自分の“軸”を持ち、ブレずに生きる。すべてのことはいつか必ず繋がってゆく。

生まれ育った熊本の大自然に親しみながら「農家の嫁になりたい!」という夢を描いていた児玉さんは、いったいどのようにして、人間と植物の関係性を追求していく道を歩み始めたのでしょうか。お話を伺いました。

児玉 絵実

こだま えみ|プランツコーディネーター
青山フラワーマーケットを展開する株式会社パーク・コーポレーションにて、草木を用いた空間デザインを提案する「parkERs」のプランツコーディネーターを務める。

自然への興味


熊本県熊本市で生まれました。市内の新興住宅街で育ち、小学生の時はよく自転車をこいで、森や川などへ行き、いつも自然の中に身を置いていましたね。

メダカやエビをとったりレンゲをとったりして遊びながら、周りの農家のおじちゃんおばちゃんたちと話しているうちに、次第に農業をやりたいなと思うようになっていました。

両親とも教師でしたけど、わりと放任主義だったので、隣に住んでいる祖父母の家によく遊びに行っていました。おじいちゃんから鶏小屋の作り方を教わったり、産んだ卵を見せてもらったりして「へぇー!」と驚いたり。そんな祖父の影響もあってさらに自然への興味を深めていったのかも知れません。両親は、私のやりたいことに関してはいつも背中を押してくれましたが、その代わり自分の責任で、と、そういったスタンスでしたね。

小さい時から何となく、いわゆるオフィスレディになることはあまり想像できませんでした。なんせ「早くおばあちゃんになりたい」と言ってたくらいですから…。(笑)

中学ではテニスに明け暮れましたが、高校では、やんちゃなくせに生物部に入ったんです。でも、これがけっこうハマっちゃって。熊本を舞台とした童謡『あんたがたどこさ』の中で「せんば山にはタヌキがおってさ」という歌詞があるのですが、高校は熊本城の裏にある「船場山」にあり、せんばダヌキを研究しようなんて私が言い出して。みんなでタヌキの糞を採取すると、それをザルに入れて水で洗い、何を食べているかを調べる、みたいなことをしてたんです。そうすると意外にも、ボールのかけらとか、輪ゴムなんかが出てきて…。思い返すとこの時から、自然と人間の関わり、といったものをよく考えるようになってましたね。

視野を広げた留学経験と大学生活


農業をやりたいといっても、ただ農家になるのではなく、大学生活も味わってみたかったし、もっと勉強をしてそれを農業の仕事に生かすんだ、みたいなイメージを持っていたので、高校卒業後は迷わず進学の道を選びました。

地元・熊本の東海大学の農学部へ入ることで、幼少期からの夢は一つ叶うんですが「もっと視野を広くしたい」と考えていたので、二年生の時に一年間、アメリカのサンフランシスコへ留学しました。

とにかく濃い一年でしたね。2回くらい命の危機もありましたけど。(笑)中でも印象深かったのは、最後に一週間くらいかけてアメリカを一周しようと思って出かけたら、ニューオリンズで丸一日以上電車が止まったんです。通常ありえないことなのでどうしたんだろうと思ってうろたえていたら、周りでは「戦争が始まるぞ!」なんて声も飛び交っていましたが、それはこの時ちょうど起きた、アメリカ同時多発テロの影響でした。私はひたすら恐怖におののくだけだったんですが、アメリカ人は、戦争に負けるという考えがないので、いたって強気なんですよ。これにはある意味驚きましたけどね。

留学を通して、国によって文化もまるで違うこと、そして「今のままの自分じゃ通用しないかも…」といった意識を強く持ちました。買い物をしてもお釣りは正しく返ってこないし、油断していると荷物もすぐ盗まれるし、日本人特有のお辞儀とか礼儀、例えば、頼まれてももったいつけて一回断るみたいな、そういうの、向こうでは全くありませんし。

大学では農業以外にも、植物学とか昆虫学だとかも勉強しつつ、レタスの研究などもしました。レタスって、元々日本の気候には合わない植物なんですね。顕微鏡などを使って病気になりにくい遺伝子を見つける、といったこともやっていましたね。

30歳まではいろんなことを経験する


卒業後の就職に関しては、あまり気張らず、自分を待っていたものに迷わず飛び込みました。というのも、私昔から、30歳まではとにかくいろんなことを経験しようと思っていたんです。「欲」が多いものですから。(笑)65歳で定年を迎えるんだとしたら、きっと30歳くらいまでは自由にやっていいんだろうなぁと、何となく思ってたんです。

はじめの就職は熊本で、大学の時、フラワーデザイン愛好会でフラワーアレンジを学んでいた関係もあって、切り花の「装花」の仕事に就きました。主に冠婚葬祭の「葬」の部分。祭壇を作る仕事ですね。単純に、人の最期を花で飾れる仕事って、すごくいいなぁと思ったんです。ただ、ガッチガチの肉体労働で、体力的にはちょっとキツかったですね…。

