一人一人に寄り添った車いす作りを続けていく。先代の思いを守りながら、新たな挑戦を。

プロ車いすテニス選手の国枝慎吾さんなど、多くのアスリートが利用する車いすの製造・販売を行う、オーエックスエンジニアリングの二代目社長を務める石井さん。 車いすで生活をしながら、自らがカッコいいと思うものづくりに打ち込む父の姿に影響を受けた学生時代。進路を摸索しながら父の会社に入り、現場で見えた製品の価値。2代目を継ぐ覚悟を決め、新たな挑戦を続ける背景にある思いとは?

石井 勝之

いしい まさゆき|車いすメーカー経営
車いす、フォールディングバイク他、美しく高性能な製品の企画開発、製造を行う株式会社オーエックスエンジニアリングの代表取締役を務める。

※本チャンネルは、TBSテレビ「夢の扉+」の協力でお届けしました。
TBSテレビ「夢の扉+」で、石井 勝之さんの活動に密着したドキュメンタリーが、
2015年12月20日(日)18時30分から放送されます。

番組公式HPはこちら
番組公式Facebookはこちら

影響を受けた父の姿と専門学校の中退


千葉県千葉市に生まれました。父がオートバイの店を経営しており、仕事の都合で幼稚園に入る前に東京に引っ越しました。1階がお店で2階が自宅という環境だったので、車やオートバイが身近にあり、父と話をする機会も多かったですね。商売の話から趣味の話まで、毎日長い時間喋っていました。父と息子というよりももっと近い距離感でした。

父は私が3歳の時に交通事故で脊髄を損傷し、物心がついてからはずっと車いすに乗っていました。幸い手や腕には障害がなく、大体のことは自分でしていました。「車いすだから○○ができない」ということを言わない性格でした。また、1985年から自分で車いす自体を作り始め、1994年にはオートバイの店を閉めて、千葉に戻って車いすの製造・販売事業を始めました。

商売に打ち込む父と接する中で、漠然と将来は商売に携わりたいと考えるようになっていきました。自分で考えだした価値を、社会に届けたいと思っていましたね。ただ、将来の夢は特にありませんでした。与えられた環境の中で楽しさを見つけ出す方が向いている性格でした。

高校を卒業した後は、コンピューターの専門学校に進みました。小さい頃から、自宅のパソコンでゲームをすることが好きで、パソコン自体にも興味がありました。ゲームを起動するために足りない部品を秋葉原に自分で買いに行くこともあるくらいで、機械いじりが好きでした。

しかし、専門学校は、想像と違うものでした。趣味としてコンピューターは好きでしたがずっとパソコンの前に座って作業することを仕事にするのには違和感を覚えたんです。父の姿が頭にあり、人間と人間が向き合うことを仕事にしたいと感じました。「自分はこっちじゃないな」と。

アルバイトで始めたおもちゃ屋さんでの接客にやりがいを感じたことも一つの理由でした。お客さんに自分から声をかけて、自分なりの提案をしたことが販売やお客さんから喜んでいただることに結びつくことに面白さを感じました。

20歳の時に専門学校を中退することに決めました。

製造から販売まで広く携わる日々


しばらくアルバイト生活を続けていましたが、ある時、父から「自転車の事業をやるからお前やってみないか?」と言われ、二つ返事で入社を決めました。「小さい頃から知っている人が何人かいるから、いいかな」というぐらいの感覚で、深くは考えずに決めましたね。

入社後は、自転車の事業ではなく競技用車いすの事業の配属となりました。職人気質な社員が多く、下積みの毎日でした。オーダーメイドの受注生産商品で、商品ごとに納期が毎回変わります。納期に間に合わせるために、毎日深夜まで働きました。父は社長として社員の意向に反する様な挑戦もしていたので、その分、息子である私に対して、周りの社員から厳しく当たられることもありました。創業家の辛さを感じましたが、仕事は非常に楽しかったですね。アルミのパイプが一台の車いすになっていくものづくりの工程を、先輩方との人間関係の中で作り上げていくことにやりがいを感じました。

その後、新潟のグループ会社に出向し、日常用の車いす作りと並行して、自動車部門の新規立ち上げに携わりました。辞令を受けて1週間後に布団とテレビだけ車に積んで引っ越す、というような有り様でしたが、与えられた環境を楽しむ性格が幸いし、なんとかやっていくことができました。

新潟に行って3年程経つと、今度は、製造した車いすなどを販売する子会社の社長に就くことになりました。工場から販売店へ、全く異なる業種に環境が変わりました。「社長をやれ」と突然父から言われたときは正直戸惑いましたが、息子とはいえサラリーマンなので、従うよりほかありません。「やるしかないな」と覚悟を決めました。

マネジメントの経験など全くありません。自分がアルバイトをしていた時の上司を思い出しながら、人との向き合い方をそれまで以上により深く考えていきました。販売店ということもあり、どうやって売上を上げていくかも考えなければいけません。工場の時は製品と向き合っていましたが、販売の現場で、お客様の立場に立って商品を提案することを意識するようになりました。

