育ててもらった恩を返したい。一人でも多くの学生を海外留学の道へ。
学習塾を運営する傍ら、全国の塾と提携し中高生を中心とした留学支援のネットワークづくりに邁進されている大場さん。メーカーでの海外駐在、県議会議員等を経て留学支援に取り組まれる背景にある思いとは?お話を伺いました。
大場 規之
おおば のりゆき|留学支援ネットワークの運営
ISC留学net代表。株式会社ライトハウスエデュケーション取締役会長を務める。
強烈な体験をしたアメリカ留学
静岡県で生まれ育ちました。小さい頃から好奇心が強く、小学生の頃から大工道具を使って使いやすく工夫をした家具をつくるなど、つくることが好きな子供でしたね。
高校2年生の時に怪我をして入院を強いられ、留年することになったのですが、それによって授業を受ける必要のなくなった3学期を利用して、一念発起してアメリカにホームステイに行きました。一人で高校生が海外に行くというのは非常に珍しい時代でした。
憧れのアメリカ。ロサンゼルスのビバリーヒルズで留学生活がスタートしましたが、驚いたことに、現地に着くまで住まいの情報を得られませんでした。
豪邸の一部屋に住み込み、家主が飼っている4頭のシェパードの面倒を見る代わりに無料でホームステイ。なかば奉公するような形で住まわせてもらいました。奉公くらいでしかビバリーヒルズで生活ができるわけがありませんでした。お犬様に粗相があっては大変と、必死で犬の世話をしました。一日中犬が相手ですから、会話力は伸びようがありません。英語が学べないとか、寂しいだとかは思う余裕もなく、憧れのアメリカにいる事だけが救いでした。
そんな中でも、時間を見つけてはバスでダウンタウンに出かけ、現地で友達を作る努力をしました。その結果、ビバリーヒルズでの滞在の後は、知り合った友達を訪ねてサンフランシスコ、バンクーバー、シアトルに行きましたが、その都度現地で航空券を手配していきました。
3ヶ月という短い時間でしたが、全て自分でやっていかなければならない状況の中で、「自分で何とかする」という感覚が身についたことが大きな収穫でしたね。
日本の片田舎からアメリカの大都市のロサンゼルスに出て、日本とアメリカの違いにも驚きました。地下鉄の駅で、昨日まで会社のエリートだったようなスーツ姿の男性が、半分涙を浮かべながら、下手な歌を一人歌い、物乞いしている。生きることの厳しさを感じ、強烈な体験でした。
海外で社会人としての力を身につける
高校卒業後は、昔からものづくりが好きだったこともあり、慶應大学の理工学部に進学しました。長期休暇には地元の静岡に戻り和田塾という小中高生を対象とする学習塾で講師としてアルバイトをしましたが、和田塾の代表である和田には可愛がってもらいました。和田は私の10歳上でしたが、2人でレンタカーを借りて、2週間で16000キロ走破してアメリカ横断をしたりもしましたね。
大学卒業後は、機器メーカーの堀場製作所へと入社しました。入社時から強く海外勤務を希望しており、2年目から海外駐在を経験させてもらいました。
フランスの子会社に日本人の第1号、しかも1人で送り込まれ、日本の本社からのお目付役のような形で経理の責任者として駐在しました。25歳で赴任しましたが、親子ほど年の離れた百戦錬磨の現地フランス人のCEOをはじめとした経営陣を相手に、成果を出さなければいけませんでした。
日本の本社からは、フランス子会社の状況を報告せよという指示が出ていましたが、実際に私が現地でしたことは「日本の本社のために働いているのではない」ということを、現地のフランス人社員に理解してもらい、それを裏付ける仕事をすることでした。まずは、信用してもらうために、ギブ&テイクではなく、「ギブ&ギブ、そしてギブ」の姿勢で望み、次第に先方からも手を差し伸べてくれるようになりました。
自分の手で社会を変えられるという実感
堀場製作所に7年弱勤めた後、家庭の事情もあり故郷の静岡に帰りました。和田から声をかけられ和田塾の仕事をしていましたが、戻って8年ほど経った2001年、県議会議員の議席が空くことになり周囲から推される形で立候補し当選しました。
いざ議員になってみると、地域のあらゆるニーズに応えていくために全ての業界・全ての社会の動きに対してエキスパートにならなければならず、苦労はしましたが、世の中の仕組みを理解でき視野が広がりました。
