「想い」が集まれば「声」になる。「声」が届けば、社会はきっと変わる。

時代の波に揉まれ成長を続けてきたベンチャー企業の歩みととともに、自身を大きく成長させてきた西口さん。ガン宣告を受け、絶望と不安の中で見つけた道は、ガン患者同士をつなぐコミュニティを作らねばという、たった一つの使命でした。

西口 洋平

にしぐち ようへい|がん患者コミュニティサービスの運営
人材会社で働きながら、こどもを持つがん患者のためのコミュニティサービス「キャンサーペアレンツ」を運営する。

目立てる場所を求めて


大阪の堺市というところで生まれ育ちました。大阪の南のほうで、ちょっと言葉がキツいとか、やんちゃなイメージがある場所です。

子供の時は、いつもふざけてましたね。クラスの中に一人や二人必ずいるじゃないですか、みんなが真面目にやっている時でも、ふざけてるやつ。ああいうタイプです。でも、高学年になると意外と生徒会とかにも手を挙げて、6年生の時には生徒会副会長でした。目立てるところを探してた感じですかね。

サッカーをやっていたんですが、ちょうど小学生の時にJリーグが開幕したこともあって、サッカーでメジャーになることも少しは夢見ました。でも、中学になると自分のレベル感が分かってくるというか、サッカー選手なんて夢のまた夢だなと自覚しました。

両親は学校の先生でした。そんな親を見て私は、尊敬はしていたものの、先生以外の仕事がいい、普通よりちょっと違う人生がいいな、とは思ってました。頑張ったら評価される、そんな環境が自分にはあってるのかなと思っていました。

中学までは公立で、大きな学校でしたが、高校からは親の勧めもあり、1学年4クラスの小さな高校に行ったんです。するとサッカー部に入ってもそこそこ目立つことができるし、成績もちょっと勉強を頑張れば上位に行けるし、そんなちょうどいい「サイズ感」に、私自身、味を占めたんでしょうね。大学も、兵庫県にある1学年400人くらいの国公立大学を選びました。

ちなみに、サッカーでは高校、大学とキャプテンを務めました。私は器用貧乏なところがあって、みんな未経験のことを一斉にワッとやると、だいたい人より上手いんです。でも、みんなが練習しだすと、一瞬で抜かれるタイプなんですね。私からすると、どこへいってもおそらく、ちょっと小さいくらいのサイズ感が合ってるんです。友達だったり、先生だったりと、密なコミュニケーションも取れますしね。

がむしゃらな毎日で成長を実感


就職先を選ぶ時も、同じようにサイズ感を重視しました。周りや親からは「何で?」と不思議がられましたが、私は、当時できてまだ2年の、エン・ジャパン株式会社という誰も知らない会社を選びました(笑)。

それまではサッカーしかしてこなかったし、得意なことなんて何もない。就職活動は、業種も特にこだわらず、とにかく、小さくて、これからが面白そうなベンチャー企業に入って暴れてやろうかなと。

エン・ジャパンは、求人サイトを運営しているということ以外、私にとってもよく分からない会社だったんですが、面接で、社長がしきりに言っていたことが、妙に心に引っかかったんです。他の会社は福利厚生などを重点的にアピールする中、ここの社長は「仕事ってのは厳しいもんだ」「9割はしんどいもんだ」「最初の3年間はを食いしばってやれ」とか、そういったことばかり繰り返すんです。でも私は逆に、そこにリアリティを感じました。8回の選考を経て、晴れて内定をもらうと、不思議と不安もあまりなく「ここでやってやるぞ!」という前向きな気持ちしかなかったですね。

入社すると、目まぐるしい日々が始まりました。1日100件も200件も求人広告の営業電話をする毎日です。会社の認知度もまったくなかったので、まずは社名を知ってもらうため、電話をかけまくって、ようやくアポが取れると先輩と一緒に行く。最初はその繰り返しですね。それでもなかなか受注はできません。新規開拓というのはこれほど難しいのかと思いましたね。

あまりの辛さに涙することもしょっちゅうありましたよ。アポイントの目標2件のうち1件しか取れてないことを、先輩から「あと1件どうするんだ?」と夜中に何度も問い詰められて。あと、家に帰れずオフィスで寝たものの、寝坊してしまって、朝やろうとしていた仕事が終わっておらず、「何やってんだよ」と強烈に責められたりました。今となってはいい思い出ですが(笑)。

そんな時でも私はいつも、先輩に対して非難の気持ちが湧くというよりは「自分って、何て仕事ができないやつなんだ」と、常に気持ちは自分に向いてましたね。もっともっと頑張らないと、みたいな。

