占い師の立場から女性の自立支援を。勉強と変化で、アウトローから拓けた道のり。

占い師を中心にサロンを展開して、女性の自立支援を行う霜田さん。アウトローな学生時代、編集者を経験して占い師になった経緯や、自立支援を行うようになったきっかけとは?お話を伺いました。

霜田 厚子

しもだ あつこ|占い師
占い師、高田馬場の「annaの占いサロン」で鑑定と教室を展開。女性の自立支援も行っている。

学校の雰囲気に馴染めず、アウトローな生活 


私は東京都新宿区で生まれ、小さい頃からたび重なる引っ越しをしました。小学校に入学してからも関東・東海地方と転校を繰り返し、故郷や幼馴染というものがありませんでした。中学校でこれ以上は転校したくないという想いが強くなり栃木県にある私立の中高一貫ミッションスクールに入学しました。

ところが、ミッションスクールのお嬢様学校という雰囲気や伝統的な制度が肌に合わず、徐々に学校から離れていきました。アウトローな生活をしており、中学高校時代はほぼ学校に行かなくなりましたね。ロック喫茶に入りびたり、自分で書いた詩を路上販売したりしました。

それでも、学校生活の中で唯一演劇だけは力を入れていました。実は、授業中の朗読が得意分野で、シスターが才能を見出してくれたんです。校内の演劇祭では主役に選ばれたり、声を生かして放送部に入ったりもしました。

そんな日々だったため、当然高校卒業時は出席日数が足りず、卒業式後にも出席単位稼ぎで学校に通っていました。そのため、大学進学自体は元々頭になかったです。シスターからは、「朗読の表現力を生かして、劇団に入ってはどうか?」という勧めもありましたが、表現の世界に興味はあるものの、人前に出るのは好きではなかったのです。

高校生頃から東京のアンダーグラウンドカルチャーに接していたので、卒業してからは東京に出ていきました。カウンターカルチャーの聖地西荻窪を拠点に、ベトナム戦争の反戦から始まった、ヒッピー文化を吸収したかったのです。私は戦時中の苦労をした両親から、その反動のように金銭的な豊かさを受けて育ったので、金銭に支配されないことが大切かなと思いました。商業主義を捨てるヒッピー文化もそのひとつでしたね。

また、幼少の頃の経験から社会は保守的で、変わろうとしないと感じていました。引っ越しが多く、どの土地でも異星人だったため、世の中を窮屈に感じていたんです。もっと自由に、のびのびと生きるには「自分だけの表現」を、周囲の大人がいなくても生きていける「仕事」として持ちたいと思っていました。それが、表現の世界に入ったきっかけでした。

そこで、その夢にも近づこうと、編集のアルバイトをしたいと思い始めたのですが、高卒未経験では求人がなく、エディタースクール3ヶ月間コースに通いました。校正、レイアウトなどの編集のハード部分を学べる学校です。それからは、編集アルバイトをしながらカウンターカルチャーの世界に触れていきました。瞑想や精神世界など、自分の内面への興味が大きかったと思います。生産的でないことにしか興味がありませんでしたから、社会からはドロップアウトですね。

海外に行き目覚めた30代


やがて数年経ち、もっと本格的に勉強し直したいと考えるようになったんです。特に、美術・音楽・文芸の3表現のなかで、美術、しかもデザインが一番自分にフィットしていると考えていました。そこで、改めて学校に通う決心をしました。

23歳でデッサンを習い、24歳で桑沢デザイン研究所のビジアルデザイン科に入学しました。少々遅いスタートでしたが、他の生徒も美大卒や染色家など年齢が高く、熱気にあふれていました。中・高校ではあれほど嫌いだった学校を、初めて楽しいと感じましたね。夜間部だったので、入学してすぐにデザイン事務所でアシスタントをスタートしました。