自分の手で社会を変えていくことに対して心理的ハードルが低くなったことが議員時代の大きな収穫でした。やろうと思えば現実に何とか実現できるんだ、と。
2年間の任期を終えた後の選挙では、再選確実と言われていたものの、選挙戦での陣営同士の駆け引きが災いし、落選。周囲は落選すると思っておらず、私自身も突然無職になり動揺しましたが、幸いなことに地元の建設会社から落選が決まった開票の翌日に声をかけて頂き、一番に誘って頂いたご縁で役員として就職しました。一度政治の世界に入ると民間には戻れないと言われる中、早々に戻れたことに本当に感謝したものです。建設会社には6年ほど勤めましたが、全国128社からなる建設会社のネットワーク作り等、ここでも色々な事にチャレンジし、創りだす経験をさせてもらいました。
想いを決めた留学体験者の言葉
和田とは、ずっと親交が続いていました。2008年12月、和田が余命半年のがんと診断され、和田から和田塾の代表を継いで欲しいと依頼されました。葛藤はありましたが、お世話になった建設会社を辞めて2009年4月より和田塾の代表に就任。その後、和田は2009年8月に亡くなりました。
和田塾は学習塾事業とともに海外留学支援事業に30年以上取り組んでいましたが、留学支援事業を継続していくかどうかが代表就任時の喫緊の課題でした。当時、和田塾全体の収益のうち、海外留学支援事業の占める割合は3〜4%程度。留学者数はリーマンショックの影響を受けて大幅に減り、市場が縮小していました。このまま細々と続けて行くか、いっそ止めてしまうか、事業を拡大していくか。相当悩みました。
半年ほど迷っていた頃、実際に留学した方の話を聞いてみたいと思い、愛知からニュージーランドの大学に留学をした留学生に、留学をして良かったかと聞いてみました。しばらく考えた後、最初に出てきた一言が「私は友達をなくしてしまいました」でした。
ニュージーランドの大学に留学して、最近2年半ぶりに地元の高校で仲のよかった友達に会った。久しぶりに会った同級生達と話すと、彼女達の話題は彼氏との関係やアルバイト、大学でいかに楽をして単位をとるかといったことばかり。一方で、ニュージーランドの大学の仲間達は将来何をやりたいかを真剣に考えて、みな大学での課題に死に物狂いで取り組んで勉強している。その中で自分も同級生と刺激し合い助け合いながら奮闘している。留学して本当に良かったと思う。残念だけど友達との距離ができてしまった。。
そう言うんです。海外で悪戦苦闘した私自身の経験も重なり、彼女の言葉は衝撃的でした。もし彼女が留学に行かずに地元の愛知に残っていたら、そのまま埋もれていってしまったかもしれない。それが、留学したことで厳しい環境にもまれてたくましくなり、大きく羽ばたこうとしている。
彼女の答えを聞いて、本当に感動しました。人が育つというのはこういうことなんだ、と。和田塾で続けてきた留学支援事業を拡げていこう、培ってきた力と経験を活かして1人でも多くの人を海外留学の道に送り出そう、と心を決めました。
一人でも留学に踏み出せる人を増やしたい
それからは猛烈な勢いで留学支援のネットワークづくりに邁進し、2ヶ月で、京都から甲府までの10拠点で留学支援のネットワークを立ち上げました。大変でしたが、やらなきゃいけないという思いで必死でした。立ち上げから6年弱経った現在では81拠点にまで拡大し、日本全国47都道府県全てに拠点があります。
塾は親御さんやお子さんにとって教育について頼れる場所です。地方には、高校や大学の留学、長期の語学研修などの「進路としての留学」について、専門知識を持ち安心して相談できるところが殆どありません。全国の塾と提携してネットワークを作り和田塾の培ってきたノウハウを使えるようにする。親御さんやお子さんが留学について地元の塾で相談できる。そうすることで、何かと不安の多い留学に対して安心して踏み出せる方が増えると信じています。
留学支援事業自体は、大きなビジネスにならないものですが、私自身が海外に育てられた恩を返したいという想いで、一人でも多くのお子さんを海外に送り出していければと思っています。
2015.11.26