再生建築を通じて、業界の健全な発展を。正しいと思うことを貫き切り拓いた道。
古い建物を再利用し、耐震性能を現行基準まで高める建築手法、「リファイニング建築」の第一人者である青木さん。格闘家を目指していた青木さんが、革新的な手法を生み出す建築家となった経緯とは?お話を伺いました。
青木 茂
あおき しげる|建築家・首都大学東京 特任教授
株式会社 青木茂建築工房にて リファイニング建築を中心とした建築設計に携わるかたわら、首都大学東京 特任教授を務める。
※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、青木 茂さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2016年1月31日(日)18時30分から放送されます。
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少林寺拳法の師範から建築家へ
大分県蒲江町に生まれました。中学生の時、キックボクシングが流行り格闘技に関心を持ち、高校生からは空手を習いました。身体は大きくないけど、柔軟性は高いので、格闘技に向いていると思いましたね。将来は格闘家になると決めていました。
卒業後は、福岡県の私大に進み、少林寺拳法部に入りました。毎日部活に明け暮れる日々。部活のしきたりで大学内は学ランを着て歩いていました。キツい練習を乗り越え、九州大会で上位に入るなどなど、充実した学生生活を送りました。
ただ、年を重ねるに連れて、格闘家になるという目標を達成できるか、疑うようになりました。選手として格闘技を続けたいし、ゆくゆくは道場を持ちたい。だけど、能力的にプロではやっていけないかもしれないな、と。そこで、就職して働きながら格闘技を続けることにしました。
就職先は大手の建設会社に決めました。父や親戚が土木関係で働いていたので、馴染み深かったのが理由でした。会社では建築現場の監督として働きました。建物を作る現場での仕事は非常に面白かったですね。 職人さんとコミュニケーションを取りながら、ものづくりを進めること、何かを生み出すことにやりがいを感じました。
8ヶ月ほど働いた頃、土木事業を営む父から「実家に帰って家業を継いで欲しい」と連絡がありました。仕事が充実していたので家業を継ぐことには前向きになれませんでした。ただ、周りから「早く帰って手伝ったほうがいいよ」と諭され、しょうがなく会社を退職することにしました。
家業を継いでからは、仕事がつまらなくなりました。人が入る建物を作る建築現場の仕事と違い、道路やトンネルを作る土木工事現場の仕事は、専門性のない素人を集めて監督するようなものです。「職人と一緒にものづくりをしたいな」とフラストレーションが溜まりました。格闘技で憂さ晴らしをしていましたね。
4年程働いた後、仕事を辞めたいと父に伝えました。家業とはいえ、こんなことを一生続けられないと思ったんです。辞めた後のことは特に考えていませんでしたね。強いて言うなら、少林寺拳法の道場を作りたいというくらい。なんとかなるかな、という感じでした。
イタリアでの再生建築との出会い
道場を開いてみると、それだけでは食べていけないことにすぐ気づきました。道場と並行してやれる仕事を探していると、道場の弟子から建築設計の仕事をやってみたらどうかと誘われました。言われるがままに始めてみると、思っていたよりも面白さを感じました。
建設の現場仕事よりも創造性が高く、アイデアがどんどん湧いてくる。周りからは「才能があるんじゃないか」と褒められました。独学で勉強をしながら仕事を請け始め、29歳の時に地元で建築設計事務所を開きました。事務所では、木造新築の設計を中心にやりました。道場と二足のわらじでしたね。
ある時、建築雑誌が企画したヨーロッパの建築を回るツアーに参加しました。フィンランドの首都ヘルシンキからイタリアまで南下する2週間、各地の歴史的な建造物を見て回りました。
様々な建造物の中で、イタリアのカステルヴェッキオにある城は異質でした。普通、古い建造物は改修が行われていて、だいたい「明らかに手を加えたな」と分かるんですが、その城だけは違いました。後で挿入したものが馴染んでいる。全体と調和して、エレガントさすら感じました。感動しましたね。自分もこんな建築をやってみたいと思いました。
