研究者として、日本の古典文学に新たな発見を。翻訳家との二足のわらじ。

ブラジル生れの日系人として、ポルトガル語と日本語のバイリンガルのSuenagaさん。大学生の頃から翻訳の仕事に携わり、有名作家の作品の翻訳も手がける一方で、研究者として日本の古典に新しい発見をもたらしたいと話すSuenagaさんの半生とは?お話をお伺いしました。

Eunice Suenaga

エウニセ スエナガ|研究者、翻訳家
研究者、翻訳家。『女のいない男達』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をポルトガル語に翻訳。

日本人として育てられる


ブラジルのサンパウロ州、ガブリエルモンテイロという町で生まれました。

祖父母が日本からブラジルに移り住んだ日系の家族だったので、家では日本語で会話していました。街から離れた田舎で、一緒に遊ぶ子が周りにいなかったので、ポルトガル語をあまり使いませんでした。小学校に入るまで、ポルトガル語は聞いて分かるけれど話せない、話せるのは日本語という状況でしたね。

子どものころから祖父母から「あなたは日本人だよ」と言われて、育てられました。ブラジルの日系人は、日系人以外の人のことを外人と呼んで、自分たちは日本人と分けています。子どもの頃は自分のことを日本人だと思っていましたね。

『小学1年生』などの雑誌を親が日本から取り寄せてくれて読んでいました。周りの家族からも日本のことを聞かされ、「日本は素晴らしい所だ」「日本に行ってみたいな」と思っていました。

小学校に行くようになると、学校では「あなたはブラジル人だよ」と言われます。家族からは日本語を教えられますが、「ブラジル人なのになんで日本語を学ばないといけないんだろう」といった疑問が湧きました。中学・高校の頃は少し反発して、「日本なんてどうでもいい」という気持ちが強かったですね。

家があまり裕福ではなく、5人きょうだいの長女の私は、お金のかかる私立の高校には行けず、公立の高校に通っていました。当時のブラジルは、私立の高校でなければいい大学に進学できないという環境で、大学の選択肢があまりなく、比較的入りやすい公立のサンパウロ大学文学部に進学しました。

叔母が翻訳の仕事をしており、生活費を稼ぐために翻訳の仕事をしようと思っていたので、文学部を選びました。

日本への留学


入学当初は昼間翻訳の仕事で正社員として働き夜学に行っていました。翻訳の仕事は、最初は苦労しましたが、先輩に教えて頂いて慣れていきましたね。途中からフリーランスの仕事を始め、昼間大学に行くようになりました。

当時、単位に応じて複数の専攻が選べる制度があり、入学当初のドイツ語学科に加えて、後から日本語学科にも入りました。最終的には、ポルトガル語、ドイツ語、日本語の3つの専攻で卒業しました。ドイツ語はほとんどできませんが。

学部時代はあまり勉強をしませんでしたね。卒業が近くなり、今後の進路を考えている時に、日本の文部省(現在の文部科学省)が提供する奨学金の制度があると聞き、日本に行きたい気持ちもあって、受験しました。日本語の成績が良かったためか、試験に合格でき、東京大学に留学しました。

奨学金の試験に受かりやすいからという不純な理由で、『源氏物語』を研究テーマに選んでいたのですが、留学した当初は、読んでも全く意味が分からなかったですね。研究のやり方も論文の書き方も分かりませんでしたが、大学の先生は見守ってくれて、好きな様に研究をやらせてくれました。次第に『源氏物語』の意味が理解できる様になっていきました。

修士論文をなんとか書き終え、修士課程から博士課程に進みました。

苦労した博士課程時代


修士課程二年の時に、2年間限定で住んでいた大学の学生会館を出て、アパートを探しましたが、「外国人はダメ」と何回も断られ、苦労しましたね。

また、日本人との接し方にも戸惑いました。例えば、ブラジルでは、気軽に友達を家に招きます。友達が約束なしに突然遊びに来ることも普通です。日本では、家に遊びに行くのにお互い色々と気を遣います。なかなか距離がつかめませんでした。

博士に進んだ後は、指導教官と喧嘩したり、自分の解釈を色んな人から批判されてというのが辛くて、諦めようと思ったことが何度もありました。9年かけて博士論文を提出して修了しました。周りの方にとにかく論文を出しなさいと薦められて、なんとか出しました。

提出した博士論文は自分として満足のいくものではなかったのですが、研究自体は面白かったですね。物語を読み込んで、一般的な解釈とは違う、自分なりの解釈を発見できる。新しい発見をできることが、すごく嬉しかったです。

博士に進んで3年で奨学金が切れ、研究と並行してビジネス文書の翻訳をしたり、国際協力の仕事でアンゴラなどで通訳をしたりといった仕事をしていました。

また、在日ブラジル人を支援する会でも活動をしていました。電話で日本に住むブラジル人の方の相談に乗ったり、群馬のフェスティバルを手伝ったり。どこまで支援できたかは分かりませんが、充実感はありましたね。

子どもが生まれて、翻訳の仕事に集中するようになってから、文学作品の仕事をしたいと思うようになりました。色んな方に伝えていったところ、たまたま村上春樹さんの本の翻訳のお話を頂き、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をポルトガル語に翻訳しました。出版社の担当がすごく褒めてくれて、気分を良くして村上春樹さんの別の作品も翻訳しました。

研究者として、古典に新たな発見を


いまは、ビジネス文書や文学作品の翻訳、通訳と並行して、『土佐日記』についての論文を書いています。

研究は、「作者はこういうことを言いたかったんだ」と新たな発見があることが面白いですね。最初は、『源氏物語』や『土佐日記』が何をいおうとしてるのか全く分からなかったのですが、研究を進めているうちに少しずつ分かってきます。 他の人が発見できていないことを発見していきたいですね。

文学作品の翻訳は、元々の文章が素晴らしいので楽しいですね。日本語とポルトガル語の文法的な違いや日本語特有の言い回しなどに苦労するのですが、編集者が私のポルトガル語訳を褒めてくれるので乗せられてしまっています。水村美苗さんや川上未映子さんといった、女性作家の作品もやってみたいですし、将来は『源氏物語』をポルトガル語に翻訳してみたいですね。

ブラジルの日系人の日本に対する感情は複雑です。ブラジルにいる時は「日本は全てにおいていい場所だ」と日本を理想化しているけれども、日本に来ると外国人として扱われて、差別を受ける。ちょっとしたことでも差別だと感じてしまいます。

日本に来て「日本なんてもういい」と日本を出ようと思ったことが何回もありますが、いまは、自分の中である程度折り合いがついてきて、日本で外国人として生きています。

研究をしている時に、「外国人研究者」とはあまり言われたくないですね。外国人だから、日本人と同じ土俵で戦えない、日本人と同じレベルの研究ができない、というニュアンスを感じることがあります。私の師事した先生は、外国人であることは「個性」だと考えてくれました。外国人として扱われるのはいいですが、個性のひとつだと考えてほしいです。

2016.02.11

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