教育の力で地方の子どもたちの可能性を広げる。ビジネスの世界から、教育現場の変革を。
「普通の田舎の女子高生」から「教育現場を変える」という信念を持つビジネスパーソンへと変貌を遂げた吉田さん。地方の子どもたちの可能性を広げたい、その思いの原点とは?お話を伺いました。
吉田 沙紀
よしだ さき|グローバル教育・留学事業
株式会社ベネッセコーポレーションに所属し、高校・大学向けのグローバル教育、留学事業に携わる。
人生観が180度変わったアメリカ留学
宮崎県で生まれ育ち、小中高を田舎の公立学校で過ごしました。高校時代はいまひとつ勉強にも部活にも打ち込めず、いわゆる「ぐれた」時期が続いていました。そんな私を見かねた母が、母子家庭でお金がないにも関わらず、「一か月、アメリカに行ってみたら?」と言ってくれたんです。私は決して英語に自信がある方ではなかったのですが、母に説得され、高2の夏にアメリカのサンタマリアに1か月留学することになりました。
たった1ヶ月の留学で、考え方が180度変わりました。言葉がわからなくても伝えようとすることって楽しい!とか、なんでこの人たちはこんなにフレンドリーに私の話を聞いてくれるんだろう?って。今まで知らなかった世界が一気に広がり、帰国後は、生まれて初めて自分のお小遣いで英語の辞書を買って勉強しました。留学前までは、身近にある職業に憧れて、美容師さんになれたらいいなぁとか、ピアノを習っていたから音楽の専門学校に行きたいなとか、そんなことを思っていた普通の田舎の子だったんです。でも、「きっと英語ができるようになったら世界がもっと広がる」という思いが、どんどん自分の心の中に広がっていくのを抑えられませんでした。
その時、勉強のできなかった私を支えてくれたのが、大好きな担任の英語の先生でした。私がどんなに悪いことをしても温かく叱り、どんな質問をしても優しく答えてくれるような先生でした。先生のご指導のお陰で、同志社大学の英文学科に進み、大学の奨学金を受給しながら、大好きな音楽と結婚式場のアルバイトに打ち込む生活を過ごしました。
大学2年生のとき、倫理学の授業で、ドイツやオランダ等の環境先進国で幼稚園からリサイクルなどの環境教育が盛んに行われていることを学びました。同じ時期、偶然見たテレビ番組では「暖房と冷房を同時につけたら室温はいったい何℃になるのか?」というバラエティ番組が放映されていて。世界中で環境問題が騒がれている中、なんで日本のお茶の間にはこういう番組が受け入れられるんだろう、と強い憤りを感じました。この時初めて、私たちが何気なく過ごしている日常が、地球の裏側の途上国の人々の生活を破壊しているかもしれないという意識が芽生えました。「この問題を日本の未来を担う子どもたちに伝えなくちゃ」と、純粋に思ったんですよね。そこから、グローバルな地球課題や共生について子どもたちに考えさせる「開発教育」に興味を持つようになりました。
企業だからこそ、日本中の学校現場にインパクトを広げることができる
就職活動では、結婚式場で働いていたことやもともと人を喜ばせることが好きだったことから、ウエディング関連の会社を10社以上受けたのですが、すべて撃沈。そんな中、「よく生きる」という企業理念に共感して受けた会社がベネッセコーポレーションでした。受験対策や教科指導には興味がなく、目指したいのは「子どもたちの視野と可能性を広げる」こと。だから、塾や予備校などの競合他社には当時見向きもしませんでした。エントリーシートは締切ぎりぎりの提出、面接後は毎回「ぜったい落ちた~!」と一人でトイレで泣くという悲劇も繰り返しましたが(笑)、熱苦しいほどの思いが無事に伝わり、内定を頂くことができました。
