人として責任を持って社会と向き合う。感動創造により人の心が豊かになる社会に。
自動車関連事業を展開するオートストーリー、「人を喜ばせたい人」を応援する感激屋等、複数の会社を経営しつつ、その他にも様々なプロジェクトに関わる瀬尾さん。エンジニアとしてのキャリアに進む道がありながらも、なぜ起業家になろうと考えたのか。また、経営者として世界を知る中で、今目指しているものとは。お話を伺いました。
瀬尾 俊介
せお しゅんすけ|複数企業の経営
株式会社オートストーリー、株式会社感激屋の代表取締役を務める。また、グループ会社4社の役員を兼務しながら、フリーエージェントを支援する団体の事務局長、若手を育成する塾の幹事を務めるなど、様々な分野へ活動の場を広げている。
予想がつかない未来にワクワクする
両親はもともと香川県で暮らしていましたが、私が生まれるのと父の転勤とが重なり、私は東京で育ちました。父の仕事の関係で小学1年生から5年生までの5年間は名古屋にいましたが、その後はまた東京に戻りました。その頃から塾に通い始め、勉強にのめり込みました。小学生の間に中学校で習う範囲をほとんど終わらせてしまう程でした。
しかし、その後は、公立の中学校に入ったこともあり、勉強をしなくてもテストでいつも高得点を取れるので、退屈で、勉強をしなくなりました。それでも、高校は進学校に進めました。
高校でも勉強をしない癖は抜けず、友達と夜中にバイクで遊びに行ったり、アルバイトばかりしていました。その結果、成績はガタ落ち。大学に行く目的も見出だせず、受験する意欲も持てませんでした。
それでも、担任の先生に「進路をまだ決めてないなら、とりあえず大学に行けば良いんじゃない?」と言われ、その考えに納得し、両親も認めてくれたので、あまり深く考えずに、大学に行くことを決めました。
しかし、大学に入っても勉強には身が入りませんでした。興味の無い授業にはあまり出ないで、複数のサークルに参加したり、友人の商売を手伝ったりと、目の前の楽しいことばかりをするような計画性のない毎日。専攻していた機械工学科では、エンジニアとして車のメーカーに就職する友人が多かったので、就職活動の時期になると、何となく自分もその道に進もうかと考えていました。
ところが、ふとエンジニアとしての人生を考えた時、自分の一生がある程度イメージできてしまい、「本当にこれでいいのかな?」と感じてしまったんです。そこで、「死ぬ気でやれば、今からでも何でもできるだろう」と考え、一旦これまでの経験やできることは忘れて、世の中にはどんな仕事があるのか、ゼロから探すことにしました。
製造業、営業職、商社マン、ミュージシャン、スポーツ選手など、様々な職種の先輩社会人に会いに行き、リアルな仕事の話を伺いました。 その中で、ピンと来たのが、起業家でした。将来を予測できない、未来を切り拓いていく生き方にワクワクしたんです。
それからは、「起業するためには何が必要なのか?」を考えて、行動するようになりました。社会人と学生が交流するイベントを開いたり、お世話になっていた社長からの紹介で、上場企業の社長にマンツーマンで会っていただいたりもしました。
最終的な就職先は、飲食店を経営する会社に決めました。最初は飲食業に興味はありませんでしたが、社長の1日の仕事を見学したり、色々な話を伺っているうちに、飲食店の店長という仕事は、経営に必要な知識と経験が得られる、とても勉強になる仕事だと気づいたんです。
中途半端には辞められない
非常勤講師の先生の大胆な行動により、大学卒業の直前で留年となってしまうハプニングもありましたが、社長から通学しながらの勤務を勧められ、5年目は大学に1コマだけ通いつつ、他の新入社員と同じように働き始めました。そして、ありがたいことに、1年目から新店舗の立ち上げという大役を任されました。
飲食事業部の店舗に入ってからは、「感動創造の追求」という会社の理念に従って、お客様に喜んでもらえることを、常に考えて仕事をしていました。寒い日の帰りに使い捨てカイロを渡したり、急な雨の時にビニール傘を用意してプレゼントしたりするサービスを思いつき、実行に移しました。また、忙しくてもお客様が見えなくなるまで見送るなど、できることは何でもしました。
毎日のように来てくれるお客様もできて、苦手だった接客の仕事が、徐々に楽しくなっていきました。
