「普通の人」にとってのヒーローになる。フィリピン留学の変革に込めた、生きる意味。

フィリピンのセブ島にて、世界で通用する英語を学ぶための語学学校を運営する中西さん。プロ野球選手・ミュージシャンと夢を掲げながらも、人から与えられた夢に熱中できずに道を摸索する日々。そんな中、自ら生きる意味を考えて辿りついた答えと、海外での起業。「普通の人にとってのヒーロー」を目指す背景にある思いとは?

中西 佑樹

なかにし ゆうき|フィリピン・セブ島の語学学校経営
フィリピンのセブ島にて、世界で通用する英語を学ぶための語学学校「Brighture English Academy」を運営する株式会社ENLinkの代表取締役を務める。

プロ野球選手からミュージシャンへの方向転換


私は大阪府東大阪市に生まれました。父が昔から野球をやっていたので、小さい頃からよく連れられて野球を見に行きましたね。小学3年生で野球を始め、強豪のクラブチームに入りました。将来はプロになりたいと思って練習や試合に打ち込み、キャプテンを務めて中学2年の時には推薦で高校の入学も決まり、結果にも恵まれました。

その後、中学3年の夏にチームを引退してからは、それまでがすごく忙しかった分、遊び始めるようになりました。ちょうど文化祭を直前に控えた時期ということもあり、友人に誘われてギターを練習し、「ゆず」の曲を演奏することになったんです。

いざギターや歌の練習を始めると、今までとは全く違う体験に、どんどん面白さを感じるようになっていきました。ギターを弾ける人が周りに少ないので、夜に市役所の前で練習をしていると同級生の女の子に話しかけられることもあり、自ら曲を作るようにもなっていきました。

すると、文化祭が終わった後に、相方から「一緒に音楽をやらないか?」と誘われたんです。私は熊本の学校に野球推薦での進学が決まっていたため、卒業までの期間だけという条件付きで、音楽活動を始めました。ところが、実際に活動を始めてみると、どんどん音楽への思いは強くなっていきました。正直、野球が好きで好きで打ち込んでいるという状態でなかったこともあり、高校に入ってからも音楽をしたいと考えるようになっていったんです。

そこで、関係する方々に謝罪して推薦をお断りし、経済的にも迷惑をかけないようにするため、公立高校に合格できるよう10月から必死に勉強を始めました。そもそも勉強の必要性が無いと思っていた分、内申書に相当足を引っ張られてしまいながらも、定員割れだった学校を狙って受験し、学区内の上位校に進学することができたんです。奇跡のような展開でした。

高校に進学してからは、授業が終わると路上に歌いにいく日々。スポーツからはきっぱりと離れ、ライブを開いたりオリジナル曲を作ったり、精力的に活動していきました。大学受験の影響もあり、勉強の習慣はできていたものの、自分は音楽をしているのだから勉強をする必要はないと考え、卒業後は音楽一本でやっていくことに決めました。路上ライブをしているところを新聞に取材されたり、ストリートミュージシャンが出演する全国放送のテレビで演奏したりするなど、本格的に音楽の道に進んでいきました。

与えられた夢が無くなり、危機感が募る日々


卒業後はフリーターとしてパチンコ屋やコンビ二で働きながら、ライブやストリートを中心に音楽活動を続けていきました。しかし、そんな生活を1年程続けたある時、相方が予定していたライブに来ず、連絡が取れなくなってしまったんです。しばらくして連絡が繋がると、精神的な病気にかかってしまったことが分かり、「人前では歌えないから、歌を作るほうに回りたい」という希望を受けて体制を変えることに決めました。

ところが、再スタートした新体制も2ヶ月で頓挫し、結果的に解散することに。それから個人で活動を始めてみても、全く音楽に気持ちが入りませんでした。よく考えてみると、音楽をやっているのに自分では全く音楽を聴かず、身を任せてやっているだけだったんです。また与えられた夢を追いかけていたんですよね。そこで、「なんで音楽やっているのかな…」という気持ちが募っていき、つなぎ止めていた気持ちが離れてからはフラフラと日々を過ごすようになりました。周りはそこそこ良い大学に進学、就職活動の話も聞こえてくる中、「しょうもない人生になってしまったな、そろそろ何か働かなければ」と考えるようになりました。