大学卒業前には、カンボジアの孤児院でのボランティアに参加しました。スナーダイ・クマエというこの孤児院は、過去に親から虐待を受けた子どもたちを日本人女性がケアしている施設でした。三日間、日本語を教えたり、折り紙をしたり、一緒にスポーツをしたりしながら子どもたちと過ごしたんですが、最終日に子どもたちが「先生になりたい」「医師になりたい」「ダンサーになりたい」と、将来の夢を目をキラキラさせて語ってくれたんです。習いたての日本語で「僕、頑張るからお姉さんも頑張ってね!」と伝えてくれて、涙が止まりませんでした。別れるのが寂しいから涙が出たのではなく、どんなに辛いバックグラウンドを持っていてもなお強く生きようとする子どもたちの姿に衝撃を受けたんです。同時に、この子たちの逞しさを日本にいる「無気力」な子どもたちに伝えることができたら、彼らの「生きる」力にも繋がるんじゃないかとも思いました。
これらの経験から、就職後は、開発途上国の問題や南北格差の実情を考えさせる開発教育やグローバル教育に力を入れたいと思いました。開発教育とグローバル教育を改革していくんだったら、まずは学校の先生にアプローチしなくてはいけない、自分が一教師として変えていくよりも、企業だからこそできる幅広いアプローチで、全国にインパクトを与えていこうって思いましたね。
学校現場に対する危機感を抱く
「学校にアプローチしたいんだったら学校現場をまず知らないといけない」。そんな思いから、入社後は学校に訪問して実際に先生・生徒と関わることのできる営業職に就き、高校を対象とした模試やアセスメントの提案営業をしました。現場では、生徒の学力や学習習慣の記録など様々なデータを見せて頂く機会が多くあります。データを見せて頂くと先生方が口をそろえておっしゃるのは、最近の生徒は本当に意欲がないというお話でした。勉強に対する意欲に限らず、将来の夢がなかったり、そもそも気力がなかったりという生徒が増え、生徒の気質の変化が生じているのです。
私の担当は兵庫県北部の都市部から離れたエリアだったんですが、ある学校で生徒の将来の夢を調査してみた結果、一位に挙がったのは「教師」だったんです。もちろんそれは、その学校の先生方が魅力的だからという面もある一方で、世の中に他にどんな職業があるのかということを知らないから、という面もあります。周りにロールモデルがいないんです。生徒さんたちは幅広い可能性を持っているのに、外の世界にある広い選択肢を知らないで進路を決めて本当にいいのかな?と疑問に感じることがありました。
これが、自分の高2の時の留学体験で感じたこととすごく重なったんです。私が宮崎から飛び出て、知らなかった世界を広げたように、開発教育やグローバル教育を通して、地方の子どもたちにもっと広い世界に興味を持って欲しいという気持ちになりました。既に開発教育に熱心に取り組んでいる英語科や社会科の先生方ももちろんいらっしゃったのですが、まだ少数派である上に、授業時数の制限やカリキュラム上の障壁からなかなか取り組むことが難しい現実がありました。
どうしたら日本に開発教育を広めることができるのか?いま世界では実際にどんな問題が起きていて、子どもたちの将来にどう影響していくのか?考えれば考えるほど、もっと勉強したいという思いが強くなり、社会人4年目で会社の留学制度に応募しました。しかし最終社長面接を通過することができず、結果は不合格。会社の制度で留学する道は途絶えてしまいましたが、開発教育やグローバル教育を普及させるという目標を達成するためにどうしても20代で留学したかったので、悩みぬいた結果、大好きだった会社を4年目の3月で退職し自費留学を決めました。
会社を退職しウガンダ、イギリスへ
退職後は語学試験の勉強に臨み、2011年7月にIELTSの目標スコアを達成。同年8月から11月までは、ウガンダで貧困層向けの小学校の校長先生のもとで、ホームステイをしながら授業アシスタントのボランティアを行いました。日本にいる時からアフリカに関する文献は読んでおり、ウガンダの小学校の就学率は隣国と比較しても比較的高めであることもわかっていたのですが、一見良く見える統計上の数字からは見えない社会文化的な問題や格差の問題が潜んでいるのではないかという仮説が拭い去れず、現地の村でインタビューや調査を行いました…するとやはり、女性が家事や育児で学校に行けないというジェンダー格差や、地方部は通学に2~3時間かかってしまい、事故や誘拐の危険にさらされているという実情を目の当たりにしました。