ただ、アシスタント1か月で自分がデザイナーには向いていないことが分かりました。当時はまだPCがなく、すべてが手作業だったのです。線1本引くのにもロットリングを使わなくてはならず、不器用な私は手作業に苦労しました。

子弟制度も厳しく就職をしてもアシスタント止まりではないかと、内心は挫折を感じていました。それでも、桑沢卒業までの2年間はデザイン事務所でアシスタント修行をしました。

卒業後は、デザイナーは目指しませんでした。知人の紹介によりデザインのできる編集者として故・清野徹率いる執筆家集団に入ったのです。小学生から周囲となじめずに、本ばかり読んでいたのがここで役にたちました。明治から現代までの文学を題材とした、書籍執筆だったからです。『絶対いいわけ辞典』『くどきの言葉辞典』『遊辞典』(角川書店)『人生を豊かにする言葉』(PHP)など共著を多数出版しました。

ときには、「こんな感じで?」とラフデザインを提案して、書籍全体のコンセプトをまかされることもありました。手作業は苦手でも誌面構成や色彩など、デザインを学んでよかったと思いました。仕事が終わると、清野さんに連れられて作家のたまり場に繰り出す、そんな編集者時代を過ごしました。

また、仕事以外ではパフォーマンスやアーティストの写真を撮っていました。その縁から、ピナバウシュの86年初来日時に、ホテルではなく一般の家に泊まりたいというヴッパタール舞踏団のダンサーをゲストに迎えることもありました。

翌年にはドイツのヴッパタールを訪れ、前年にゲストに迎えたジャンの家に滞在しました。舞踏団の稽古場、ジャンの家、他のメンバーの家も、古い石の家でした。世界中から集まったダンサーと交流し、まず、驚いたのは、女性が実に堂々としていることです。はっきりと自分の意見を言う姿に圧倒されました。

また、人々はみな未婚で、女性は男性と対等でした。住居や環境への考えも、まったく日本と異なり、日本人が子供に思えましたね。

その翌年にも、ドイツの田舎やイタリアにも滞在しましたが、都市部だけではなくどの地域でも、会社に行かずに事務所をもって仕事をしている人々が多かったのです。

彼らがアーティストだからではなく、工員やシェフでも自立し誇りをもっていたんです。それ以来、「自立、対等、自由」が私の人生の指針になり、何があっても方向転換できる精神力がつき、大きな転機となりました。

何かあったら勉強をするスタンスで乗り切った40代


80年代後半からのバブル期の時代は、ヘッドハンティングが横行していました。その波に乗るかのように、33歳で採用広告に転職しました。表舞台に出なくてよい、編集や執筆の仕事は合っていたものの、広告の世界への憧れも残っていたのです。ただ、営業がもってくる仕事を、競合プレゼンをして勝ち取るのは大変でしたね。放送局のグループ会社だったのですが、女性のクリエイティブディレクターは私を含めて2名しかおらず、孤軍奮闘の連続でした。編集にくらべて、訴求力や予算がケタ違いに大きかったので、スケールの大きい仕事をした実感はありました。

ただ、最後までスタッフの調整は苦手でした。結局、2年で退職して35歳でフリーランスに。のれん分けのような形で、クライアントの予算をいただけたので、企業寄りのスタンスだったのでしょう。

しかし、40歳で時代の流れととともに紙の仕事がなくなりました。そこで、Webへ視野を広げてみました。Eコマースの幕開けの時代に、某ドラッグストアにて業務請負で商品紹介とともに、スポーツコンテンツを執筆することになりました。当初は検索エンジン対策のコピーライティングを試作して欲しいという依頼でした。やがて業務として運動指導士を取得するなど、幅広い仕事をまかされました。5年経過して会社が上場するタイミングでストックオプションを付与され契約終了となりました。

