母の想いをエンターテインメントに乗せて。つらい状況にいる人を励ます存在になる。

演歌歌手、作詞作曲家、俳優、モデルなど、多面的に活動をするマルチエンタテイナーの西村さん。「漠然とした憧れ」でしかなかった芸能界を、本気で目指した背景には、つらい別れがありました。芸能活動に込めた想いを伺いました。

西村 一輝

にしむら いつき|マルチエンタテイナー
滋賀県出身。「第6回東京ボーイズコレクション」の中で行われた「Mr.ボーイズ全国オーディション~イケメン総選挙~」でグランプリに輝き、芸能界デビュー。俳優、演歌歌手、モデルなど、幅広く活動するマルチなエンタテイナー。

相手を打ち負かすのが好き


滋賀県草津市で生まれました。小さい頃から、アウトドアや自然の中で遊ぶのが好きでした。海に行き、顔にシュノーケルを付け、手に銛を持ち、タコやサザエを採っていましたね。

近所で一緒に遊ぶメンバーはみんな年上でした。何をしても敵いません。悔しくて、自然と負けず嫌いになったように思います。

小学校3年生の時に野球を始めました。ポジションはピッチャーです。負けん気の強さから、バッターと1対1で勝負して、ストレートで抑えるのが好きで。チームで勝つことよりも、強い相手から三振を取ることに快感を覚えました。

プロ野球選手になりたいと思い、中学生になってからは、部活ではなく地域の「ボーイズリーグ」のチームに所属し、練習に励みました。全国大会常連のチームでしたね。監督がユースの日本代表の監督を兼任していた縁で、日本代表チーム相手に投げさせてもらう機会がありました。闘争心が燃えましたね。結果、5回を無失点に抑え、打たれたヒットは一本のみ。自信に繋がりました。

学校では陸上部に入り、平日は陸上、土日は野球に打ち込む生活。プロ野球チームのトレーナーが指導する「野球塾」にも入り、本格的にプロ野球選手を目指していましたね。

ただ、練習に打ち込みながらも、自分が思ったことをやらせてもらえない環境に、違和感を感じていました。監督の言うことが絶対で、「こうしたらいいんじゃないかな」と思っても、自分で考えたプレーはできない。それが窮屈で、そのままだと野球が嫌いになってしまいそうで、高校は強豪校ではなく、自由にのびのびと野球ができそうな学校に進みました。プロ野球選手を目指すのをやめた訳ではなく、高校では楽しみながら野球をしたいと思ったんです。

芸能界への憧れと母の死


ところが、自由にプレーできると思って進んだ高校でも、監督からあれこれ指示があり、のびのびと野球をすることはできませんでした。

特に投球フォームを直すように言われたのがつらかったですね。僕のことを考えての指示だとは頭では分かるんですが、指示されたフォームではどうしても投げづらくて。怒られたりするうちに、監督とは喧嘩のような感じになってしまい、結局、野球部をやめました。このチームにいると野球が嫌いになってしまうかもしれない。自分のやりたいことができない。そんな気持ちでした。プロ野球選手の夢も諦めました。

野球部をやめ、それでも、運動は好きだったので陸上部に移りました。種目は走り高跳びです。自分の記録を更新した時もそれはそれで嬉しいんですけど、それ以上に、大会などでライバルに勝てた時の方が嬉しかったですね。

野球をやめた頃から、将来は、芸能界に入りたいという憧れを持つようになっていました。元々目立つのが好きだったんです。テレビも好きで、お茶の間を沸かせる芸能人になれたらいいな、と。ただ、芸能人になりたいと父や母に話しても、不安定な仕事なのであまり賛成はされませんでした。

芸能界は、漠然とした夢でしかなく、現実的には、体育の先生になろうと考えていました。スポーツも小さい子どもも好きでしたし、子ども時代やんちゃだった自分を、先生はいつも認めてくれた記憶があったのが理由です。高校卒業後は大学に行って、教員免許を取ろうと考えていました。

そんな時、母が病気になりました。肺がんが見つかり、一旦完治したものの、間をおかずに白血病を発症。母の看病で家族が大変で、「芸能人になりたい」とはもっと言えなくなりました。