そこで帰国後の11~12月、ベネッセ時代にお世話になった学校を中心に講演会をして回りました。私がウガンダで学んだことをワークショップなどを通して子どもたちに伝えたい!と思ったんです。その後、2012年1月からに8月までイギリスのイースト・アングリア大学で国際開発の基礎知識を勉強し、同年10月から2013年の5月までUCL(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)の教育大学院で教育と国際開発の修士コースを履修しました。
教育大学院では、ユネスコ出身者や各国の文科省出身者が数多くいる中で切磋琢磨しながら、英国開発学勉強会(IDDP)の代表として活動しました。IDDPは日本人学生22名で構成された非営利団体で、月に一度「人権」や「医療」等といった開発学にまつわるテーマの勉強会を開催したり、外務省と連携して国際機関に就職するためのキャリアセミナーを開催したりしました。
大学院の授業が終了した6月には再びウガンダに行き、修士論文を書きながらサラヤ・イースト・アフリカという日本企業の現地法人で働きました。サラヤは、手指用のアルコール消毒剤を製造している化学メーカーです。当時、ウガンダでの安全な水の普及率は約6割。大規模の国立病院においても水不足が生じており、手や医療器具が洗えないような不潔な環境で手術や分娩が行われていました。そのため、術後の敗血症で亡くなる患者も多く、そこにアルコール消毒剤を提案し医療従事者の衛生教育を行う活動が必要だったんです。日本には水道があることが当たり前ですが、ウガンダの病院や学校にあるのは雨水の貯水タンクのみです。それまで十分な水がなく手洗いができなかった医師や看護師にとって、アルコール消毒剤はまさに魔法の液体でした。こっそり盗まれたり、空になった容器に知らぬ間に焼酎を詰め替えられていたり(笑)、いろいろな事件もありましたが、 この経験をいつか日本の子どもたちに伝えていきたいと考え、日々活動に励んでいました。
グローバルに活躍できる人財を地方から輩出したい
2013年11月に日本に帰国し、就職活動をしました。数多くの企業を見たものの、前職ほど好きな会社に巡り会えず、最終的に2014年の1月からベネッセに復職することになりました。
復職後は、海外進学カウンセラーとして、高校生を対象に海外進学のサポートを行いました。生徒は、なんとなく英語が好きとか海外で暮らしたいという憧れを抱いて相談に来るんですが、実際海外大に進学できるのは、相談にきてくれる生徒のうちたった5%なんです。生徒が進学を決めるまでに、意志を揺らがせる様々なハードルが出てきます。それを乗り越えるために、何を勉強したいのか、将来どうなりたいのか、世の中にはどんな職業があるのか、ホワイトボードいっぱいに生徒・保護者と一緒になって書き込み、考えます。海外大進学とは、「行き先」を決めるのではなく、「生き方」を決めること。「テレビで国境なき医師団の活躍を見たんですが、私に何ができますか」といった質問に来る子もいて、小さな興味の芽を潰さずにどんどん膨らませてあげられる過程が、とても楽しいんです。IDDPやウガンダで培った経験が活きました。
今後のミッションは、今まで培った知見を学校現場に落とし込んでいくことです。従来英語指導に限定されていたグローバル教育から一歩踏み込んで、論理的思考力、リーダーシップ、異文化間マネジメントなど、今後子どもたちが遭遇するであろう将来のビジネスシーンを想定した指導カリキュラムを提案していきたいです。
また、ライフワークの中でも、私が生まれ育ったような地方の子どもたちのキャリア観を育成する場を作りたいと思っています。たとえば、国連職員、開発コンサル、JICA、NGO、観光等の分野でグローバルに活躍している社会人と子どもたちとを斜めに繋ぐ接点を作ったり、開発途上国の学生たちと交流ができる機会を設けたり。そんな活動を通して地方の教育現場にグローバル教育や開発教育を広げていくことが、今後5年、10年先の私の目標です。
インタビュー:辻村隆文
2016.01.14