もちろん体を動かすだけではなく高度な技術も必要なんですが、夜中に一人練習したりしてそれを何とかモノにしていくと、次第に自分の中で「根っこの付いた植物に関わりたい…」という気持ちが強くなっていきました。切り花だと10日もすれば終わってしまいますが、根っこが付いていると、土の環境、肥料のやり方、水のやり方など、人の加減で大きく変わります。それに何しろ、長い期間を通して植物の成長を見守ることができます。

そこで、次は生産農家に就職しました。造園会社の一部署で、担当はオリーブとか多肉植物とかの生産をする仕事です。そうしているうちに今度は、園芸店の部門でちょうど人が抜けたので、「店長をやってみないか?」というお話が来ました。これを受け、園芸店の店長をになったのが、24歳くらいの時です。仕入れにも関わりますから、おじさんたちに混ざって「手競り」に参加したりもしましたよ。時には要らないものまで買わされたりして大変でしたけど。(笑)

この会社では造園で使う植木の勉強もできましたし、苗の目利きもできるようになりましたし、さらには自分の育てたものを販売してお客様の反応を直に見るということもできました。この時の経験からか、今でもあまり生産業者に「安くして」とは言えないですね。生産者がどれだけ苦労して苗を育てるかは、私、身を以って知っていますから。

いざ、東京に行かなんばい!


そうしているうちに、やっぱり熊本では、デザインの腕を磨くといったことに関しては、まだまだ環境的に整っていないと感じ「若いうちに東京に出て、感性を磨かなくては…!」と思うようになっていきました。

で、「行くなら表参道だ」と。表参道を目指したのは、これは単純に熊本人の考えですね。「行くんやったら一番のところに行かなんばい!(行かないとダメだよ)」というのがありまして。あ、ちなみに私、今でも標準語は敬語しか使えないんですけどね。(笑)

上京するとまずは、観葉植物店に就職しました。そこは某有名雑貨店にも植物を卸している会社で、商品企画、仕入れなどを担当しました。鉢を選んで植物を仕入れ、それを作り上げて納品するという。1週間に300鉢ほど作ってましたかね。

2年ほどやると、今度は、植物を専門に扱っている出版社に就職しました。

なぜ唐突に出版社の門を叩いたかというと、東京に来て思っていたことの一つに「現場って全部繋がってるんだな」というのがあったんです。東京に来ても、使っている資材のメーカーは同じだし、市場(いちば)もやはりそんなに多くはないですし。とにかく「花や緑の業界ってあんまり広くないんだなぁ」ということが分かったんです。ある程度、植物業界のコネクションを網羅していくと、今度は、それ以外の業界との繋がりが欲しくなったんですね。

やはりビジネス的にも植物業界ってあまり強くないんですよ。苦労の多い割には利益が少ないし、天候にも左右されるし、で。この業界だけで闘っていてはダメだなと思いながら、「じゃあ、植物業界をもっと広く知るためにはどこがいいだろう?」と考えると、それには全部の情報を統括している出版の業界に飛び込むのが一番であろうと思ったんです。

ここでは、市場などに置いてある業界誌や、プリザーブドフラワーの雑誌に関わり、営業と編集の仕事をやっていましたね。お客様はスクールの先生などでした。小さい会社だったので、いろんな仕事を任せてもらって、デザイナーさんだったり、カメラマンさんだったりと一緒に仕事をするというのは、すごく新鮮でした。

ただ立場上、お客様が作ったものを手放しで褒めなきゃいけない、そんな小さな嘘をつき続けることに、少しずつ耐えられなくなっていきました。植物業界での様々な経験があるだけに、余計にそれを強く感じる部分があったんです。それに私、あまり裏表のない性分ですし。

また、出版に関わって改めて強く感じたのが、花・造園・観葉植物って、植物の業界では完全に分けて考えられているということですね。

一般の人はさほどそれらを分けて考えていません。私自身もそう思っています。この頃からうっすらと「業界の隔たりをなくすような仕事を出来ないかなぁ」と思うようになっていきました。そしてそのためにはもっとたくさんの方々に、植物の魅力を知ってもらう必要があるんじゃないかと考えました。

もちろんそれと同時に「現場に戻りたい!」という気持ちも強かったですね。土が恋しくなったというか。そんな時に以前勤めていた会社の先輩を通じ、ある会社が新しい部署を立ち上げるからそこでプランツコーディネーターとしてやってみないか?と声がかかりました。それが今の会社です。ちょうど30歳の時でした。