母と僕は性格がそっくりで、喧嘩もしましたが、仲がよかったんです。一緒にご飯を食べに行ったり、買い物に行ったり。それだけに、抗癌剤で髪の毛が抜けたり、歩けなくなったりと、見舞いに行く度にどんどん弱っていく母を見るのはつらかったですね。

この先長くはないと感じてか、病院でふたりきりになった時、母は家族について色々と伝えてきました。父や弟、祖母のことを「頼むで」と。その時に、「もし芸能界に行きたいと思っているなら、お母さんは挑戦してほしいと思っている」と言われました。「私はあんたが頑張ってる姿を見られへんかもしれんけど、おかんみたいに病気でしんどい思いをしている人とか、つらい思いをしている家族を励ませるような存在になってほしいな」と。そう言われて「芸能人を目指してみても良いのかな、頑張らなきゃと」と思えたんです。

骨髄移植などあらゆる手を尽くしたものの、間もなく母は亡くなりました。つらいけど、泣くわけにはいかない。弟は幼いし、父親もひとりになって寂しくなる。母から「頼む」と言われたからには、僕が頑張らなきゃ。泣いてたら母も心配する。お葬式でも納骨でも、一切泣きませんでした。

演歌歌手としてデビュー


母の想いを叶えるためにも、本気で芸能界を目指しました。とは言え、どうしたら芸能界に入れるのか、全く分かりませんでした。すると、友人から「東京ボーイズコレクション」というメンズファッションショーの中の企画「Mr.ボーイズ全国オーディション~イケメン総選挙~」のオーディションを受けてみないかと誘われました。同世代で活躍するモデルの人たちが出るようなイベントで、「せっかくだから受けてみようかな」と思って応募しました。審査を通る自信は全くなかったですね。

ところが、書類審査を通過。東京で面接をすることになり、意気込みを話すと二次審査も通過。それから、ランウェイで歩くためのウォーキングのレッスンなどに参加して、本番のファッションショーを迎えました。締め切りギリギリで応募したので、本番までは1ヶ月くらいでした。

本番では、300人ほどがランウェイを歩いて、最終選考に30人ほど選ばれます。僕も30人に選ばれました。それだけで奇跡だと思ったのですが、なんと最終グランプリに選ばれたんです。周りを見てもイケメンばかりでしたから、まさか自分がグランプリになるとは思いませんでした。グランプリの発表で、番号を呼ばれても自分だとは思わなくて。誰だろうと思っていたら、名前を呼ばれて「俺か」と気づきました。すごく嬉しかったんですけど、実感できず頭が真っ白でしたね。「え?え?」みたいな。審査員からトロフィーを頂いた時、初めて優勝したと実感できました。

グランプリを取り、映画の主演をすることが決まり、芸能事務所に入ったあと、社長から突然、「演歌をやってみないか?」と勧められました。驚きましたね。それまで演歌なんて聞いたこともありません。とにかく、まずは演歌がどういうものかを知ろうと、いろんな歌手の方の曲聴き漁りました。

その中で、小林幸子さんの『元気でいてね』という歌に出会いました。聴いた瞬間に、小林さんの声や歌詞が、心にジーンと響きました。母親のことを思い、ずっと元気でいてねというメッセージが込められた歌です。母のことを思い出したりして、一層心に響きました。

それまでは演歌に縁がなかったのですが、声や歌に込められた気持ちに心が動かされて。自分もこういう歌をうたいたい。こんな演歌歌手になりたい。演歌をやってみることにしました。

未知の世界だからチャレンジする


演歌をやると決めてからレコーディングまでは1週間。ボイストレーニングをする余裕もなく、とにかく演歌を聴きまくりました。まだ自分の持ち味なんて分からないので、先輩たちの真似でも良いと考え、自分に合いそうな歌い方や表現を探しました。

レコーディング当日、突然「うなりを出して」とか「こぶしをいれて」と言われて驚きました。ただ、思うがままにやってみると、意外とできました。自分の歌声をまじまじと聞くのは初めてで「大丈夫かな」と不安はありましたが、CDが完成した時には「できたんだ」と満足感がありましたね。それから、演歌でテレビ番組に出せてもらい、普通なら会えないような大御所の方々と共演させてもらいました。貴重な体験でしたね。