その後、健康系の会社でコンテンツ制作行うものの、Eコマースの創成期にかかわった時のような魅力を感じられず再び方向性に悩みましたね。

ただ、これまでも紆余曲折を経験してましたが、迷ったときは勉強すれば道が開けるということを体感していました。というのも、人は回遊魚のように、新しい環境に順応しながら成長していきます。「場所」や「職業」「人間関係」を変えるのも人生を変える手段ですが、勉強が一番効率のよい成長の手段だからです。あたり前のことですが、勉強をすれば知識が増えていままでになかった発想が湧いてきますからね。

そこで、健康系を極めようと、理学療法士の学校に入学しました。ところが4年次のインターンで落ちてしまったのです。師弟関係が苦手だったんですね。人間関係の癖は留年したからといって修復されないので、きっぱりとあきらめて退学しました。ストックオプションで付与された金額は年間の学費と生活費でさっぱりと使い果してしまい、「またコピーでも書くか!」と覚悟していました。

そんな中で、ふと占い師という仕事が浮かんできました。「占い師が相談者にあれこれ探りを入れるのは、インタビューの延長線上では?」。そういえば、『おまじないラッキーブック』(青春出版社刊)という書籍も編集していました。足はすでに占いの学校に向かっていました。

占い師として、女性の自立を支援していきたい


占いを習って1年くらい、都内で対面鑑定を始めて数カ月すると、ぼちぼちと行列ができるようになってきました。その手腕を買われ、全国に50店舗を持つ占い館本部に入社し店舗マネージャーとして運営にかかわりました。占い師の管理や、日々の集金などルーティンワークがほとんどです。これだったら、自分でやった方がよいと思い1年足らずでやめ、新しくアンナの占いサロンの主宰となりました。

現在はシェアオフィスを利用して「アンナの占いサロン」を運営しています。占いは口コミが強いのですよ。月例の企業イベントでの出会いや、昔からのお客様のつながりが要となります。前職の店舗マネージャーでは、顧客単価を上げる、リピーターを作ることが任務でしたが、このサロンでは顧客といっしょに成長していくことに重きをおいています。

占い鑑定を受けると、たいていの方はポジティブな気持ちになります。悩みを話して、解決のアドバイスを聞いていくからです。しかし、現実はなにも解決していない。だから、何度も占いに訪れるのです。

自分の問題は「自分で占う」ことをお勧めしています。悩みを解決できるように、自立してほしいのです。そのために、占い教室も実施しています。

実際に占い教室にいらっしゃる方は、派遣社員や主婦の方も多いです。現職にやりがいを感じなく、「何か始めなければ」と。社会のニーズに応じたものを実現していく男性思考に対し、「自分のやりたいことを実現する。」という女性思考は、社会に認められることを前提としない、自由な表現なのではないかなと考えています。

そう考えると、引っ越しや出産などライフステージが変わっても、自分で開業していける占い業はそんな女性にぴったりなんです。「会社の休日にイベント占い」「子供が小さいので夜は電話占い」「マッサージ業にタロットカウンセリングを併せたい」「帰省して故郷で占いを」と本業や副業として占いを選んでいる感じです。

今は対面鑑定と占い教室がかみ合って、人とお金が動いていき「好きなことを仕事にする」というスタンスとして成功しています。

私がデザインや医療の学校など、各種学校に通っていたのは、「勉強すれば人生は変わる」と思っているから。正直、一つのことを継続できないことで落ち込んでいたこともありましたが、「細胞は生まれ変わり、変化は美。細胞の再生サイクルあるように、つねに変動して成長していくこと。止まったら終わってしまう。」ということに気付いたのです。なので、これと思ったことは積極的に取り入れて行っています。

また、学生の頃はアウトローな生活をしていましたが、シスターが強みを見出してくれたおかげで、学生生活の思い出ができました。これからもこのスクールでは、「自分の周囲から占いをして、やがて収入に結び付けていく」というテーマで、好きなことで自立できるように応援していきます。


※インタビュー:松岡 佑季

2015.11.19

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