自分のことですら精一杯なのに、当時、毎年、社員の数が倍になっていってましたから、2年目なのに部下がいるという環境で、こんな感じが3年、4年とずっと続くわけです。こうしたキャパシティオーバーの状態が延々続きますから、逆に言うと、成長せざるを得ないわけです。もうアドレナリンが出っ放し、興奮状態がずっと続いているという、異常な状態でしたね。

世間の右も左も分からない若者だったのに、この会社に飛び込んだことで大きく成長できました。会社もみるみる大きくなっていきました。2007年には会社として過去最高益を達成するんですが、その時は皆、こんな状態がずっと続くものだと思っていました。ですが、リーマンショックという大きな曲がり角が、急にドーンとやってきました。

同じ目的を持つ人で集まることが大事


その影響で、やめていく人もたくさんいましたよ。全部で1000人くらいいた中で、希望退職制度などもあり、300人から400人くらいは会社を去りました。私としては、これまで育ててくれた会社がこうして困っている時に、何かできることはないかと思い、残ることに決めました。それに、こんな状況をなぜか私はあまり大きく受け取っていなかったかもしれません。「確かに大変だけど、辞めるほどじゃないかな…」ともどこかで思っていました。

その後、新しい事業を作るため、出資先の会社に出向することが決まりました。出向先の会社は、エン・ジャパンともう一つの会社が共同で出資した、いわゆるジョイントベンチャーでした。

行ってみると、エン・ジャパンとはあまりにも雰囲気が違うので、本当にびっくりしました。私はそれまで、お客様のために、社会のために仕事をしている、という感覚を持って働いていたのですが、そこでは皆、何のために仕事をしているかというと、社員それぞれが、自分の地位や名誉、お金のために仕事をしている、という感覚だったんです。

世の中には多様な価値観があり、人が働くのにもいろんな理由があるのだと改めて知りました。どの理由が理想的だとか、良し悪しなど、そういったことはありません。何よりもまず、目的を持つことが大事。そして、同じ目的を持った人たち同士が、集まることが大事。つまりは、それが企業であり、組織なのだということを、ここで痛感することになりました。

同時に、自分の最たる目的は「お金じゃないな」とも思いました。お金のために自分自身を裏切ることは、私にはできません。仕事を通じて成長したいとか、これから先もっと大きな仕事をしていたいとか、目の前の人が幸せになってほしいとか、そういうものに重点を置いていましたし、そんな同じ思いを持つ人たちと集まって仕事をしたいのだと、身にしみて感じました。

それでも何とか周囲と信頼関係を築きながら、2年ほど仕事に邁進していると、あの東日本大震災が起こったんです。その影響で、事業がストップすることになり、私はまた本体へと戻ることなりました。

戻った時はちょうど、人材紹介のビジネスを新しく立ち上げようとしていたタイミングで、私はたまたまそこに入れてもらうことができました。やはり自分と価値観の近い仲間に囲まれて仕事をするのは楽しいですね。この新しい事業は、すぐに子会社へ譲渡することになり、チームメンバーは事業と一緒に転籍することになりました。私はそこでグローバル企業向けの人材紹介会社の一員になったわけです。

茫然自失


毎日仕事に精を出していたところ、ガンの宣告は突然やってきました。2015年の2月、何日も下痢が続いて、体重が急激に落ちたので、私は最初、とりあえず下痢止めだけもらおうと病院へ行ったんです。2回ほど薬をもらっても、なかなか症状がよくならないので、3回目に行った時、原因がわからないので、内視鏡で検査してみましょうってことになったんです。

その内視鏡でも異常はなく、その時に採取した細胞を検査するというこで、その検査結果を聞きに行った時、私の目の白眼の部分が黄色くなっていて、体もちょっとかゆくて、おしっこもだいぶ黄色くなってたんです。これは黄疸の症状が出ているぞということで、すぐに大きな病院を紹介され、検査入院し、その2日後に主治医に呼ばれ「ガンの疑いがあります」と言われました。

胆管がんのステージ4。もっとも進んだ状態で、5年生存率は数%。先の仕事の予定も入っているのに「手術します」「しばらく入院です」「3ヶ月くらいは退院できません」と矢継ぎ早に言われ、「何なんだ…」と茫然自失になりました。やがてだんだんと事実を飲み込み、手術が近づいてくると、今度は「何かオレ悪いことしたかな…」「もっと悪いことしてる人はたくさんいるのに…」なんていう思いがにじみ出てきました。

手術は、感覚としては一瞬で終わりました。その3日後、妻と一緒に医師の所へ行き、病状や進行具合の説明を受けました。色々な箇所に転移していて、手術はできない。抗がん剤治療しか治療方法がないということでした。

その時にはあまりショックはなかったです。宣告された時の方がショックは大きかったですね。そこから傷がちゃんと治り、体力が回復してきたタイミングで、今度は抗がん剤による治療が始まりました。