しかし、3年目に異動して店長を務めた店舗では、大きな苦労をしました。会社が経営していた複数の飲食店は、どの店舗も非常にレベルが高かったのですが、私が新しく配属された店舗も、成果発表をする全国大会にて、グループ500店舗の中で優勝するような実力。アルバイトスタッフは、それまでのやり方にプライドを持っていて、すでに独自の文化を築いていたこともあり、私の考え方ややり方を、なかなか受け入れてもらえなかったんです。
スタッフとギクシャクし始め、酷い時は多くのスタッフから無視されることもあり、お店に行こうと考えるだけで吐き気がするような状況でした。それでも、売上だけは意地でも落とさないようにしようと頑張り、坪あたりの売上は、同業態のチェーン店100店舗の中で1位をキープしました。
そんな中で、目標としていた独立の時期である、入社3年目を迎えましたが、まだ辞めるわけにはいきませんでした。この中途半端な状況で辞めてしまったら、後悔する。そう思い、もう1年間挑戦することにしたんです。
この1年に全てを賭けようと腹をくくり、スタッフ全員と個人面談をして、これから自分がどんなお店をつくりたいかを話しました。正直、全員辞めてしまうことも覚悟しましたが、半分ほどのメンバーが残ってくれました。
体制を一新してからは、できることを全てやりました。人手不足を解決するために、よく行くお店の店員さんをスカウトしたり、アルバイトスタッフに友達を紹介してもらったりもしました。朝から面接や開店準備をして、午前2時半の閉店後もスタッフと色んな話をし、毎日20時間以上お店にいました。とにかく良いお店を作ること、目標を達成することだけを考えて行動していました。
すると、どんどんお店の雰囲気が良くなり、スタッフの協力もあり、目標以上の圧倒的な売上、結果を達成できました。そして、起業するため、4年間勤めた会社を退職しました。
騙されて数千万円の損失を出してしまう
会社で働いている時は、目の前の仕事に集中しようと思っていたので、起業の具体的なプランはありませんでした。そこで、知り合いの経営コンサルタントにも相談しながら、プランを考えていき、最終的に「自動車」の事業を行うと決めました。
私は自動車が好きで、自分の好きなことを仕事にするのが理想だと考えたんです。大変な時でも、好きなことであれば続けられるだろうと。
そして、「株式会社オートストーリー」を立ち上げ、車の個人売買の仲介業をスタートしました。ただ、それなりの売上が作れるようにはなったものの、それ以上発展するイメージが持てず、開業半年ほどで新しい事業に着手しました。
アメリカで開発中だった電気自動車のスーパーカーを日本で売りたいと考えましたが、高級車の輸入販売には様々な高いハードルがあり、まずは車を海外に輸出する事業からスタートすることにしました。それまでの個人売買の仲介のノウハウを応用しながら、海外向けのWEBサイトへの中古車情報の掲載などにより、事業は順調に成長していきました。
ところが、ある時、安易に受け入れていた外国人スタッフに騙されてしまいました。お客様からのクレームが続き、不審に思い調べてみたら、様々な不正が明らかになりました。お客様の要望とは違う安い型の車を送っていたり、会社の名前で発行された請求書の振込先がスタッフの個人口座になっていたりと、次から次へと問題が発覚。それが意図的にやられていたことに気づいた時には、すでに海外に逃げられていて、数千万円にものぼる損失を出してしまいました。
当然、海外のお客様からはクレームの嵐で、毎日電話が鳴り止まらず、電話対応をするだけの日々が、1週間程続きました。電話対応しかできないので、問題解決はいっこうに進まず、お客様の怒りは積もるばかり。また、その噂を聞きつけて、被害者を装ってお金を請求しようとする輩も出てきました。
お客様には、「時間はかかるかも知れませんが、最後まで誠意を持って対応するので時間を下さい」とお詫びを続けました。会社を倒産させて終わらせることもできる。けれども、それは、逃げであり、社会やお客様に対して無責任な行為。可能性がゼロにならない限りは、諦めずにやり続けると決意しました。
事業の方向転換と、「人を喜ばせたい人」を応援する仕事