そして、服が好きだったこともあり、募集があったアパレルブランドに契約社員として入社することに決めました。成人式の時に着ていたスーツのブランドという程度の縁で、ずっとその業界でという思いは無かったものの、せめて目の前のことを一生懸命やろうと考え、西日本で一番大きな店舗で接客に励みました。

元々、服が好きで憧れを抱いていたこともあり、仕事には高揚感があり、どういう形でお客様と接すれば良いのかを考え、目標のために没頭していきました。そして、実際に営業成績で西日本ナンバーワンを獲得することが出来たんです。ところが、大きなゴールが無くなった後に残ったのは「今後の自分はどうなるんだろう?」という気持ちでした。

自分は、人に影響を与えるために生きている


西日本ナンバーワンを取っても、契約社員として働いていたため給料は変わりませんでした。自社商品の着用が必須で手取りも少なく、転職を考えるようになりました。営業でやっていける自信がつき、もっと自分がやっただけ返ってくる環境に身を置きたいと思ったんです。

そんな折、不動産業界で働くお客様から、「それだけ売れるなら不動産がいいんじゃないか?」という話をされ、関心を抱くようになりました。また、一人暮らしの家を引き払う際の立ち会いの方からも「不動産収益が面白い」という言葉をもらい、それらをキッカケに転職活動を始め、最終的には収益マンションという言葉が並んでいた8人の会社に転職を決めました。

ところが、実際に働き始めてみると、業務内容は一棟を対象とした管理代行の会社で、「あれ、なんか違うな」と感じました。それでも、気持ちを切り替えて仕事に打ち込んでいくと、ボトムアップ社風の会社で、良い意味で全てを任せてもらうことが出来ました。

人生において仕事とは、という哲学の部分を大切にする会社だったこともあり、自分自身、自らの人生について色々と考えるようになりました。

また、仕事に必要となる宅建の勉強を始め、高校時代に培った勉強の習慣が蘇り、しばらく勉強から離れていたのにも関わらず、1年で取得をすることができました。

それが自分の中で小さな成功体験となり、「やったらできるな」と少しずつ自信がついていきました。仕事では社長に次ぐポストを任せていただけるようになり、宅建の後は中小企業診断士の勉強を始めるようにもなりました。

しかし、同時に「何故資格ばかり追いかけているんだろう?」という思いも抱くようになりました。もっと実際に使えることを勉強したい、と。

すると、ちょうどそのタイミングでBBT大学(ビジネス・ブレークスルー大学)という通信制の大学を見つけました。応募締め切りの1日前という状況だったのですが、すぐに決めて社長にも許可をいただき、試験に合格してからは仕事と並行して大学に通い始めました。

事業に直結する勉強ができているという手応えに加えて、同級生からも良い刺激を受けましたね。また、自分についての考えも深まっていき、死ぬ時に「出会って良かった」と言われる人になりたいという目標が定まりました。

人が生まれてきて残せるものは人への影響しかない、自分自身それで人生が変わったし、自分が生まれてきた意味は影響を与えるためなんだ。そんな風に生きる意味まで立ち戻って納得した後に感じたのは、自分のように「普通」の人は多いんじゃないかということでした。そして、だからこそ、普通の人がサクセスストーリーを歩めれば多くの人に影響を与えられるのではないかと感じたんです。

そこで、「普通の人にとってのヒーローになる」という目標を掲げ、仕事と学業のニ軸で自分を高めていくことを決めました。

セブ島への語学留学での違和感、29歳で独立へ


次の目標として掲げたのは、海外の大学院への進学でした。ただ、一度も海外に行ったことが無いため、まずは海外で勉強をする経験を、とフィリピンのセブ島への留学を決めました。