帰国後に調べてみると、その城は、既存躯体のかなりの部分に手を入れながら、再利用して長寿命化を図る「再生建築」という建築手法によって改修されていたと分かりました。すぐにその手法を試そうとしましたが、日本ではまだ根付いていない手法だったので、受け入れてもらえませんでした。再生建築が合いそうなお客さんに提案してみたのですが、ことごとく断られてしまったんです。「そんな方法知らない」「前例がない」という繰り返しでした。
正しさを貫いた結果得られた評価
イタリアで再生建築と出会って10年経ち、初めて日本でも挑戦する機会に恵まれました。潜水艦などを見つけるレーダー基地として使われていた建築を、資料館に改修する仕事でした。
設計した建物が完成した時、大きな手応えを感じましたね。洞窟のような見た目の珍しさだけでなく、建築コストが圧倒的に安いことにもとても驚かれました。再生建築は、全て解体して新築で建てるより、断然安く済むんです。業界で好評価を得ることができました。
その5年後、再生建築を用いて福祉施設や役場の設計を行いました。数十年前の建築物を再利用しながらも、耐震強度などは現在の法規に則ることを意識しました。施主のために資産価値を上げて、建物の寿命を長くしようという観点からでした。
地方の建築家にしては珍しく仕事がうまくいっていたので、建築雑誌の編集者の方から「建築関係の雑誌に連載を持たないか」と声をかけてもらいました。執筆のネタとして、過去に手がけた再生建築の資料を持っていくと、その新しさが評価され、本にしようと勧められました。そこで、自分の設計手法を「リファイニング建築」と名づけて出版してみました。業界の中で好評で、「日本建築学会賞」「BELCA賞」といった業界の賞をもらいました。
非常に驚きましたね。自分の建築手法が評価を受けたことにではなく、誰も同じことをしていないことに衝撃を受けました。リファイニング建築は、地方だから珍しいだけで、東京の建築家の間では用いられている手法だと思っていました。それが、既に普及していたリフォームなどの改修では、古い建物を改修する時に、現在の耐震基準まで耐震強度を高めることをしていなかったんですね。
「ちゃんと法に則らないとおかしいじゃないか」と純粋な気持ちで続けたことが評価を受けたんですね。正しいと思うことを貫いたことで技術やノウハウが蓄積し、それが社会に認められた。嬉しかったですね。それからは、東京を中心に、全国から依頼を頂くようになりました。
業界の健全な発展のために自分ができること
現在は、マンション・病院・公共施設など様々な建築物に対して、リファイニング建築を行っています。全て解体して新築するよりも安く済むケースが多いので、建物を壊そうか悩んでいる施主の駆け込み寺のようになっていますね。
扱うのは、だいたい30年〜80年前の建物です。コンクリート強度の問題で100件に1件くらいは対応できない場合もありますが、ほとんどのケースでは、法的に問題のない耐震性まで向上させ、建物の資産価値を高めることができます。
具体的には、古い建物の状況を調べて、「基準を満たしていない点を補強すること」「今の生活様式に合わない部分を変えること」の2つを行っています。健康診断をして、必要箇所の治療をするイメージですね。
建築設計事務所以外にも、首都大学東京研究戦略センターの特任教授として、リファイニング建築を用いた団地の資産価値向上施策の研究なども行っています。本を出してから「こういう技術は大事だ」と誘われて、東京大学で博士論文を書いたことがキッカケです。最近では韓国・中国・タイ・ブルガリアなど、海外で講演もしています。
巷ではリノベーションという言葉が溢れていますが、その中には、法的根拠がないものも多くあります。過去に有名建築士が起こした事件のように、何かあると業界の成長が阻害されます。だからこそ、正しいものを残せるように、リファイニング建築を広めていきたいと考えています。それが、業界の健全な成長に繋がると考えているんです。
67歳になり、同年代の仲間は既に定年退職しています。個人的な欲望は少なくなり、講演をすることやメディアに出ることに抵抗があります。ただ、人前に出ないことには業界が進化していきません。この技術を後生に伝えなければと思っています。
2016.01.28