直接お客様と接するようになり、自分の会社や製品がお客様にどのように思われているのか、良い面も悪い面も含めて知ることができ、とても勉強になりました。ご購入いただいた方から、「コンパクトな車いすに買い替えたことで生活が楽になった」という声をいただいたり、「軽い車いすに買い替えたことで、自分で車いすを車内に載せられるようになった」という話をいただけたりすることは励みにつながりました。

自分以外の社員が起こした問題も社長である自分が解決しなければいけないという、責任の重さを感じる時もありました。それでも3名から5名の組織を食べさせていけるだけの手応えは掴んでいきました。

父が亡くなった後も、人に喜ばれる会社を続けていきたい


子会社社長として販売に力を入れていた2011年11月、父にがんが見つかり、余命を宣告されました。仕事が人生そのものだった父は、がんが判明した後も仕事を続けていました

その年の臨時取締役会で、「社長をやらないか」という打診を受けましたが、私は断りました。自分がやりたいかやりたくないかに関わらず、実力のある人間がなるべきで私にはまだ実力が足りないと考えていました。また、70名以上の社員の生活を守る責任の重さに耐えられませんでした。営業マン個人にお客様がつくので、自分が販売の現場を離れることに対する不安もありました。会議の後、自宅に帰ってから3・4時間の説得を受けました。それでも、気持ちは変わりませんでした。

1年後の2012年の年末、父は亡くなりました。元旦から葬儀の手配を行い、1月の臨時取締役会で社長のポストについて議論になりました。依然迷いはありましたが、最終的には、「父が始めたことなので、最後までやろう」と、思いを固め、社長になることを決めました。年齢も社歴も私より上の社員を引っ張っていくことへのプレッシャーを感じましたが、会社の借入を背負っていく役目は創業家である自分が担うべきだと考えました。そして何より、父が亡くなった後もずっと、この会社を続けて行きたいという思いがありました。販売店でお客様と直接接する中で、厳しいご意見をいただくこともありましたが、多くの方に喜んで頂いているのが分かりました。そういった声を頂ける会社なんだということに、私自身喜びを感じていたんです。

副社長に指導係を引き受けてもらい、取締役も社員も同じ方向を向いて再度スタートを切りました。先代が大切にしていた、競技用車いすのアスリートへのサポートや、メカニックとしての大会支援も、私の代でも引き継いでいくことに決めました。お金はかかっても、やらなければいけないことがある。それをやることを、「自分たちの会社らしさ」として社員が誇りに思っている。そう気づきました。そうやって一人一人が持つ情熱を保ちながら、ロマンだけでなく、中長期に向けた投資も始めていきました。

守るべきものと新たに生み出すもの


現在は、父が立ち上げた車いすメーカーの株式会社オーエックスエンジニアリングで、これまでの会社の文化を守りながら、新しい挑戦をしていくことに力を割いています。車いす生産台数のうち、約9割が日常生活用で、残りの1割が競技用です。ほとんどの製品がオーダーメイドで、お客様の障害や身長・体重、生活様式を伺った上でご提案をして、ご注文を頂いています。製品を売って終わりではなく、売った後が大事です。お客様に満足いただけるように、住まいや通勤環境について、1人のお客様に対して2時間以上かけてお話を伺います。製品は真似出来ても、その背景にある思想や、価値観に基づいて行うアフターサポートは、真似できないものだと思います。

競技用車いすは、プロ車いすテニス選手の国枝慎吾さんなど、多くの選手に利用していただいています。海外からの注文も多数いただいています。この規模の会社で世界にチャレンジできる会社は少ないですし、自分たちの製品がパラリンピックの出場やメダルに直接繋がるので、本当にやりがいがあります。

福祉機器という視点で考えると、車体に色が着いている必要はないのかもしれません。ただ、元を辿ればオートバイの会社なので、カッコよさにこだわりがあります。そのこだわりを持ちながら、市場が何を求めているかを考えて新商品開発に繋げていきたいですね。直近では、車いすのお子さんに車いすスポーツの楽しさを知って楽しんでいただけるように、これまでよりも低価格の子ども向け競技用車いすを開発しました。車いすスポーツの市場全体を盛り上げていきたいですね。

私は、福祉業界に新しいものを打ち出すのは、私たちでなければいけないと思っています。新しいものを作り出して、他社に真似されるぐらいが、「オーエックスらしさ」だと思うんです。大量生産では作れない、お客様に寄り添ったものづくりを続けることで、最高のサービスを提供し続けたいと思っています。これまでの思いを守りながら、先代がやっていなかったことに挑戦して、成功したいですね。

2015.12.14

ライフストーリーをさがす
fbtw

お気に入りを利用するにはログインしてください

another life.にログイン(無料)すると、お気に入りの記事を保存して、マイページからいつでも見ることができます。

※携帯電話キャリアのアドレスの場合メールが届かない場合がございます

感想メッセージはanother life.編集部で確認いたします。掲載者の方に内容をお伝えする場合もございます。誹謗中傷や営業、勧誘、個人への問い合わせ等はお送りいたしませんのでご了承ください。また、返信をお約束するものでもございません。

共感や応援の気持ちをSNSでシェアしませんか?