っている時、突然「一緒に酒造らない?」と言われました。僕は深く考えずに「いいよ」と答えました。飲みの席での話なので、それから具体的に「じゃあどうする?」といったことを話す機会は一切ありませんでした。ただ、僕の頭の中には、漠然と「いつか一緒に酒造りをするんだろうな」という気持ちがありました。

そのため、就職活動の時期を迎える頃には、日本酒業界に就職しようと考えていました。彼は「卒業後3年間は、他の酒蔵で修業する」と言っていたので、「一緒に酒造りをするなら、同じ造り手になっても意味がないな。自分は売り手になろう」と思い、営業職を探しました。人と話すのも好きでしたし。

日本酒に関われる仕事を探そうということで、酒造や問屋、街の酒屋にまで連絡して職探しをしました。醸造科は専門的な勉強をするので、大学のキャリアセンターに行けば企業からの募集を紹介してもらえたりするんですが、そういうことはしたくないと思っていました。就職は人生の中で大切な選択。そんな大切なものを、人に勧められて決めるのは嫌だ。自分で決めたい。そんなことを考えていました。

ただ、動き出しが遅かったり、東日本大震災の影響もあり、なかなか就職先は決まりませんでした。だからといって、興味がない会社を受けようとは思いませんでしたし、焦りもなかったです。将来、彼と一緒に日本酒造りをすることしか考えていなかったので、どこも受からなければ大学に残って研究員でもやろうかと思っていました。彼とは、飲み会で一緒に酒を造らないかと言われて依頼、一度もその話をしていなかったので、不思議な話なんですが。

造りではない様々な経験


結局、10社ほどしか採用試験は受けませんでした。その中で、日本酒も少し扱っているワインショップに就職しました。少しでも日本酒に関わる可能性があるなら、という気持ちでした。

ワインショップでの仕事は、店舗や百貨店の店頭に立ち、お客さんにワインを勧めることでした。比較的富裕層のお客様が来ることもあって、スマートな心遣いというか、気持ちよくお帰りいただく接客が重要でした。最初はそのスキルがなかったので、怒られてばかりでしたね。

もちろん、ワインに関する知識もたくさん学びました。ワインに興味はなかったのですが、彼が修行を終えるまでの3年間は、彼とは違う分野で学べることを、とにかくたくさん学んでおこうと思っていましたので。

2年ほどして、そろそろ飲食店も経験したいと思い、転職しました。渋谷に日本酒ダイニングがあり、そこで接客をやりながら、日本酒の仕入れも担当させてもらいました。自分で仕入れたお酒をお客さんに直接勧めることができるのはやりがいでしたね。

どうやったら日本酒の魅力を伝えることができるかというのは、ここで学ばせてもらいまいた。お客さんにいくら味を説明しようと思って、「辛口」とか「甘口」とかいう言葉になってしまうので、説明するのは中々難しいものがあります。

そこできっかけになるのが、ストーリーです。それぞれのお酒にまつわるストーリーを話すことで、お客さんに興味を持ってもらうんです。そういったストーリーは酒屋さんがよく知っていたので、仕入れに行く時などに話を聞かせてもらっていましたね。

1週間考えて出した答え


新潟の酒造の彼とは、大学を卒業してからほとんど連絡を取っていませんでした。農大のイベントである「収穫祭」は卒業生の同窓会のようなものでもありましたが、そこにも彼は来ませんでした。そんな彼が修業を終えて実家に戻ったと、SNSを通じて知りました。

「一緒に酒造り」の話は、彼にとっては10年とかもっと先の話だったのかもしれません。それでも、一回ちゃんと話をしたいと思い「採用とか、どういう状況?」と、連絡を入れてみました。ダメ元で小突いてみたんです。

すると、一回話そうと言うことになり、社長である彼の父と二人で東京まで来てくれました。そこで二人は、日本酒業界の低迷が続いていることや、彼らの酒造の売上も思うように言っていないことなど、かなり深刻な話をされました。一方で、「今、人を雇える状態とは言えないけど、もし本気なら雇う覚悟はある。真剣に考えてほしい」と言われました。会社には営業がいなかったので、今後、販路を広げていくために、20代の若い力が必要と考えてくれていたんです。

時間を置いて、本気で考えてください。そう言われてその日は終わりましたが、時間を置いてと言われなければ、「やります!」と即答する予定でした。僕の中ではずっと一緒にやるものだと思っていましたし、若い力に投資したいという話を聞けただけで十分だったんです。

正直、両親や友人などからは、友達同士で事業をするのはやめた方がいいと言われました。ケンカになったら、経済的基盤も人間関係も失うから、というのです。

しかし僕は、「むしろやらなければ」と思いましたね。二人でやれば、絶対に楽しい。わくわくするイメージ、成功するイメージしかなかったんです。こんなに面白いことがあるのに踏み出さないなんてもったいない。この想いを大切にしたい。覚悟は決まっていました。

一週間後、今度は僕が新潟まで行き「働かせて下さい」と正式に伝えました。その日から僕は酒造の一員となり、営業を担当することになったんです。

気持ちに正直に生きる


現在は、新潟にある宝山酒造の営業マンとして、東京で単身営業活動をしています。店頭での試飲販売をしたり、イベントで自分の蔵のお酒を振る舞ったりします。

家族で経営している小さな酒造で、僕が入る前は営業マンがいなかったので、初めは仕事がありませんでした。1日8時間の仕事を作れないんです。それでも、人の縁が広がって、少しずつ仕事を頂けるようになりました。

特に、昔からお付き合いのある酒屋さんや問屋さんとの繋がりを、より強くすることを意識しています。以前は営業がいなかったので、イベントなどのお誘いを受けても断っていたのですが、今は僕がいます。とにかく、動ける人が一人いるだけで、話は入ってくるんです。僕ができることは全部やっていきたいですね。

今後は、若い人たちに日本酒を知ってもらえるような取り組みをしていきたいですね。同世代の僕だからこそ、親近感を持ってもらえるようなこともあるんだと思います。ちょうど、各酒造で世代交代があり、僕らと同じ世代の人が増えている時期でもあるので、日本酒業界全体で盛り上げていけたらと思います。

日本酒を盛り上げることで、日本文化を海外に伝えることのできる若者が増えるといいですね。ワインショップで働いていた時に出会うワイナリーの人たちは、みんなワインを通じて自国の文化を語れるんですよね。日本人も、日本酒を一つのきっかけとして、日本文化に興味をもってもらえたらと思うんです。

仕事のエネルギーの源泉は、宝山酒造の家族のみなさんですね。みんないい人で、新潟に行くと、心が温まります。他人である僕のことも息子のように迎えてくれて、本当に感謝しているので、「この人たちのために頑張りたい」と思うんです。

僕らの酒造には、30年勤めた80歳の杜氏がいるんですが、今年で引退します。次期社長、僕の同級生が杜氏を継ぐんです。実は、彼が一から造った日本酒は、まだ飲んだことがありません。僕自身、彼のお酒を飲むのが楽しみですね。彼が造りたいと思える酒を造れるように、サポートしていきたいですね。

僕はこれまで、その時その時「感覚」を頼りに生きてきました。その積み重ねの今、すごく順調にいっている感覚があります。少なくとも、目標に対して向かえてはいるかなと。これからも、日々の積み重ねというか、その時々の気持ちに対して言い訳しないで生きていきたいです。

2016.06.24

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