また、映画の撮影も初めての経験で、何も分からない状態からのスタートでした。事前の準備として、映画を何度も見て演技を勉強しましたね。撮影する映画が少女漫画のような雰囲気だったので、特に少女漫画系の映画を見ました。その中で、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』という映画は、本当に何度も見ました。

全然飽きないんですよね。何十回、何百回と見ても、新しい発見があって。映画のセリフがすぐに出てくるくらい何度も見ていると、間の大切さや、ストーリーの作り方が分かってきます。一本の映画ですごく勉強になりました。

ただ、実際の撮影は苦労しましたね。撮影は5日間の超短期決戦。短期間の撮影の中で、相手との「間」の取り方が特に大変でした。セリフの掛け合いの中で相手と呼吸や間を合わせるのが難しいんです。撮影は無事終わりましたが、自分の演技には満足できませんでしたね。

映画の撮影後は、主題歌を作ってみないかと言われ、初めて作詞作曲をしました。少女漫画系の映画なので、演歌ではなくポップスで曲作ってみないか、と。新しいことに挑戦するのが大好きなので、迷わずやらせていただきました。

芸能界は、僕にとって知らないことだらけです。知らないなら、戸惑ったり立ち止まっていても仕方ない。まずはチャレンジして、合うか合わないかは、後から考えればいい。やってみなければ、合うかどうかも分からないですからね。

暗い顔を笑顔にするような人に


2016年5月に公開される映画『東京ボーイズコレクション』は、僕の半生を元にした映画です。脚本や編集にも携わりました。映画が完成したのは嬉しいですが、見てくれた方からどういう反応が返ってくるか不安もあります。一生懸命演じたので、「西村一輝の最初の作品はこんなものなんだな」と思いながら見てもらえたら嬉しいですね。

オーディションに応募した時は大学に通っていたのですが、東京に出て本格的に芸能活動をしていくために、大学は辞めました。中途半端にやっても仕方ありません。やるなら腹をくくろうと思ったんです。不安はありませんでした。

今は、毎日が勉強です。音楽表現の幅を広げるために演歌やポップスを中心に幅広いジャンルの音楽を聞くようにしています。また、「声」という楽器をうまく使うために、ボイストレーニングに通ったり身体の使い方を日々研究しています。

演技の面でも、生活の全てが学びにつながります。見て、聞いて、感じることが芸を磨くことにつながる。普段からいつも人の「動き」を見ています。ここが撮影現場ならどういう動きが自然なのか。日常生活の風景を、撮影時にそのまま再現できるように動きを観察します。カメラの前でもわざとらしい動きにならないよう、自然体でいることを意識しています。

生活の中でも、外国の方の接し方や表情を、特に気をつけて見ています。日本人と比べてオープンマインドで、コミュニケーションの取り方がうまいので、表情や行動がすごく勉強になるんです。

音楽、演技、モデル。何をするのも楽しいですね。それぞれの分野で「超えたい」と思う人がたくさんいます。努力して、一歩ずつ前に進んでいきたいですね。将来は、演技もポップスも歌い、バラエティにも出るようなオールマイティなエンタテイナーになりたいと思っています。「歌」や「演技」といった特定の分野でなく、全てのジャンルで人を感動させたいんです。

芸能人をただ夢見ていただけ頃はかっこいいと言われたいだけでした。今は、自分を見て感動してほしい、そういう気持ちに変わりました。

世の中では、多くの人が病気や事故で大切な存在を失い、つらい思いをしていると思います。僕も母を亡くしたので、その気持は痛いほど分かります。だからこそ、つらい状況にいる人たちに、僕の頑張る姿を見てもらいたい。僕の姿を見て「自分も頑張らなきゃ」と思い、悲しみやつらさを乗り越えてほしい。誰かを元気にして、一歩踏み出すきっかけを与えられる。そんな人間でいたいんです。

まだまだ駆け出しで人に与えられる影響は小さいかもしれませんが、つらい思いを抱いている人たちを笑顔にするような、そんなエンタテイナーになりたいです。

2016.05.23

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