その一件で会社の信用がなくなり、車の輸出事業を続けるのは難しい状態でした。そこで、少しずつ依頼が増え始めていた、国内での中古車販売に注力分野をシフトしました。
国内の販売においては、知識も経験も乏しく、他の車屋さんと比べて選んでもらえる要素はほとんどありません。そのため、お客様からの相談は、無理なお願いも、「ノー」とは言わずに全て受けました。
ある時、「お金が無いけど車が必要で、どうしたら良いですか?」という相談を受けました。状況を詳しく聞いていると、「創業したばかりで信用もないのでリースも組めない」と言います。無茶な相談でした。(笑)
しかし、この相談も断らず「自分には何をしてあげられるかな?」と考え、自社の社用車を格安で貸してあげることにしました。 それが喜ばれ、次第に「追加で貸して欲しい」、「知り合いを紹介しても良いですか?」など様々な要望も出てきたので、きちんと仕組みを作り事業化することにしました。そこから、「リース」と「レンタル」の中間の、「車の賃貸」という新しい形のサービスとして徐々に成長していきました。
車の事業は、「車を売る仕事」というよりは「車というツールにより、人生を豊かにするお手伝いをする」という考え方でずっと仕事をしてきました。一方で、もっと直接的に「関わる人の人生を豊かにする」というテーマに沿った事業をできたら良いなと考えていました。
その構想を、仕事のかたわらで色んな人に話していると、賛同者がどんどん増えていきました。ただ、忙しさからなかなか手をつけられずにいました。すると、しびれを切らした友人に、「前から話していた事業ですが、そろそろ始めませんか?」と言われてしまったんです。
もしここで言い訳をしたら、いつまで経ってもやらないなと反省しました。 そこで、とにかく動き始めようと、まずは週に1回、賛同してくれたメンバーとミーティングをすることから始めました。アイデアを出し合ったり、1週間の中で経験した感動体験を共有したりしました。
そして、徐々に具体的な事業として展開できそうな状況になってきたので、「株式会社感激屋」を立ち上げ、人を喜ばせる為のアイデアの情報提供、サプライズの演出、特別なギフトの商品企画、開発などの事業を始めました。
より大きな影響を作れることを優先的に
現在は、代表取締役を務めるオートストーリーと感激屋に加えて、グループ会社の経営アドバイス、ビジネスマッチングの促進を行う団体の理事もしています。
他にも、経済的に自立できる人を増やす取り組みも仕事の一環で行っています。日本ではお金に対する教育がしっかり行われていないので、お金に対してネガティブなイメージを持つ人も少なくありません。しかし、今の社会においてお金は必要な物ですし、上手に使うと便利な道具です。社会貢献を志す「良い人」が「お金」に対してきちんと向き合い、うまく活用できるようになってもらいたいですね。
また、今後の目標のひとつとして、世界中の全ての国に会社を作ろうと考えています。出張で海外に行くと、その国独自の文化や経済状況に合った様々な事業のアイデアが湧いてきます。そのアイデアをひとつずつ形にしていき、世界の架け橋になりたいと思っています。
そのような目標もあるので、ここ数年は、2ヶ月に1回は海外に行くと決めて、自分の視野を広めようとしてきました。すると、ニュースや新聞では知り得ないたくさんの情報に触れる機会がありました。知ったことには責任が生まれます。放っておくと害のある事を見て見ぬふりをするのは、自分が直接害のある行動を取るのと同じくらい無責任な行為だと、先輩方から教えられてきました。
自分の未熟さから結果的にご迷惑を掛けることがあるかもしれませんが、できる限り無責任なことはしたくありません。自分の選択、行動が社会に対してどのような影響を与えているかを考えて行動をしています。
色々な事を同時進行で進めているので、周りの人からは「よく混乱しないね」と言われますけど、私の中での優先順位は明確です。長い目でみて、大きな影響を生み出せる可能性のあることを優先的にやっているだけです。個人的な都合や利益よりも、より多くの人、社会に対して自分には何が出来るかを考え、行動するようにしています。
まだまだやりたいこと、やるべきことは沢山ありますが、自分の人生の中で使うことのできる限られた時間を、優先順位を考えながら、大切に使っていきたいと思います。
2015.12.24