最初は入院した状態のまま行われるんですが、体はわりと元気なので、病院の中ではすごく暇なんです。でも、周りは高齢者の人ばかりなので、自分の気持ちを打ち明けたり、相談をしたりする相手がどこにもいないんです。内心、悶々としながら治療を続けました。

しばらくして、何とか仕事に復帰し、何とか普段の生活に戻って落ち着いてくると、自分の中でちょっとずつ、「これまでの人生で何をやってきたのか?」ということを、すごく考え始めました。「もし今死んだら、自分が残したものって何だろう?」と。今、私の子どもは小学2年生ですが、成人して、家族の話をする機会があった時「私のことをどんな人だったと言うんだろう?」と思いました。

これまでの人生、自分としてはがむしゃらに頑張ってきたけど「この世の中に何かを残したかな?」と考えると焦りました。限りある時間の中で、必ず何かを残したいと思ったんです。

社会の中で必要とされる仕組みを残したいと考える中で、子どもを持つがん患者同士で繋がりを持つことができないかといった「キャンサーペアレンツ」の構想が固まっていきました。自分のように、若くしてがんを患わった人同士が、インターネット上で繋がれるコミュニティを作ろうと思ったんです。

キャンサーペアレンツ始動


現在も私は、キャリアコンサルタントとして、様々な企業に営業に行ったり、転職したいという人の相談に乗る仕事をしています。

しかし病気になる前と明らかに違うのは、自分の生活の中で仕事が占める割合です。体に負担がないようにというのはもちろんですが、ストレスもコントロールして常に健全な精神状態に保つことが、体の免疫力を高めるためにも重要になってくるからです。以前は生活の中でほとんどを仕事が占めている状態でしたが、今は仕事が50%ぐらいで、家族や友人、やりたいことに時間を割くようになりましたかね。

職場復帰から、一年ほど経った2016年4月に、私はSNS上で自分の病気のことを公表し、同時にキャンサーペアレンツの立ち上げを発表しました。4月1日、エイプリルフールの日です。この日を選んだのはなるべく明るい雰囲気で、悲壮感を出したくなかったからです。

案の定、友達からは「嘘でしょ?」というメッセージが相次ぎましたけどね(笑)。出だしはうまくいきました。嬉しいことにすぐに共感の声が届き、また「サポートします」と言ってくれる方々もたくさん現れました。

がん患者の中で、私なんて超若手、ルーキーなんです。だからこそ、どこにも繋がりがない。人にもなかなか言えないし、会社の中でも言ったら不利になるかもしれないという不安から言わないし。みんな、周りに言えず、孤独を感じているんです。ですが、人に伝えても、ちゃんと受け止めてくれる社会ってあるんだよ、っていうことを、私は、私と同じ境遇にある方々に、分かって欲しいんです。

働き盛りの、私くらいの年齢で大きな病気になった時、企業側が理解を示す文化が、まだ日本にはあまりありません。社員から「がんになりました」と聞くと「え?あなたもう働けないんじゃないか?」「辞めて、治療に専念したほうがいいのでは?」と、仕事を安心して続けていけるような反応ではないことが多々ある。だから、安易に言えない。

企業側も、雇用者が大きな病気にかかった時の対応法についての情報があまりなく、お互いに大きな問題を抱えている現状があります。ですが、何もしないと、いつまでたってもこの状況は一向に変わりません。現に、まだ小さな子どもがいると、子どもの将来のこと、お金のこと、治療のこと、家庭内のことなど、いろんな根深い問題があります。どうしていいか分からず、パニックに陥っている人も多いと思います。

この取り組みを、そういった方々が助けを求めて駆け込める場所にすると同時に、ここで集まることで、社会にきちんと届く「声」にしていきたいんです。ゆくゆくは、社会保障制度の中にも、こういう世代の人たちのことをサポートできるような体制を作っていきたいんです。そのために、まずは声を届ける。そのためには、声を出す人を集めないと意味がない。それは自分たちのためでもあるんです。

もちろん、活動を継続させるためにはお金が必要で、そのための事業が必要不可欠です。その事業の開発にも同時に取り組みながら、将来的には、きちんと事業がまわり、この組織で働く(収入を得る)ということが、がん患者の方の一つの選択肢になればという想いもあります。

自分のやっているこの取り組みが、同じがん患者の人はもちろん、そうじゃない多くの人たちの心の中にも、何かを残すことができたら、これほど嬉しいことはありません。

最後に、今までの人生の中で、私にはお世話になった人がたくさんいます。今の私の活動を容認してくれている会社にも感謝しかありません。そんな多くの人たちに、生きてる間に、感謝の気持ちを伝えたいし、恩返しをしたい。そう、私の最後の仕事は、みなさんに育ててもらった私にしかできない仕事であり、そして、その仕事を通じて、感謝を伝え、恩返しをしたいと考えています。

2016.06.16

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