会社から休みをもらい4週間のプログラムで渡航しました。リゾートのイメージを持っていましたが、いざ現地に着いてみると、想像とかけ離れた景色に愕然としましたね。初海外ということもあり、日本ではできない体験の連続に、刺激的な時間を過ごしました。

ところが、主目的だった語学習得には違和感を感じていました。英語付きレジャーという感覚で、英語がメインではないような内容だったんです。また、日本人の経営者の方が英語が堪能でなく、トラブルへの対応が遅く、質に対しての感覚が鈍っているような印象を受けました。

また、カリキュラムがほとんど無く、おしゃべりをするだけということがこたえました。英語学習のプロではなく、カリキュラムも他校のものを二次利用しているような状況でした。「会社を休んでいっているのに、こんなことをしてていいのかな」という危機感すら募るようになりました。

「この状況はここだけのことだろうか」と、他の学校を色々尋ねてみても、ほぼ全て同じような状況であることが分かりました。それを知ってからは、自ら学校を作ろうと考えるようになりました。フィリピンでは、貧しさのために勉強をすることができない子どもがいます。そういったことを知って、日本では得られない価値観を学ぶ機会がたくさんあります。英会話に留まらず、もっと大きな価値を提供できると感じたんです。

帰国後、社長に話をして、2人で再び現地を訪れました。その時に、現地でお会いした方から、私たちと同じように学校を作りたいと考えている松井さんという方を紹介していただきました。松井さんも、知り合いの方からセブ留学の話を聞いて同じような課題を感じたとのことで、パートナーを探しているとのことでした。

実際に会って話をして、すぐに一緒に学校を立ち上げることが決まりました。松井さんは、以前米・アップル本社のシニアマネージャーとして働いていてビジネスの第一線で必要な英語のカリキュラムを作ることができ、まさに私が探していたパートナーでもありました。一緒にセブに滞在した1週間で学校の場所も決まり、実際に新しく会社を立ち上げることに決めました。経営者を目指していた訳ではありませんでしたが、パートナーもタイミングも全て合わさり、29歳で挑戦に踏み切りました。

普通の人にとってのヒーローに


現在は株式会社ENLinkの代表として、セブ島にBrighture English Academyという語学学校を運営しています。対象としているのは主に社会人で、よくあるフレーズ暗記とロールプレイではなく、ビジネスの現場で実際に使われる英語を教えています。怒る時のトーンや会議の時の踏み込み方等を扱うので、外資系でバリバリ英語を使う方が多いですね。試験で点が取れても実践が出来ない人はいますが、逆はありません。だからこそ、実践的な英語力の向上に厳しく取り組んでいます。また、独自のカリキュラムとして、留学前に英語学習のゴールと留学のゴールを決めてもらっています。英語学習のコンサルティングも併せて提供するイメージに近いです。

実際にセブ島に移住してみて、食べ物のストレス等、生活の面で大変さを感じることはありました。ビジネス環境という意味でも、日本での当たり前が通じないことも多く、適応に苦しんだこともあります。

それでも、実際に入学した方が「以前通った他の学校と全然違う」と言っていただけたことが本当に嬉しいです。中には、生徒さんが企画をして学校の説明会を日本で開いてくれることもあり、作り上げていく過程の楽しさも感じています。日本人が海外で活躍できるようになるにはマインドも大事だと考えているので、価値観教育の領域での取り組みも行っていこうとしています。

誰しも子どもの頃に影響を受けたヒーローがいると思うのですが、大人になってからそういう対象がいなくなったように感じます。私はエリートではありません。でも、そういう人の言葉だからこそ信じられるんじゃないかと思うんです。ビジネスで成功すること、学歴はいつからでも作れることを示すことで、普通の人にとってのヒーローになりたいです。

まずはこの語学学校を広げていき、個人としては大学院への進学も変わらず考えています。そして、一層影響力を養い、自分の軸に沿って次の機会に繋げていきたいです。

2015.12.04

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