自分の軸を持ち、いつもワクワクすることを


今でこそプランツコーディネーターを名乗っていますが、最初はそんな肩書きもないし、席もないし、仕事もなかったので、はじめは「仕事を作るのが仕事」でした。インドアパーク、室内に公園のような居心地のいい空間を作る、というコンセプトが用意されている中、内装デザイナーと植物の専門家である私が中心となって「ParkERs(パーカーズ)」をというブランドを立ち上げました。普段の生活の中で人と植物がよい関係が築いていけるよう、室内緑化やグリーンを生かした施設の施工、空間デザインをお手伝いしています。

普通、内装と植物の業者って分かれているものなんですけど、私たちははじめから「植物ありきのデザイン」を提供することによって、植物がきちんと育つ環境と、かっこいいデザインを融合させ、大きな相乗効果を生み出します。

私の役割としては、今までの経験をフルに生かし、植物の選定と、環境づくり、そしてそれらがどういったリラックス効果をもたらすかといった知識の部分まで、それらをお客様に付加価値として提供します。花も観葉植物も区別なく、ガーデンフラワーや造園の植木なども含めて根っこのあるものならすべて扱えるので、私個人的には願ってもない環境です。

寄せられる案件は、オフィスからマンション、公共施設まで、期間も1ヶ月から数年単位のものまで様々。会社やお客様の要望、方向性を丁寧に汲み取り、それをより効果的にするため、様々な提案をします。書面上のものが立体になった瞬間や、お客様が「わー!」と感動し、喜んでくれる瞬間がたまりませんね。ハーブもよく使いますが、香りに関しては全く書面には表せないので、施工した後のお客様の反応は、また特別です。

代表は日頃から「チャレンジしないヤツはいらない」と言っています。失敗してないのは何もしてないのと一緒だと。この考えが私は好きで「だったらやってやろう!」と。常に受け身にならず、チャレンジをし続ける…働きながらそういったことができるのはとても幸せですね。

この職場に出会い、私にとっては今まで植物を軸にポロポロとやってきたことが、全て繋がりました。

実際、他にも研究職に就くという選択肢があったのですが、どちらにしようか天秤にかけて、改めて思ったのは「自分は安定を求めるタイプじゃないな…」と。(笑)それであえて、何が始まるか分からない、今の仕事を選んだんです。

ただ植物をやるんじゃなくて、デザイナーがいて内装からやるというのは、今まで業界になかったことですし、何よりワクワクしたんです。はじめは何もない、イバラの道でしたけど。まず、お互いの業界用語が通用しない。私にとっては内装の限界・可能性が分からないし、向こうは植物に関することが分からない。ぶつかり合いも多かったですし、本当に険悪なところから始まりましたよ。とりあえず最初は、話が来たものに関して手当たり次第に提案するということをやっていましたが、新たな仲間が加わり、コンセプトを明確にして、ブランディングというものを意識しだしてからは、少しずつ事業の認知度が高まっていきました。

「日常に花と緑のある生活を」そして「五感に伝わるデザインを」など、こういった理念は必ず貫いていこうと。そうして、植物だけでもない内装だけでもない、それらが「融合した考え方」を、徐々に確立させていったんです。

苦労はしましたが、途中でやめようとは思わなかったですね。どうしたらいいか分からないけど、可能性は絶対にあると信じていました。

仕事は常に楽しいですよ。愚痴言うくらいならやめちゃえばいいって、私よく言うんですけどね。会社によって色々ありますが、人は「この会社に入りたい!」と思って入るんではなくて「これをやりたい!」と思って入るはずです。だから仕事を通して、その人なりの「目的地」を目指せばいいわけです。

実は、私が上京した理由にはもう一つあって、それは「園芸療法士」の一級を取るためでした。一級をとるためには指定の老人ホームで講師をしなくてはならないので、熊本ではどうしても二級までしか取れないんです。

講師をする中で、食事のスプーンすら握らないおじいちゃんでも、進んで土を触り、植物を植えようとする姿を目の当たりにして、改めて、植物の力ってすごいなと感じています。無事一級を取得しましたが、こうした園芸療法の要素は、もちろん今の仕事でも十分に活かされています。

私はこれまでずっと「植物と花からは離れないぞ」という、軸さえちゃんと持っていれば、何をしていてもいいんじゃないかと考え、その時々で柔軟に生き方を決めてやってきました。おそらくこれは今後も変わりません。今、最終的には、地元・熊本に貢献できる仕組み作りをしていけたらなぁ、なんて思ったりします。東京は、刺激は多いけど出口はないな、と。いつかは自分で出口を作って地元に貢献していければ…なんて。でもこれはあくまでも、先の話です。今はまだまだパーカーズが面白いので、しばらくはここに全力投球します。

あんまり先のことを考えるとキツくなるので、5年後くらいを見て「どういうふうになっていたいかなぁ?」とは、常に考えてます。(笑)

そういうふうにしていると、自然とそういう方向に行くってことが、今までの経験でちゃんと分かりましたから。

2016.05.25

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